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失踪した九歳の娘を探さない父親 【ADHDは荒野を目指す】

 8-30.

 ADHDであるために、日本社会に馴染めなかった僕は。

 バックパッカーとして二十代を過ごした後、台湾人女性と結婚したのを機に台北に移住、日本人向け学習塾を開業。
 その後十年近くの間、順調に黒字を上げ続けます。

 しかし、台湾人妻と離婚することになり。
 さらにその数年後、自己管理の出来なさの為に、元妻の家族によって三千万円を超える資産や、会社の権利等、全ての物を奪われてしまう。

 それでも、どうにか会社を作り直し、軌道に乗せることに成功しますが。

 やがて、台湾もコロナ禍に陥る。
 リモート以外の仕事がなくなった僕は、暇を持て余してしまいます。

 そんな折、ひょんなことから、大正時代台北で起こった、九歳の日本人少女・中山美枝の失踪事件を知る。
 この事件について調べていると。

 日本統治時代の台湾総督府が発行した公文書の中に、中山美枝の父・中山富次郎の資料を発見します。

 資料に含まれていた履歴書を元に、この中山富次郎の経歴を簡単に追ってみると

 明治二十年(1887年)、茨城県真壁郡の鹿見家の五男として誕生。後に中山家の養子に入り、中山姓になります。

 東京の大学で薬剤について学び、明治四十五年(1912年)数え二十六歳にして、三つ年下の同郷の女性・大圃みよと結婚。

 翌年、陸軍三等薬剤官として、台湾に赴任。台湾総督府所属の専売局に、技手として勤めます。

 その四年後の大正六年(1917年)、長女の美枝が生まれます。
 中山富次郎は既に31歳、妻も28歳。当時としては、結構な高齢での初子でしょう。
 しかも、彼ら夫婦には、この一人しか子供が生まれませんでした。

 その後も、中山富次郎は台湾専売局での勤務を十年以上続け、順調に昇給。
 大正十四年一月には、「技手」から「技師」に出世するのです。

 履歴書の記載は、ここまで。

 この大正十四年こそが、前述の「中山美枝失踪事件」の発生した年。
 夏七月、九歳の娘が忽然と消え去るのですが。


 さらに資料を探すと。

 同大正十四年十一月の日付で、「診断証書」というものが見つかりました。
 中山富次郎の病状について、岡田という医師が記したものです。

 病名は、「神経衰弱」。

 元々、三年ほど前から、アメーバ赤痢のような症状が出ていたのですが。
 この大正十四年夏から、顔色が悪くなり。
 指先が震え、膝蓋腱反射が過剰に。
 常に頭痛があり、不眠症・健忘症もあり。
 集中力もなく、心拍も速い、という有様。

 数か月にわたり、食事療法や、睡眠薬投与など行ってきましたが、病状は改善することなく。

 退官もやむなし、という診断です。


 そして、次の資料が。
 中山富次郎に対する恩給に関する物。

 恩給とは、当時の年金のようなもので。
 公務員が、勤務中に死亡したり、病気にかかったり退職したり場合に支払われるもの。
 この資料によると、中山富次郎には、三か月分・百六十二円が支払われています。

 つまり。
 中山富次郎は、娘の失踪直後に、神経を病み。

 その後退職、恩給を受け取るようになった、ということ。


 これを読んで、僕は、首を傾げたのです。


 勿論、娘の失踪は衝撃的な出来事です。神経を病んで退職するのは、勿論理解出来る。

 しかし、どうしても理解出来ないことがあるのです。

 娘の失踪は、大正十四年七月十日です。

 中山富次郎が退職したのは大正十四年十二月十六日であり、恩給を申請したのは、その六日後の二十二日です。

 そして、その恩給を申請した際の、中山富次郎の現住所が。
 ――『茨城県真壁郡』になっているのです。

 その書類が提出されたのが、茨城の下館郵便局であるのを見ても。
 その時中山富次郎が、台湾ではなく、茨城県にいたのは、確実なことなのです。


 つまり。
 娘の失踪事件から、僅か五か月後。
 彼は故郷に帰国してしまっている、ということなのです。

 普通に考えれば、これはかなり奇妙なことではないでしょうか。

 仕事を辞めるのは、十分に理解出来ます。
 そうして時間を作り、行方不明の娘の所在を探すことに専念する――というのは、他に聞いたことがあるような話です。


 ところが、この中山富次郎は、退職後娘を探すどころか。

 失踪の僅か五か月後には、故郷へと戻ってしまったのです。

 勿論、警察は捜索を続けてくれているでしょうし、もしかしたら奥さんは台湾に残ったのかも知れない。

 でも、一家の主である父親が、その場からいなくなったのは、間違いない事実なのです。


 こういうものに、相場、というのがあるかどうかは分かりませんが。

 現在の法律では、行方不明の家族に関して、失踪宣告が出来るのは、七年もの月日が必要なのです。

 ましてや、行方不明であるのが幼い子供、しかも歳を取ってから出来た一人娘であれば――七年やそこらで、諦められるようなものではないでしょう。

 父親は、十年でも二十年でも、懸命に探し続けるのではないか。
 そう、思えるのに。

 彼は、さっさと故郷に戻ってしまったのです。


 一体どういう心理でこういうことになったのか?

 それを知りたくて。
 僕は、さらに色々調べますが。

 ――流石に百年も昔の話。

 残念ながら、何も見つかりません。


 中山富次郎の心理も、中山美枝の行く末も、何も分からないのです。
 

 ただ、唯一出来たこと、と言えば。

 茨城県の官報にて。

 失踪事件の十年ほど後、中山富次郎なる人物が、真壁のある学校に教師として着任した、ということと。
 その数年後、下館にある女子学校の教師に転任した、という記載を見つけたことぐらい。

 件の中山富次郎は、技師になれるような知識人ですし。
 彼の故郷と下館は非常に近いことから言っても。
 これが、その中山富次郎本人であることは間違いないでしょう。

 つまり彼は、台湾を去った後。
 故郷に住んだまま、教師として平穏に暮らしていた可能性が高いのです。


 ――娘が、行方不明であるままなのに。

 彼は何故、必死に娘を探さなかったのでしょうか?


 それが全く分からないままに。

 コロナ禍の台湾で、他に出来ることもなく。
 僕はそこで、調査を終えたのでした。

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