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ADHDが京都大学に合格できた理由 【ADHDは荒野を目指す】

 1-13.

 22歳春、僕は京都大学農学部に合格しました。

 文系の大学を中退したばかりの、ADHD。そんな青年が、ほぼ毎日アルバイトをしながら、予備校や塾に通うこともなく、家庭教師を使うこともなく、さらには模試すら一度も受けずに、僅か一年の勉強で、それをやってのけたのです。

 後年、「ビリギャル」の話が広く知れ渡りました。
 高校二年まで落ちこぼれていたギャルが、周囲の人々の支えもあって猛勉強、見事に慶応大学に現役合格した話です。

 その話を聞いた時に、僕は思ったものです。
 これが書籍化され映画化されるのだとしたら、僕の成功話だって、そこそこ注目を集められるのではないか、と。

 でも、「勉強嫌いだったギャル」は絵になるが、「汚部屋のADHD」なんて、誰も見たくないものです。

 また、ビリギャルには、彼女の受験に協力する人々がいて、心温まるエピソードが幾つもありましたが、僕にはそういった物は一切ありません。僕はただ一人、静かに勉強をしていただけ。ドラマチックな要素は一切ありません。

 そしてビリギャルには、彼女の受験の経緯を面白い文章にまとる人物が近くにいましたが、人間関係をうまく築けない僕には、そんな協力者なんている筈もないし、僕自身も面白い文章が書けない。
 さらに言えば、ビリギャルはその後、真っ当な人生を送っているようですが、僕のその後はかなりひどいものになります。

 だから、僕の話などが注目を集める筈もない。

 それにそもそも僕は、自分が京都大学に合格したこの話が、さして面白い物にはなり得ないことを知っています。
 ただの、「幸運な受験生」の話でしかないのですから。

 その一年間、僕は模試を一度も受けていません。
 申し込みに行くのが面倒だった、といういかにもADHDらしい理由がありますが、同時に、どうせ解けない問題ばかりなのだから、受けても意味がないだろう、お金の無駄にしかならないだろう、などと思っていたからでもあります。
 そんな有様ですから、自分が京大に合格出来る学力があるなど、思える筈もありませんでした。ですから、志望校は一貫して、それほどの難易度ではないだろう地方国立大学でした。

 それなのに、僕はセンター試験にて、思わぬ高得点を取ってしまいます。自信がないままに選んだ答えや、時間が足りなくて適当にマークしたものの殆どが正解だった、という幸運に助けられて。
 自分の得点を知った僕は、18歳の時同様、浮かれてしまいます。そして、これなら京都大学にも合格するのではないか、と思ってしまったのです。
 何せ京都大学は、亡くなった兄の通っていた大学です。これで僕が合格すれば、兄の仇討というストーリーになるじゃないか。短慮な僕には、そんな甘美なアイデアに抵抗することが出来ず、京都大学に願書を出してしまったのです。
 流石に、兄と同じ理学部ではなく、多少難易度が低く、かつ得意教科である国語の配点が高い農学部を選ぶ、その程度の理性は働いていましたが。

 そして僕は前期試験に臨みますが、見事に失敗します。殆どの問題に歯が立たず、二日あるテストの一日目にてもう不合格を確信し、強い後悔を覚えていました――調子に乗らず、自分に合った大学を受験すれば良かった、と。

 ですから、後期試験は、消化試合のような気持ちでした。来年のために経験を積んでおこう。その程度の気持ちでした。
 ところがそこで、僕は興奮してしまいます。
 数学の問題が、とにかく解けるのです。過去の入試問題をやってみた時は、半分も正解出来たことがなかったのに、その時の僕は、確実に六割以上、下手をすれば七割、八割は解けているではないか、という手応えがあったのです。
 配点の大きい数学でそれだけ出来ていれば、本当に合格出来るかもしれない。そう思った僕は、残りの試験にも必死に食らいつきました。
 そして、本当に合格してしまったのです。


 僕はただ、「センター試験で偶然正解する」「二次試験の数学にて、得意問題ばかり出題される」という、千載一遇の幸運を引き当てただけ。

 勿論、「相応の能力がなければ、幸運も活かせない」と聞きます。だから僕にも十分な能力があったのだ、と思いたくはなるのですが。

 でも、僕がその後経験した現実のことを思うと、そんなことは到底考えられません。
 何せ、京都大学入学後、その授業の殆どについて行けず、指導教官からは面と向かって、「京大の恥」「幼稚園児並の知識」などと言われるような有様だったのですから。

 僕の京都大学合格は、ただの幸運な話にすぎない。
 だから、ビリギャルのような扱いを受けることはあり得ないのです。

 とはいえ。
 幸運があれば京都大学に合格出来る力があったのは確か。それだけでも、相当に珍しい話でしょう。
 落ちこぼれの文系ADHDが、独力で一年間勉強しただけで、そこまで伸びたのですから。

 その事実は、僕が相当な努力をしたことを証明しています。
 中高時代、学校に通いながらも全く勉強をしなかった僕が、一人きりで、一年間もの間。

 しかも、自覚はありませんでしたが、僕は様々な創意工夫をしていました。ADHDである自分に向いた効果的な勉強法を編み出し、それを実行していました。

 相当数の試行錯誤の末にです。つまりそれまで、僕は諦めずに問題に食らいつき続けたのです。
 退屈な「勉強」に向きあったのです。



 何故、そんなことが出来たのか。

 やはりそれは、「兄の死」のせいなのでしょう。

 締め切り直前まで何もしない。けれども締め切りの前夜には、凄まじい集中力を発揮し、課題を仕上げてしまう。
 ADHDに起こるそんな話は、しょっちゅう耳にします。

 この時の僕は、それと同じ状態だったのです。
 兄の死を目の当たりにしたことによって、僕は、自分が「締め切り前夜」にいることに、初めて気付いたのです。

 人生はいつ終わるか分からない。いつ締め切りが来るか分からない。明日死ぬのかもしれない。なのに僕は、ただひたすら無為に生きている。これでは、締め切りに遅れてしまう――後悔に満ちた最期を迎えてしまう。

 今やらないと、手遅れになる。

 そんな思いが鞭のようになり、怠惰な僕の心を打ちました。
 その強烈な痛みが、僕は懸命の努力を続けさせ、京都大学に合格させたのです。

 ――さらにそれは、その後二十年もの長きに渡って、僕をひたすら走らせ続けます。

 荒野へと。

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