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虚脱した友人を前に、やはり何も言えないADHD社長 【ADHDは荒野を目指す】

 6-29.

 台湾人女性と結婚し、台北に日本人向け進学塾を設立した僕は、ライバル塾による数々の妨害をもはねのけ、多くの社員や生徒を抱えるに至りました。

 けれども、ADHDである僕には、会社運営などうまく出来ません。特に人事は壊滅的で、オフィス内にはギスギスした雰囲気が漂い、辞めて行く社員の多い。
 その上、台湾人の妻とも関係がうまく行かず、結局離婚。

 そんな状況でも、肥大化した会社を支えるために、僕は週休ゼロ日で働き続けなければならず――肉体的にも精神的にも、どんどん疲弊して行きます。

 それでも、頼れる旧友・岩城が入社して、リーダーシップを発揮。これで僕も一息をつける――と思っていましたが。
 入社僅か三か月、その岩城が、社内のトイレで自殺未遂を起こします。
 幸い怪我は大したことがなかったものの、岩城はそのまま精神科に入院することに。

 数日後、精神科病棟にて、医師同席のもと岩城と会って色々話し合うことになりますが、その席にて、岩城の奥さんが僕に対して非常に攻撃的な態度をとり――話はこじれてしまいます。

 何の解決も進展もなかった岩城との面会を終え、僕は仕事に戻りました。

 岩城の奥さんに訴えられることが怖くはありましたが――とにかく目の前には大量の仕事がある。
 岩城の受け持っていた分の、八割ほどが僕の仕事になったのです。
 あれこれ悩んでいる暇などない。
 僕はただひたすらに仕事をし続けます。

 面会からまた三日ほど過ぎたある日、イーティンから連絡を受けます。

 ――岩城が退院してよいかどうかを決めるための診察に、社長であり友人であるべいしゃんさんに立ち会って欲しい。

 そう医師から依頼された、というのです。

 色々恐れている僕は、それを断ることなど出来ません。
 翌朝早くに病院を訪れる旨を、イーティンから医師に伝えてもらいました。

 そして、当日。
 早起きして身支度を整えていたところに、イーティンから着信がありますした。

 彼女は言うのです。
 ――医師から電話を貰いましたが、岩城はもう退院してしまっているそうです、と。

 は?
 僕は意味が分からず首を傾げます。

 ――昨晩の内に、退院してしまったそうですよ。

 何だそれは?
 僕は鼻白みます。

 僕の帰宅はいつも午前様、それから色々するため、寝るのは午前三時四時。
 その僕が、朝八時に起きて準備をしていたのに。

 流石に僕も怒りを覚えます。
 その感情が、恐れを吹き飛ばしました。
 僕は、岩城の奥さんに電話をかけます。

 しかし、出ない。

 僕はイライラを覚え、そのまま岩城に電話をしてみました。
 すると、あっさり応答が返って来ます。

 ――もしもし? どうした?

 岩城が、のんびりした声で電話に出るのです。

 途端僕は緊張を覚えますが、とにもかくにも言います――今日朝そっちに行く予定だったのだけど、と。

 ああ、と岩城は言います。
 ――君の立ち合いは必要ないと判断して、昨夜の内に診察を終えてそのまま退院したよ。

 僕はまた言葉を失い――また不快を覚えました。そして言います。

 ――僕は予定を空けていたのに、何の断りもなくそれにキャンセルをしたというのは、流石におかしいだろう。

 でもな、と岩城は言います。
 ――俺は入院中、携帯電話を取り上げられていたんだよ。だから、連絡出来る筈がないだろう。

 そう笑って言います。
 勿論僕の不快は収まりません。

 ――それならそれで、奥さんから連絡は出来ただろう?

 僕がそう言うと、岩城は不思議そうに答えます。
 ――じゃあ今から妻に電話を替わるよ。

 そう言われて僕は我に返ります。
 奥さんと話すのは流石に怖い――また録音されて、何か言質を取られる恐れが十分にある。
 慌てて僕がそれを断ると。

 ――え? どういうこと? じゃあ、ただ謝って欲しいだけなの?
 岩城は言う。

 僕はもう何を言って良いか分からず、曖昧に答えて電話を切りました。



 その二日後、岩城から塾にメールが来ました。
 ――退職したいので手続きをお願いします、と。

 まあそうなるよな、と僕は思います。

 ただの精神的な不調で一週間入院した――ぐらいなら、復職の可能性は十分にあったのですが。

 社内で、自殺を企図してしまい。
 さらに、ワンマン社長に対して、攻撃的な言動をしたのです。

 退職以外に、選択肢などあり得ない。

 覚悟していたことだとはいえ、僕は強い無念を覚えました。

 彼が加入することで、塾は大きく変わると思ったのに。
 僕の負担も一気に減り、まともな塾になると思ったのに。

 そんな夢は潰えました。


 その一方で。
 新しい社員が入るまで――それが何か月先になるか想像もつかない――僕の仕事は膨大なまま。
 しかも、退職後であっても、岩城夫婦が僕を訴えてこないとは限らない――そんな不安も残る。

 僕の気持ちも、相当に落ち込んでいるのですが。

 僕には、夜中に電話をして不眠を訴える相手も、上司から僕を守ろうとしてくれる家族もいない。

 ただひたすら、やらなければならない仕事があるだけです。


 その合間に、岩城の労働契約解約手続きをする時間を設けようとします。

 けれども、それが中々うまく行かない。
 娘の学校の都合があるので、朝早くや、昼過ぎは無理。
 僕の授業終了後の、夜十時ごろが一番都合が良いのですが――医師から夜更かしを厳禁されているので、それも無理。

 朝十時頃、という選択肢しかないのですが。
 その時間に勤務している、日本語講師の若い女性陣――特に血まみれのトイレを目の当たりにしてしまった上村という講師は、その情景に強い衝撃を受けており、岩城を強く恐れていて、その姿を絶対に見たくないと言う。

 オフィスに彼を呼べないとなると、カフェなどで会うしかないのですが――そういう場所では、多くの他人――噂好きの駐在員家族の目があります。
 そういう人に話し合っている内容を聞かれたら、どんな噂が駆け巡るか分かったものではない。

 僕の自宅も考えましたが――勿論、そこはいわゆる汚部屋、人が足を踏み入れられるような状況ではない。
 岩城の自宅に乗り込むのも、少し怖い。

 結局、塾から離れた場所、岩城の家の近くにある、レンタルスペースを押さえます。
 そこまでの往復でまた時間を失うのですが、どうしようもありません。

 その手続きの席に、岩城夫婦は少し遅れてやってきました。

 二人とも至極派手な服装をしていました。
 岩城は紫のシャツ、奥さんはキャミソール姿。

 ブラウス姿のイーティンを伴う、スーツ姿の僕は、ひどく違和感を覚えたが――でも、文句を言うべき状況ではない、と思います。

 退職の手続きを進めます。
 岩城は飄々としています。笑顔はありませんが、暗い顔でもありません。
 奥さんはいつも通り――楽しげに振る舞い、最初の挨拶から、笑い声を発します。

 僕とイーティンは、努めて感情を押さえて、退職手続きを進めようとしますが。
 これが中々進みません。

 何といっても、外国人との労働契約の解除、やらねばならぬ手続きが相当に多い。

 しかも。
 今まで何十人もの社員を雇用手続き、解約手続きをしてきた僕やイーティンには、それは慣れた作業ですが。

 岩城夫婦にとっては、勿論そうではない。

 初めて見る書類ばかりです。
 しかも、敵対的な関係にある会社から提示される、彼らの理解出来ない中国語で書かれたもの。
 そんなものに、気軽にサインが出来る筈もありません。


 勿論日本語訳をつけてはいますが、その訳が正確である保証はないのです。
 一文字一文字、どういう意味かを質問し、スマートフォンで調べ、夫婦で話し合う。

 遅々として進みません。

 時間の余裕のない僕は、強い苛立ちを覚えますが――どうしようもない。

 軽い文句だって口に出来ない。
 ――録音されている可能性は、十分にあるのですから。

 僕はただ、待っているしかありません。


 ただ、時折、少し悲しくなります。
 岩城夫婦は話し合っているように見えて――実際のところ、喋っているのは九割がた奥さんの方です。

 岩城はほぼ頷いているだけ。

 喋ることと言えば――サインをしていいのか、どこにサインをすればいいのか、奥さんに尋ねる時だけ。

 半ば魂が抜けている――虚脱状態のよう。

 あれだけ有能で、あれだけ明朗で――僕の畏敬する存在だった岩城の、そんな弱弱しい姿に。

 僕は、改めて胸に強い痛みを覚えます。


 もし僕が、もう少しまともな社長で、まともな友人であったなら。

 夜な夜な電話をしてきて、不眠を訴えて来た時点で、異常を察知して。
 彼に休職や、精神科への通院を勧めることが出来たでしょう。

 彼自身にそれが出来なくとも、奥さんに話すことは出来た筈。
 そうすれば、こんな事態を防げたかも知れない。

 彼をこんな状態にしたのには、少なからず、僕の責任もある――そう強く思います。
 謝罪しなければ、と思います。

 勿論、それは一時の感傷に過ぎないことも分かっている。
 岩城の行為は――僕の会社に就職したことを含めて、全て岩城自身の責任においてなされたことであり、僕がそこに責任を感じる必要など、一切ないことは分かっている。

 でも、ここで謝罪をすれば。
 そして、こちらこそ申し訳ないことをした、君のせいではない、そんな言葉を貰えたら。

 僕の気も、いくらかは晴れるでしょう。

 でも。
 僕は勿論、そんな言葉だって、口に出来ません。

 ――録音されているかもしれないのです。


 一時の感傷などのために、会社を犠牲にすることは出来ない。


 そんな口実に縋って。
 実際のところ、録音がなくとも、何を言う勇気もないくせに。


 僕は口をぎゅっと結んで、そんな岩城の姿をただ黙って眺めていました。

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