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大使館にたどりつき、伝説になりそこねる 【ADHDは荒野を目指す】

 3-31.

 眠れぬ夜を越して、朝一番で僕は起き出しました。

 既に前日、ゲストハウスに置かれていた地図を見て、このザンビアに日本大使館はちゃんと存在すること、そしてそのゲストハウスから歩けない距離ではないことを確認していました。

 借りたペンと紙で、地図を出来るだけ正確に書き写す。
 その紙だけを握って、僕はゲストハウスを出ます。

 多くのアフリカの都市同様、高層ビルなどは殆どありませんが、流石に首都だけあって、車通りはそれなりに多い。
 一方で、向かっている場所が繁華街ではないためでしょう、歩いている人は殆どいない。

 治安が悪いと言われるアフリカの都市――もしかしたら、強盗に遭うのではないか。

 そんな怯えが浮かびますが、それならそれで、凄い話だ、と思います。
 全財産を奪われた上に、強盗に襲われるなんて――まさしく伝説になれるじゃないか。

 そう自分に言い聞かせながら、僕は懸命に歩きます。

 何度か道に迷いましたが、一時間ほどで、僕は無事に日本大使館に辿り着きました。
 白い壁、大きな敷地を持つ大邸宅で、庭にはたくさんの木々が生えています。

 入口のインターフォンを押すと、ガードマンらしい現地人の男性が出てきます。大柄で、背中にライフルを持っています。

 鉄格子門越しに、自分は日本人であり、持ち物を全て盗まれた、助けてほしい、と英語で告げます。
 男性は頷くと、脇にあった電話の受話器を取り、暫く何かを話したかと思うと、すぐに門を開けて、中に招いてくれました。

 酷く汚い格好で、酷く日焼けしている上に、身分証も何もない。
 治安の悪いアフリカのこと。普通なら、大使館には入れて貰えないような存在でしょう。
 顔立ちが日本人そのもので本当に良かった、とホッとします。

 カウンターのある部屋に通され、椅子に座って待つように、と指示すると、現地人の男性は去って行きます。

 明るく、清潔な部屋で、とても静か。
 壁には日本語で書かれた文書やポスターが、幾つも貼られている。

 ――日本だ。

 懐かしさが胸を占めます。
 嫌いでたまらなかった国なのに、たった一年離れただけなのに。

 と、奥の扉が開き、カウンターの向こうに一人の男性が現れました。

 三十代でしょうか、メガネにスーツの、日本人です。
 ――どうしたの? パスポート取られたの?

 僕は急いで激しく頷きます。

 ――どうして? どこで?

 タンザニアからの鉄道で、多分睡眠薬を飲まされた、と答えます。

 ――よくあることだね。
 ――君が迂闊だったね。
 ――ちゃんと貴重品を取られないように気をつけておかないと。

 被害に気付いて以降、そんな言葉を投げかけられるのは、もう何度目か。
 そんなことはもう僕が一番分かっている――とは、口には出来ません。

 僕はただ頷き、そして、パスポートだけでなく、お金も着替えも全て盗まれた、と彼に告げます。

 ――じゃあ、今はどうしてるの? 野宿?

 ドイツ人にお金を借りています、と僕は答える。

 ――その人は友達? 道連れ?

 いいえ、と僕は首を左右に振ります。偶々居合わせただけの、凄く親切な人です。

 ――じゃあ、彼からお金はもう借りられない?

 借りられません、と僕は頷きます。
 今日明日にも、彼はゲストハウスを離れると言っている、と付け加えます。

 そうなると、寝起きする場所はおろか、何かを飲み食いすることすら出来ない――とは言いませんが、察してくれ、という目で男性を見ます。

 
 大変だね、男性は頷き、少し考えてから、でもねと言いました。

 ――大使館としては、君にお金を貸してあげる、ということは出来ないんだよ。

 え。

 僕は唖然とします。

 ――これは法律だからね。

 またそのセリフだ、とは思いません。ただただ僕は眩暈を覚えます。

 ――公金は自由に使えないんだよ。どうしようもない。
 だから、と男性は言います。
 ――当面のお金は、僕が個人的に貸してあげるよ。

 ああ、僕は大きく息を吐きます。

 そりゃそうだ――流石に、個人として、同じ国の人間を見捨てることは出来ないでしょう。
 助かった――これで、生きて行くことが出来る。

 脱力感が体を覆います。

 それで、と男性は言います。

 ――君は、ここにお金を送ってもらえる当てはあるの?

 あります、と僕は頷きます。

 ――親御さん?

 はい、と僕は頷きます。
 
 いい年して、また親に頼るのか――腹の底から湧き出て来るそんな思いを、僕は無視します。
 大げさではなく、生死がかかっているのです。

 ――じゃあ、後で電話を貸してあげるよ。

 有難うございます、と僕は頭を下げます。

 それで、と男性は言います。

 ――じゃあ、決めてくれるかな。パスポートを再発行するか、『帰国のための渡航書』を申請するか。

 僕は驚きます。
 そうか――僕には選択肢があるのか。

 全てを失った瞬間、自然と、旅は終わりだと思っていました。

 当たり前です。生きる死ぬさえ分からない状況で、旅という娯楽を続けることなんて出来る筈もない。

 当然、『帰国の為の渡航書』を得る必要がある、と思っていました。
 それは、僕のようなパスポートをなくした旅行者に与えられるもので、日本に帰ること以外の目的での使用は出来ません。


 でも――パスポートを再発行すれば、滞在の資格は得られる。

 お金にしても、何とかなるのです――全財産を取られたとはいえ、現金は数万円分程度しかありませんでした。
 シティバンクのキャッシュカードをも盗まれてしまいましたが、これはすぐ停止して貰えば大丈夫でしょう――現地の人が、一日二日で僕の暗証番号を見破れるとは思えない。
 シティバンクのキャッシュカードの再発行も出来れば、お金の心配もなくなるのです。

 旅が続けられるのです。
 いや、それだけではない。そうなれば、親にお金を出してもらわなくても済む。


 ――どうするの?

 男性は僕に答えを迫ります。
 待って下さい、と僕は慌てて言います。
 ちょっと、すぐに決められない。

 けれども男性は、僕に猶予を与えません。

 ――実はね、昨日大変なことがあってね。
 ――日本人ツアー客がね、強盗に襲われ、撃たれちゃったんだよ。
 ――お年寄りがね、亡くなってしまってね。可哀想に。
 ――それでね、今ここは大忙しなんだ。

 ――だから、君のことに余り時間は裂けない。
 ――申し訳ないけど、早く決めてくれないかな。早く手続きを始めたいし。


 ――さあ、早く決めて。


 旅を続けるか、旅を終えるか。

 僕は懸命に考え始めました。

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