西から帰るか東から帰るか 【ADHDは荒野を目指す】
3-18.
パキスタンを離れ、約四か月振りにタイのバンコクに戻って来た僕は、そこで暫く滞留することにします。
日本に戻って働くことが嫌だった――というのは勿論ありますが、それ以上に、丁度夏休み時期に入っていた為、安い航空券が中々確保出来なかったせいです。
今のように、誰でもスマートフォンで気軽に格安航空券が取れる時代ではありません。幾つかの旅行代理店に日参し、少しでも安いチケットを探す。そんな毎日です。
当時のバンコクは、安い航空券を求めて、あらゆる旅行者が集まる場所でした。
そこで僕は、多くの日本人旅行者に出会います。
彼らの一部は旅を終えて日本に戻ろうとしており、残りはまだ旅を続けようとしています。
オーストラリアに渡り、農場で働く予定のもの。日本に戻り、休職していた会社に戻ろうとするもの。タイの島に渡り、大麻漬けの生活を送ろうとするもの。日本に戻り、家業の焼き芋屋を継ごうというもの。
ある旅行者は、僕に語ります。
――日本を出て三年、様々な出来事を乗り越えて、ついに南アフリカ最南端、喜望峰に到着した。そこで涙が止まらなくなり、一時間ほど泣き続けていた……。
他の旅行者は言います。
――タイで遊んでいたのに、彼女から電話があって、妊娠したと言われた。だからすぐに帰って結婚して就職する。
――インドのある街で大麻所持で捕まって、裁判を受けていたせいで、三か月その街から出られなくなった。幸い無罪になったのでこうやって戻って来れた。タイは自由に大麻を吸えて本当に最高だ。
色々な人がいて、色々な人生がある。
そしてそれぞれが、ちゃんとした考えがあって、ちゃんと生きているように思えます。
厳しい旅をする人は、そうやって自分を鍛え上げようとしている。
享楽的な旅をする人であっても、それこそが人生で最も大事なことだと信じて、純粋に生きている。
それに対して、この僕はどうだ?
自分を鍛えようと思ったわけでもなく、ただ楽しもうと思ったわけでもない。何かをしようとしながら何も出来ず、アジア数か国をウロウロしただけのこと。
そして今更日本で働きたくなくて、うじうじ悩んでいる……。
そんなある日。
暇つぶしに入ったネットカフェにおいて、僕は、大きく気持ちを動かす、二通のメールを受け取ることになります。
一つは、父親からの物です。
滅多にメールなどしない上に、非常に折り合いの悪い彼からのもの。
僕は少し怯えながら、恐る恐るそのメールを開きます。
そこには、恐れていたような、早く帰って来いだとか、早く仕事をしろだとかの、文面はありませんでした。
ただ、書かれていたのです――昨年、僕が仕事を辞め、引き払った部屋に関して、不動産業者から、原状回復の為の料金十万円の督促状が来たので、肩代わりしておいた、というもの。
嫌な気持ちが、一気に胸に広がります。
勿論僕は部屋をよく汚してしまうADHDですが、原状回復に十万円もするようなことはしていない。そもそも家賃も低い物件、扱う不動産業者も怪しいものだった。世間知らずの若者に、吹っ掛けて来ただけのことでしょう。
腐った奴らだ、と思います。
そしてそれ以上に、親にまた負担をかけてしまったことが、心に重い物をもたらします。
両親が嫌いでならず、ずっと反発してきたくせに、いい年して、未だにこんなことで助けて貰っている。
そんな自分が情けなくてならない。
そんな暗い気持ちをもたらした一通目のメールに対して、二通目は、まるで趣が違うものでした。
それは、かつて旅で出会った、ある女性からの物でした。
仕事を辞めたので、今からエジプトに向かう。そこから南下してケニアまで行き、キリマンジャロ山に登ろうと思う。
でも女性一人で行くのは余りに厳しい。もしべいしゃんが今まだ西アジアにいるなら、どこかで合流して一緒に旅しないか、というもの。
これは、と僕は息を呑みます。
勿論、女性の一人旅は非常に危険であるため、男性に同行を頼むことはよくある話です。別に他意はないケースは多い。
けれども、それが、エジプトからケニアとなると――少なくとも一か月ほどの旅になる。
しかも、そんなルートには、他に旅行者も少ない――つまり、ずっと二人きり。
これは――つまり、そういう可能性がかなり高いということ。
――急いでエジプトに行こう!
――いやいや。待て待て。
それは駄目に決まっている。
僕は旅は終えて、日本に帰って、一刻も早く就職をしなければならないのだ。
女性の尻を追いかけて、アフリカくんだりまで行くなんて、あり得ない。
いや、でも。
日本に帰ったって、行きたい場所もないし、したい仕事もない。
仲の良くない親と顔を合わせながら、面白くもない仕事をする毎日を送るのは――本当に嫌だ。
それに、僕は「いつでも帰宅途上」じゃないか。東に行こうが西に行こうが、全ては、帰宅するまでの寄り道に過ぎない。
そうそう、それに、女性の一人旅なんて危なすぎる。自分が行って同行してあげないと、彼女も大変なことにもなりかねない……。
いや、でも。
今日本に帰らないと、僕はいよいよ社会復帰が出来ないかも……。
東の日本に向かうか、西のエジプトに行くか。
バンコクの夜、ひどく効きの悪い冷房の風にあたりながら、僕は頭を抱えます。
けれどもそんな時。
一人の旅行者から、僕は一つの話を聞かされます。
――エジプトには、旅行者に出来る仕事があるぞ、と。
心が、決まりました。
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