年を取った発達障害は、どの世界に逃げ込めば良いのか? 【ADHDは高学歴を目指せ】
27.
「生きるのが辛い」と感じるようになった中学生一年の夏頃から、五十歳になる今に至るまで、僕は常に、「現実逃避」の手段を求めていました。
さぼっていること、先延ばしにしていること、見ないふりをしていること。
一旦意識を向けてしまうと、即座に頭の中がそれらに支配される。
不快な感情が極限まで増幅され、一方で、非常に楽しみにしていたことにも何の魅力も感じなくなる。
それでいて、それらを直視して、「いやなことをさっさと片づけてしまおう」という気持ちや、「もう全部を諦めてしまおう」という気持ちなどといった、前向きなものを持つことができない。
ただただ、鬱々した気持ちを抱えたまま時間を過ごし。
その過ぎて行く時間に対して、さらなるストレスを感じ。
とにかく気持ちが滅入ってしまう。
十代から五十に至るまで、自分の人生のどの瞬間を切り取っても、常にそんな「憂鬱」と同居して暮らしていたように思えます。
そして、そんな状況に心の弱い僕が耐えられるはずもなく、必然的に、「現実逃避」できる手段を求めてきました。
ゲームをする、本を読む、スポーツをする、長い旅に出る。
それらに没頭して、嫌な現実を忘れることで。
発達障害としてのストレスに満ちた人生を、どうにかやり過ごしてきた。
大げさに言えば、「生き抜いてきた」僕ですが。
五十を過ぎてから、ふと気づくようになります。
最近、現実逃避をしてない、と。
何かに没頭して、時間を忘れてしまうことが少ない。
ゲームも読書もスポーツも旅も、極度に減った。
現実逃避行為そのものを、ほとんどしなくなったのです。
けれども、これは決して、現実逃避が必要ではなくなった――現実を受け入れられるようになった、ということではない。
相変わらず、常に「憂鬱」と同居している。
何をする気もしない一方で、常に何かをしなければならないという強迫観念を抱いていて、何もしていない自分を責め続けている。
年を重ねて、多少図太くはなったり、欲を持たなくなった分、ストレス対処がうまくなりはしたものの。
現実逃避という手法を取らなくなった分、かかってくるストレスの総量は、若い頃と変わらないように思える。
いや、むしろ、若いころに自分を救ってくれた、「将来への希望」――「俺もいつかまともな人間になるんじゃないか?」という希望を、最早抱けなくなった分、ストレスは大きくなっているとも思える。
これではだめだ、と思った僕は。
何か新しい現実逃避を始めなければ、と思い。
「現実逃避の方法」で検索してみると。
・映画やアニメを楽しむ
・買い物をする
・旅行する
・スポーツをする
・友達と飲みに行く
・エステやマッサージに行く
などと書かれていますが。
ふざけるな、と思いました。
率直に言って、その殆どが、発達障害にとって効果がないもの。
むしろ、逆効果ですらあると思います。
友達と出かける、買い物をする、スポーツをする、マッサージを受ける。
そういった「能動的」な娯楽は、もちろん、僕も若い頃にはしていたようなことですが。
体力・気力が落ちてきた今となると、なかなかそうはならない。
友人と出かけるのは、気を使って疲れてしまう。
買い物では、そもそも欲しいものがない。
感覚過敏であるために、マッサージは余計に疲労する。
今でも多少魅力的に感じられるものであっても、全て「出費が伴う」というのが大きなネックで。
その対価に見合ったほどの「没頭」=「現実逃避」を得ることが出来ないというのは明白で。
だから、どうしてもそれらに手が伸びません。
そうなると、必然的に残されるのが、映画・アニメなどの、「受動的」な娯楽。
これらなら、体力もお金も殆ど使わず、家に居ながらにして楽しめる。
けれども。
若いころから、僕はそれらに対して、ほとんど程興味を抱かなかったのです。
映画館に行くことも殆どないし。
連続アニメは無論のこと、ジブリすらほとんど見ていない。
辛うじて、台湾に住んでいた頃、日本のアニメ映画が台湾に来た際に見に行っていた程度。
それ以外で、能動的にそれらを見ようとしたことはない。
お手軽な現実逃避であるのに、それを受け入れることが出来ないのは、非常に勿体ないと思います。
――何故こんなことになったか?
つらつら考えてみるに。
やはり、テレビを含む一切の娯楽を禁じられていた、幼児期の環境のせいでしょうか。
その頃に、「映像作品」というものに慣れ親しまなかった上に。
親により、そういうものは、「馬鹿が見るもの」という概念を与えられていた。
その結果、映画やアニメの表現に、無意識の抵抗を感じてしまい。
今に至っても、一切の感情移入が出来ないままである――ように思えます。
これは非常に勿体ないことなのではないか、そう思うのですが。
最早ここを変えることは出来ない。
このまま、映画やアニメにほとんど触れないままの人生を、送ることになりそうです。
ただし勿論、その代替手段は持っていて。
僕にとっては、「小説」がそれで。
活字が描き出す世界には、映画やアニメよりも、はるかに容易に没頭出来るのです。
特に若い頃は、小説を読んでいて電車を乗り過ごすことが無数にあった。
歩きスマホならぬ、二宮金次郎ばりの「歩き読書」だってやっていた。
本も、さして高価なものでもないし。
じゃあ、年を取っても、小説を読んでで現実逃避をすればよいじゃないか――とも思うのですが。
残念ながら、それも出来なくなりつつあります。
理由は簡単。
「没頭できる小説」に、出会えなくなって来ているからです。
過去の名作と呼ばれる作品は、既に多く読破してしまっており、今更読み直しても、それほどわくわくは出来ない。
勿論、近年話題の本も、それなりには読んでいるのですが。
ほとんど感情移入が出来ません。
昔は、薄い紙をめくるだけで容易に別世界に行けたのに、今は、どれだけページを繰っても、退屈な現実から抜け出せないままなのです。
「つまらない」という訳ではなく、ただただ「合わない」。
幼い頃から、大正時代から昭和初期の小説や雰囲気が好きであったため、その頃の感性が身にしみこんでしまい、時代遅れになってしまっているのでしょうか。
或いは、そもそも発達障害である上に、人生においていろいろ特殊な経験をしすぎたせいで、ほかの人たちにとは感性がずれてしまっているということでしょうか。
とにかく、世界に入り込める小説に出会えなくなってしまったのです。
かくして。
現実逃避が出来ない僕は。
五十を過ぎて、かつてないほどストレスに囲まれた毎日を送らざるを得なくなっています。
やはり、他の多くのことと同様。
映画、アニメ、小説等、「受動的」なものには、はっきりとした限界がある、ということでしょう。
学校組織や会社組織に合わなかったように、他人が準備してくれるようなものなど、自分にぴったり合う筈もないのです。
やはり、他の多くのこと同様。
ひたすら「旅」をしていた若い頃のように、或いは外国で起業をしたりしていた頃のように、もう一度、「能動的」な行動を起こすしかない、ということなのでしょう。
自分自身で、自分に合った世界を探し出す――或いは、作り出すしかない、ということなのでしょう。
現実から逃げ出すためには、能動的になるしかない。
勿論発達障害なのですから、下手に動くと――いや、どれだけ注意深く動いたとしても、無数の新しい失敗を繰り返すことになるでしょう。
それでも、このまま「現実を生きる」よりはずっと良い。
そう思った僕は。
この頃は、次の「現実逃避」を何にするか、ということをひたすら考えています。
そして。
それを考えている時間だけが、今の僕の、唯一の「現実逃避」となっています。
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