三千万円を奪った犯人が判明する 【ADHDは荒野を目指す】
6-34.
台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。
けれども、ADHDである僕には、会社運営などうまく出来ません。特に人事は壊滅的で、オフィス内にはギスギスした雰囲気が漂い、辞めて行く社員の多い。
その上、台湾人の妻とも関係がうまく行かず、結局離婚。
そんな状況でも、肥大化した会社を支えるために、僕は週休ゼロ日で働き続けなければならず――肉体的にも精神的にも、どんどん疲弊して行きます。
さらに、旧友であった社員の自殺未遂などもあり、ついに僕は、人生のやり直しを決意。
塾の閉鎖に向けて、ゆっくりと準備を始めたのですが。
そんな中、経理の台湾人女性・イーティンが、突然、会社にお金がない、と言い出すのです。
どう考えても、三千万円以上のお金がある筈なのに。
そして僕はようやく、自分が、会社の口座の残高を長年確認していなかったことに気付くのです――面倒なことが嫌いで、お金に興味がない、そんなADHDであるが為に。
その事実に、暫く呆然としていた僕ですが。
やがて、自分のするべきことに気付きます。
消えた三千万円の行方を探ること――そして勿論、それを取り戻すこと。
僕は急いで、イーティンに尋ねます。
――何年か前に、一千万円以上の残高を見ているんだよ。
――その後、いつからお金が減り始めたの?
ずっとですよ、とイーティンは言います。
――ずっと前から、お金がどんどん減っていると言っていますよ。
確かにそうだった、と僕は思います。
でも僕は、それを聞き流していました。
それは、谷沢や小迫や岩城など、彼女が毛嫌いする講師達を、追い出したり、減給させたりするために、イーティンが大げさに言っているだけだ――僕はそう思って、耳を貸そうとしなかったのです。
何せ、会社の収支は、僕はほぼ把握できているのです。
赤字の筈がないのですから。
それでも、イーティンは言い続けます。
――うちの塾は、ずっと赤字でしたよ、と。
僕は急いで、パソコンの画面に先月のデータを呼び出しつつ、紙とペンを手にし、書き始めます。
塾部門の授業料収入は、二百万円以上。日本語部門の収入は百万円以上。
一方で、家賃光熱費、税金保険代等の経費は、百万円以下。
社員への給与は、百五十万円程度。
そして、唯一ちゃんと給料を貰わず、出費が必要になると、会社のカードで支払っている人――僕に関しては、家賃や食費など合わせても、月二十万円も出費していません。
どう考えても、会社には月三十万円は入る筈だ、と。
そしてこれは、規模を縮小した今現在だけのこと。
僕が一人でやっていた創業から二年間はともかく、その後、規模縮小までの五年間、売り上げはその三倍はありました。
勿論人件費も多かったし、僕もヒマラヤトレッキングなど、多少の浪費はしたが――その売り上げに比べれば、本当に些細なものでした。
だから、少なくとも貯金が三千万円はないとおかしい。
僕は数字を記した紙を見せ、イーティンに言います。
けれども、イーティンはそれをじっと眺めて、そして言いました。
――人件費を忘れていますよ、と。
僕はキョトンとします。
ちゃんと、講師への給与は記録しているし、僕の生活費も計上している。
僕がそれを言うと、イーティンは言いました。
――いいえ、人件費はもっとありますよ。
――私の給料を忘れていますよ。
イーティンの給料?
――いや、それはちゃんと給与欄に入れてるよ。
いいえ、とイーティンは言います。
――入っていませんよ。
僕はまたキョトンとしました。
イーティンは、創業以来の社員ではありますが。
難病患者であり、出社も不定期。
出社しても、業務と言えば、経理全般、中国語書類の処理、そして日に二回僕のお弁当を買いに行くこと。それだけです。
それ以外の時間は、株価を見たり、チャットをしたりして過ごしています。
そんな彼女の給与は、月十五万円程度です。
ただ、僕は時折、彼女にプレゼントをしていました。
年に一、二度僕が日本に行く際は、イーティンの為に、必ず空港の免税店で彼女の好きなブランドのバッグを買ってあげていますし。
体調が良くなって来た頃、彼氏と日本旅行に行くという際には、その往復の航空券代、ホテル代まで、支払ってあげたりもしました。
彼女は元々僕の義妹でしたが、彼女の姉と離婚した後も、当時と同じように、彼女に様々な贈り物をあげていたのです。
――いや、お土産代とか旅費とかことを給料とは言わないよ。定期的な出費じゃないし。
いいえ、とイーティンは言います。
――違いますよ、私の給料は十五万円ではありませんよ。
――私の給与は、もっともっと多いですよ。
え?
僕は三度キョトンとする。
――じゃあ、幾らだったの?
えっと、とイーティンは首を傾げて言いました。
――確か、八十万円ぐらいです。
は?
僕は唖然とします。
それでも、どうにか続けます。
――……その前は?
八十万円ぐらいです、と答える。
――いつも、それぐらい?
――そうではありません。
イーティンは言います。
――百万円ぐらいのときもありますよ。
僕は眩暈を覚えながら、続けます。
――もうずっと、それぐらいだったの?
――そうですね、もう五年ぐらい前からです。
五年間。
僕は暗算を始めます。
五年間――つまり六十か月、想定より六十万円多く出費していたとすれば――失われた金額は、三千六百万円になる。
それは、僕が口座にあると想定していた金額と、ほぼ同じぐらい。
間違いありません。
三千万円を取っていた犯人が、あっさりと判明しました。
けれども勿論、それで満足など出来ません。
――でも、どうして?
――どうして、そんなとんでもない金額を持っていったの?
僕は目を伏せて、掠れた声で言いました。
それは、とイーティンははっきりした声で言いました。
――社長が言いましたよ。
――それだけ貰っていい、って。
――そんな筈はないだろ。
僕は顔を上げ、ようやく少し語気を強めて言いました。
そう、確かに僕はADHDです。
様々なことをすぐに忘れてしまう人間だし、お金の管理も出来ない人間です。
大儲けしていることだけ知っていて、お金に関心を持たなくなり、通帳を見ることすらなくなった僕です。
それでも、経理に毎月百万円支払う、なんてことは、流石に言う筈がない。
もし毎月、それだけの金額をイーティンに渡してしまえば、会社に殆どお金が残らなくなるのです。
そして規模を縮小した今に至っては、赤字になる――貯金が底をついてしまう。
実際にそうなっているように。
――僕は、そんなことは絶対に言っていない。
いいえ、とイーティンは言いました。
――社長は言いました。
――そうはっきり言いましたよ。
イーティンのその毅然とした態度を見ている内に、ようやく呆然自失の状態から回復し始めた僕は、怒りを交えた声で言います。
――いつ? いつだよ?
昔です、とイーティンは言います。
――昔っていつ? いつだよ?
――小迫先生の給与を減らそうとした時です。
――小迫先生の給与を減らそうとして、小迫先生を交えて三人で話し合った時です。
は?
僕は懸命に記憶を探ります。
言われてみれば――確かにそういう席はありました。
小迫の給料が高すぎること、独立の動きがあること、イーティンがそれらに問題提起をし、話し合いになったのです。
でもそれは、あくまでも小迫の給与に関する話し合いであって、イーティンの給与と何の関係もありません。
――いいえ違います。
インチ―は言いました。
――社長はその時、はっきり言いました。
――私の給料は、小迫先生の三倍だって。
いくら迂闊な僕でも、流石にそんなことはあり得ない。
いやいや、僕は怒りを込めて言います。
――そんな馬鹿なことを言うはずないだろうが。
――いいえ、言いました。
イーティンの目は、はっきりと僕を見据えていました。
頬は赤く、口ぶりは震え――怒りの感情をこめている。
――そんな筈は……。
そこでようやく僕は思い出します。
確かに僕は言った――君は小迫の二倍、三倍のお金を持って行っていい、と。
そして確かに、小迫の給与の二倍三倍なら、八十万、百万という金額は計算が合う。
でも、勿論僕の発言はただの冗談。
外国人でも、子供でも、絶対にそう理解出来るもの。
それなのに、彼女はそんな言葉を、堂々と口にしている。
そして、僕を非難するように、睨みつけている。
僕は怒りよりも、当惑の念が強くなり、言葉を失います。
何故だ?
何故こんなことになっている?
ついさっき、三千万円ものお金がなくなっていることを知らされた上に。
その犯人に、よく理解出来ない犯行動機を、あっさりと自白され。
――そしてその犯人に、今、僕が睨まれている。
しかもその犯人は、ずっと一緒に仕事をしてきた相手。
つい先刻まで、軽口を叩きあっていた相手。
つい先刻まで、親切にしてきたし、親切にされてきた相手。
一体、何が起こっているんだ?
僕は眩暈を覚えます。
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