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大正期の台湾における少女失踪事件を調べ始めるADHD 【ADHDは荒野を目指す】

 8-29.

 ADHDであるために、日本社会に馴染めなかった僕は。

 バックパッカーとして二十代を過ごした後、台湾人女性と結婚したのを機に台北に移住、日本人向け学習塾を開業。
 その後十年近くの間、順調に黒字を上げ続けます。

 しかし、台湾人妻と離婚することになり。
 さらにその数年後、自己管理の出来なさの為に、元妻の家族によって三千万円を超える資産や、会社の権利等、全ての物を奪われてしまう。

 それでも、親からの借金を元手に、どうにか生活を立て直し。
 大手塾に裏切られたり、不法就労中に調査員に踏み込まれたりなどの紆余曲折はありましたが。
 一年半後には新たな塾を創設、軌道に乗せることが出来ました。

 元妻の家族相手の裁判は、会社ごと奪い取られてしまっていたため必要な証拠全てを相手に握られてしまっていたこともあって、完全な敗北。

 折しも、父の死という出来事もあり。
 それ以上の抵抗を諦め、心機一転、新しい生活を始めようと決め。

 穏やかな日々を得ますが。

 やがて台湾も、コロナ禍に陥る。
 リモート以外の仕事がなくなった僕は、暇を持て余してしまいます。

 そんな中、大正期の台北において、九歳の日本人少女が失踪した事件について記されたサイトをみつけます。

 それによると。

 1925年、専売局に勤める男性の長女である9歳の中山美枝子が、学校からの下校途中に突然行方をくらまします。
 警察や父親の同僚が懸命に捜査をしますが、どこにも見当たらない。
 水に落ちた形跡もなければ、誘拐の跡も見当たらない。

 ――そして、行方知れずのまま、三年もの月日が経ちます。

 1928年2月、台北帝国大学(今の台湾大学)の開校直前、その敷地内にて、偶然、顎にあたる部分の人骨が発見されます。

 ここは、美枝子が登下校に必ず通る場所でした。
 警察は、美枝子をついに見つけたと判断、この白骨を鑑識に回します。

 しかし。
 これは、三年前の、九歳の子供の骨などではなく。
 遥か以前の、成人男性のものだと判明したのでした。

 そして、その後。

 日本のサーカス団にて、美枝子の好きだったおもちゃが発見された、だとか。
 日本と台湾の間の船便で、美枝子に見た人物が九州で下船した、だとか。

 そういう、噂レベルの情報が、幾つか浮かんだだけで。
 美枝子失踪事件は、未解決のまま終わってしまったのでした。


 ――という、記事でした。

 僕は、首を傾げます。

 このサイトによると、美枝子は失踪したまま、ということになっています。

 でも、僕が先日公園で出会った台湾人女性は、美枝子はその廟に祀られていると言った――祀られているということは、死んでいる、ということでしょう。

 ということは、ウェブサイトには書かれていない――そのサイトの筆者が知らなかっただけで、実際は、後に死体が発見された、ということなのでしょうか?

 それとも、死体は発見されていないけれども、状況的には死んでいるのが間違いないと判断した人が、廟を作ったということでしょうか?

 いや、そもそも。


 あの陰廟に祀られているという日本人が、この『中山美枝子』であるとは限りません。
 日本統治時代、台湾には、大勢の日本人が住んでいたのです。
 しかも、大戦末期には、台北大空襲もあった。
 ここでは、大勢の日本人が亡くなったいるでしょう。

 それにそもそも、あの公園で僕に話してくれた女性が、正確な知識を持って僕に話しているという保証もない。
 祖母の話を聞き間違えた可能性もあるし、そもそもの話が間違っている可能性もある。
 噂話なんて、そんなものでしょう。

 だから、その陰廟と、中山美枝子のつながりについては、恐らく誰も確かなことは言えない。


 ――とはいえ。
 当時の新聞記事がある以上、日本人少女の失踪事件があったのは、確かなこと。

 それについては、強く好奇心を刺激されます。

 その後、彼女は見つかったのか、どうしても知りたくなり。

 もう少し、調べてみたいと思います。

 しかし。
 古い事件について扱っている他の台湾のサイトを色々探してみても、あるのは同じような記事だけ。
 目新しいものは、何も見つかりません。

 ならば、過去の新聞記事を探そうと思いましたが――台湾の図書館は、コロナ禍の今、全て閉鎖中。

 一部データベース化されてはいますが、日本語新聞は検索出来るようになっておらず。
 どうしようもありません。

 結局放置し、そのまま忘れていたのですが。

 それから数週間経り、また散歩中に陰廟を目にして、美枝子のことをまた思い出し。

 彼女の行く末は、分からないものの。

 ふと、その両親について、知りたくなります。

 娘が失踪したのは、1925年。
 その後も、両親は彼女を探し続けたのだろうか?
 そこを動かず、娘の帰還を待ち続けたのだろうか?

 もしそうだとしたら、その二十年後の1945年――日本が敗戦し、それ以上台湾にいられなくなった時、その両親はどうしたのだろうか?

 そのあたりに、興味が移り。

 ふと思い立って、記事中にあった中山美枝子の父・中山富次郎の名前で検索をしてみますが。

 娘の失踪を伝えるもの以外に、彼の名前が記載されたページは一切見つかりません。


 けれども、僕は。

 暇で仕方がない上に。
 興味のあることに関しては、熱中しすぎるADHDです。

 何時間も何時間も探し続け。

 そして、ついに。
 「国史館台湾文献館」なる図書館が、日本統治時代の統治機関である、「台湾総督府」の発行した全ての公文書を、データーベース化していることを知ります。

 中山富次郎が勤めていたのは、樟脳・阿片専売局。
 間違いなく、台湾総督府に属する役所です。

 公文書の中に、中山富次郎についての、人事異動等の記事があってもおかしくない。


 そう思った僕は、急いでそのデータベースを開き。
 専売局関連の書類の、中山富次郎の名前を探してみると。

 やがて、その名前の記された文書が、何件も見つかります。

 人事異動等の資料の中に。

 当時の戸籍謄本の写しまでもあり。

 そこに、「中山富次郎」の長女として、「美枝」という名前が記されているのを発見します。

 「美枝子」ではなく、「美枝」であるのは、少し引っかかりますが。

 失踪を報せる新聞記事に記載された父親の名前が、一緒である上に。
 この美枝は、大正六年、つまり1917年生まれ。
 1925年の時点で、数えで言えば9歳です。

 間違いありません。
 この中山美枝が、失踪した少女です。

 僕は急いで、中山富次郎関連の公文書全てに目を通します。


 そして。
 娘の失踪直後――この中山富次郎が取った奇妙な行動について、知ることになるのです。


 

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