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ザンビアの女警官にフラれる 【ADHDは荒野を目指す】

 3-30.

 ザンビアの駅の中、一人ベンチに腰掛け、呆然としていた僕に対して、声をかけてくれたのは――やはり、あの欧米人男性でした。

 入国審査を終えた彼は、微笑みを浮かべながら、大丈夫か、と僕に尋ねます。
 僕は彼を見上げます。

 金髪に金色の髭、細身の体にバックパックを背負う、若い旅行者です。

 僕はようやく気付いて、窮地を救ってくれたことへのお礼を言います。

 彼は笑顔で頷くと、フィリップ、ドイツ人、と名乗って手を差し出します。僕も急いで自分の名前と国籍を伝え、その手を握ります。

 そして、本当に申し訳ないが、と僕は言います。

 ――首都に行く為の交通費も、貸して貰えないだろうか。
 ――首都に行けば日本大使館がある、そこでお金を借りて、君にはすぐに返す。

 勿論大丈夫だ、とフィリップは言います。

 ――どうせルサカまでタクシーで行くつもりだった。だから、君を乗せても値段は変わらないし、問題はない。

 多分嘘だ、と僕は思います。彼は僕と大差のない、汚い格好をしたバックパッカーです。
 二百キロもの道のりを、タクシーで行くなんてことはあり得ない。

 でも、勿論そんなことは僕には口にしません。
 では行こうか、と僕は立ち上がろうとした時です。

 ――盗難証明書が必要ではないのか?

 フィリップがそう言いました。
 ああそうだ、と僕は慌てて頷きます。

 そう、確かパスポートやカードの再発行には、盗難証明書が必要不可欠でした。そしてそれは、管轄の警察で入手しなければなりません。

 そしてここは小さな駅であるとはいえ、国際列車が発着する場所です。見回すと、案の定、ポリスと書かれた看板のある部屋が目に入りました。

 ――急いで発行して貰ってくる。申し訳ないが、少し待っていてくれないか?

 フィリップは笑顔で頷き、ベンチに腰かけました。
 僕は小走りでその部屋に向かいます。

 その部屋は、ごく普通のオフィスのようでした。
 四つ並んだデスクに四人の人。警察の制服を着ているのは一人もいません。

 僕が急いで、列車で全てを盗まれたと伝えると、太った男性が大きく頷きます。

 ――睡眠薬強盗だな。
 ――毎週同じ事件があるんだ。
 ――君は迂闊に食事をするからいけないんだ。
 ――君はもっと警戒しないとな。
 ――盗まれた物はまず見つからないな。

 お前たち警察の仕事は何なのだ――という怒りの念も湧きません。
 ただ、余りフィリップを待たせてはいけない――彼に置いて行かれたら終わりだ、という焦りの気持ちがあるだけ。

 僕はただ言います――盗難証明書を発行して欲しい、と。

 男は頷くと、では準備するので座って待っていてくれ、と言います。
 僕は頷き、パイプ椅子に腰かけます。

 しかし、待てども待てども、何も起こらない。
 焦りがつのる。

 我慢しきれず、まだなのかと問いかけますが、忙しいからまあ待てと言われるだけ。

 三十分ほどして、ようやく一人の女性が立ち上がり、これに名前と年齢、国籍、そして盗まれた品のリストを書いてと言って、僕に一枚の紙を渡しました。

 僕は懸命に記憶をたどり、その紙を埋めます。
 パスポート、現金、キャッシュカード、それらはそれなりに正確に書けますが、バックパックの中身に関しては、正確に思い出すのも難しい。ましてや、その評価額も書けとなると、ただ面倒です。適当に書き散らして、急いで女性に提出します。

 女性はそれを受け取ると、機械の前に座りました。そしてボタンを押す――そのたびに、カシャ、カシャ、と音がする。
 タイプライターだ、僕は少し驚きます。まだ現役だったとは。

 それでも、女性の指使いは素早い物です。
 これならもうすぐ盗難証明書が仕上がる――そう思った、その時です。

 突如入り口の方が騒がしくなったかと思うと、大勢の人々がどかどかと入ってきました。

 驚いて眺めると、数人の女性が、一人の男性を室内に引っ張り込むところ。

 室内の人々が立ち上がりその女性達に声を掛けると、彼女達は凄まじい勢いで何かを答えます。

 そして突然、女性の一人が、その男性を殴り始めました。
 男性は悲鳴をあげますが、抵抗をしません――見ると、手を縄で縛られている。

 女性はまた殴ります。男性はまた悲鳴を上げます。女性が殴る、男性が悲鳴を上げる。

 どうみても、ただの暴力です。私刑です。
 僕は驚いて警察官の方を見ますが、彼らは女性を制止しようとはしない――むしろ、にこやかとも言える表情で、女性の殴打を見守っています。
 周囲の女性達はヒートアップしています――男性が殴られるたびに、甲高い歓声のような声をあげる。

 そんな騒動がしばらく続き――ようやく静まり返ったのは、外から制服を着た警察官が入って来て、その男性に手錠をかけて連行して行ってから、です。
 その頃には僕も、警察官から話を聞き、状況を理解していました。

 どうやらあの男性が、殴りつけていた女性をレイプしたらしい。それに激高した女達が、結束してその男性を捕まえ、私刑に及んだ末に、警察に引き渡したらしい。

 そんなものを目の当たりにした僕は、色んな意味で恐怖を覚えますが――もっと大きな恐怖に気付きます。
 この部屋に入ってから、既に一時間以上が経過している――余りに長すぎる。
 僕は警察官たちに、すぐに戻って来るから、と断りを入れて、急いで元いた場所に戻ります。

 有難いことに、フィリップはベンチに腰掛けたまま、笑顔で僕を迎えてくれます。

 ――長らく待たせて本当に申し訳ない、でもまだ手間取っていて、もう少し時間がかかりそうだ。本当に申し訳ない。

僕のそんな言葉に、フィリップは笑います。
 ――気にする必要はない。君は大変な思いをしているのだから。

 僕はただ、有難うと言うしか出来ず、すぐに振り返って、急いで警察署に戻ります。

 中では、警察官達が談笑をしています。
 僕が戻って来たのを見て、太った男性が、向かいの女性に英語で言いました。

 ――じゃあ、この日本人と結婚したらどうだ?

 どうしてよ、と女性が金切り声をあげました。
 ――絶対に嫌よ、日本人となんか、絶対に嫌!

 吐き捨てるように言います。

 そこに差別心があるのか、単純に僕の容姿が彼女の好みではなかったのかは分かりませんが、ここまではっきりと言われると、流石に胸に来るものがあります。

 僕は俯き、何も言わず、書類の完成をただ待ちます。


 待ち望んだ盗難証明書が発行されるまで、都合二時間ほどかかったでしょうか。

 ようやく渡されたそれには、幾つかのスペルミスはありましたが、それを訂正するだけの余裕は、僕にはありませんでした。
 軽く礼を言い、部屋から飛び出します。

 フィリップは、相変わらずベンチの上で、僕を笑顔で迎えてくれます。


 そして僕達は、タクシーに乗り込みました。 

 ――このままでは、ルサカに着くのは夜七時頃になってしまうだろうね。
 フィリップが言います。

 ――多分もう日本大使館は閉まっている。だから、今日は僕の行くつもりのゲストハウスに、一緒に泊まればいい。そこで日本大使館の場所を調べて、明朝朝一番でそこに行けば良いよ。


 僕はただ頷くことしか出来ません。


 そして八時過ぎ、ようやくタクシーはルサカに到着しました。
 目当てのゲストハウスの前で、タクシーを降ります。

 幸い、宿泊費は後払いのゲストハウスでした。また借金せずに済んだとホッとします。

 そして僕は、そのままベッドで眠ろうとします。
 精神的にも、肉体的に、限界が来ていました。

 しかしそんな僕を、フィリップが引き留めます。

 ――君は全然食事を取っていないだろう? このゲストハウスでは軽食が買えるから、それをご馳走してあげるよ。


 僕は少し考えて――それを断ります。

 流石にこれ以上お世話になりたくない、という思いもありましたが、それ以前に、まるで腹が減っていないのです。 

 全ての物を失った上に、危うく逮捕されそうになった一日。

 とんでもない経験をして、アドレナリンが分泌され続けた一日、未だにそれが体の中に残っているのでしょう。

 食欲がない、と言う僕に、じゃあ、とフィリップが言いました。

 ――せめてこれだけでも、飲んで。

 彼は、良く冷えたコーラ瓶を渡してくれました。


 そう言えば――今日一日、何も食べていないだけではない。何も飲んでもいない。

 僕は礼を言って、それに口をつけます。
 一気に、その冷たさが、その美味しさが、体中に染み込んで来ました。

 その途端、一気に色んな感情が吹き出てきます。

 それが表面に出ないよう必死に堪えながら、僕はそのコーラを、一口一口、ゆっくりと飲み干したのでした。

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