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兄の癌にはしゃぐADHD 【ADHDは荒野を目指す】

 1-10.

 兄は、スーパーエリートでした。
 灘中・高で六年間首位の座を譲らず、生徒会長や運動部の主将を務める。
 ある学問の国際大会における日本代表になり、特別な奨学金を幾つも貰う。
 マスコミにも何度か取り上げられ、「天才児」ともてはやされる。

 そんな絵に描いたようなエリートであるにもかかわらず、「東大は嫌い」「医学は興味がない」と、京都大学理学部(もちろん首席合格)へと進学するという、個性的な一面もある。
 それにそもそも、大して勉強はしていない。部屋は整理整頓されており、趣味も多く、友人も多くお洒落でもある。所謂「がり勉」という印象は一切ない。

 そんな兄が、22歳秋、癌に倒れるのです。

 しかも、病院を訪れた時点で、かなり厳しい状況でした――そもそもの原発巣すらすぐには判明しないほど、多くの臓器にて癌細胞の存在が認められたのです。
 4月の健康診断におけるレントゲン写真では、殆どその兆候が見られなかった。若させいで進行が異常に早く、半年後にはここまで大きくなったのだろう、医師はそう残念そうに両親に告げました。

 癌の発覚から一か月も経たぬうちに、手術の日となりました。朝十時過ぎ、僕がその病院に到着した時には、既に兄は手術室に入っていました。そして四時間前後と予定されていたその手術は、昼を随分過ぎても何の動きもなく、ぼんやりと待つしかなかった僕達家族が医師に呼ばれた時には、既に夜七時を回っていました。

 そして医師は、目の前に置かれた臓器を指し示しながら言います。
 ――御覧の通り、たくさんの癌細胞を切除した。目につく限りのものを取ったために、すごく時間がかかった。どうにか全てを取り切ったが、しかし、目につく癌細胞があれだけ沢山あるということは、目につかないサイズの癌細胞もまた、無数にあるということ。それらは今後もどんどん成長するだろう。それをいちいち手術で取り除くのは、患者の体力的にも不可能だろうから、今後は抗癌剤の投薬での治療になる。うまくその薬が効けば、もしかしたらもしかするかもしれない、と。

 医師は言葉を濁しますが、流石に愚かな僕でも分かりました。
 もう、兄は手遅れなのだ、と。


 兄の入院生活が始まりました。抗癌剤の苦痛に耐えつつ、既に合格している大学院への進学を目指して勉強を続けます。
 同時に、母の看病生活が始まります。実家は兵庫、病院は京都大学。そのかなりの距離を、母は毎日通うのです――パートや家事をしながら。
 父も忙しくなります。戦前生まれで一人暮らしの経験もない彼は、生まれてから一度もしたことのない家事を負担することになります。簡単な夕食を作り、出来る限り洗濯もし、土日には母を病院まで送り届け。

 そんな大変な生活の中、さらなる出来事が起きます。
 あの、阪神淡路大震災。
 元々実家は大阪にあったのですが、当時それは兵庫県内に、つまり震源の近くに移っていました。それでも幸いなことに、両親が怪我をしたり、家が潰れたりすることはありませんでしたが、一か月近く、水道やガスが停まってしまいます。
 生きる為に、両親は水や食料の調達に走り回らねばなりませんが、だからと言って、兄の看病に行かない訳では行きません。結局両親は、車で京都まで行き、病院の許可を得てシャワーを使わせてもらい、水を貰い、兵庫に戻り、仕事に行く。そんな生活を暫く続けることになったのです。


 兄と両親が、そんな具合にひどく大変な思いをしていた間、僕は何をしていたのか。
 ――はしゃいでいました。

 僕は大震災とは関係のない、地方都市に暮らしたまま。アルバイトも大して忙しくはないのに、見舞いに行こうとしもしないし、実家に戻ろうともしない。多くの時間を、汚い部屋でゲームをして過ごす、それまで通りの生活。
 唯一それまでと違った事と言えば、友人一人一人に触れ回ったことだけです。
 如何にも重大な秘密を打ち明けるという体で、そして如何にも辛そうな表情で、僕は言うのです――兄が癌になって、余命幾許もない、と。

 その時の僕の心理は、簡単なものです。
 僕は何者でもなかった。仕事もしておらず、学生でもない。友人も彼女もいない。夢もないし希望もない。何の努力もせず、汚部屋で酷く貧しい暮らしをしている、どうしようもない駄目人間。
 この世に不要な人間。
 そんな僕に、突然降って湧いて来たのです――「肉親の不幸に見舞われた、悲劇の主人公」という、同情を得やすい、中々に良い配役が。
 僕はその配役を逃すまいと、頑張ったのです。
 頑張って、燥ぎ回ったのです。


 それでも一度だけ、僕は兄の見舞いに行きました。
 そもそも仲良くもない弟が顔を出せば、兄に自分の病気がいよいよ重いと思わせかねないので、見舞いに行く必要はない――そんな理屈をひねくり出して、京都に行こうとしなかった僕に対して、母がそれでも僕に指示したのです。明日は絶対に来なさい、と。
 そこで僕はその日、やむを得ず京都のその病院を訪れたのですが、病室に入った時、兄は眠りに落ちていました。
 しかし母は僕が手に持っている物を咎め、兄が目覚める前にすぐに帰るよう命じたのです。
 何せ、その時僕が持っていたものは――喪服でしたから。

 来るべき葬儀のことを考えあつらえてもらっていた店から、それが完成したとの連絡が来た。だからその日、京都に向かう途中にその店に立ち寄って受け取り、そのまま持ってきた。それだけのことなのです。
 死と戦う人の病室にそれを持ち込むことの意味を考えることが出来なかった、それだけのことなのです。
 それだけのことなのです。


 当時の僕は恐らく、悪人ではなかった。
 人の心を理解しようとしない、そんな人間でもなかった。
 ただただ、幼かったのです。

 二十歳になってはいましたが、成長の遅いADHD、中身は十歳なのです。
 十歳の子が家族の手伝いを拒否する。イベントごとにはしゃぎ回る。病人の気持ちを考えずに無神経な言動をする、そんなことは、良くある話でしょう。
 だから、当時の僕の行動は、どうしようもない物だったのです。


 と、今の僕は、思わなくもない。
 けれども。

 その時から何年か過ぎ、多少大人になり、ようやく自分のしでかしたことの意味に気付いた時には、勿論そうは思いません。

 二十歳の青年が、大変な思いをしていた家族を助けもせず、はしゃぎまわり、喪服を病室に持っていった。
 僕はどれだけ自分勝手で、どれだけ残酷な人間だったのだろう。

 遅まきながらそう気付いた僕は、その日からずっと、自責を続けてはいます。

 ですが勿論、全ては手遅れであり、全ては無意味です。


 最後の見舞いの日の四日後、兄は静かに息を引き取りました。














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