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集団に溶け込めないADHD 【ADHDは荒野を目指す】

 3-14.

 僕がチベットに向かったのは、何かの仕事があったわけでもないし、勿論崇高な目的などがあったわけでもありません。
 ただ、日本に帰る前に、寄り道をしたかっただけです。

 ビザの問題で出国をしようとしていた時に、ネパールで親しくなった人の中の数人が、チベットに行きたいと言い出しました。
 ネパールからチベットに合法的に行くには、旅行代理店でツアーを組んで貰わねばなりません。そして旅行代理店には、十人を集めないとツアー催行出来ないと言われた。
 そして彼らが集めたのは九人。自分も加われば十人になると聞いた僕は、日本に帰りたくない気持ちも手伝って、即座にそのツアーに参加することを決めたのでした。

 そしてその旅は、苦しくも楽しい物になりました。
 その数年前にヒッチハイクをしながら何週間もかけて稼いだ高度を、そのツアーでは、ランドクルーザーに座ったままたった四日で上がってしまうのです。
 高度順応の出来ていない体は、当然高山病にやられます。
 移動の一日目は問題ありませんでしたが、二日目の夜に苦しみ始め、三日目には絶え間ない吐き気に襲われてしまいました。何度もランドクルーザーを停めて貰い、道端に嘔吐します。最後の方は胃液すら出ず、奇妙な液体を吐き出す有様。

 ただ、肉体的には辛い状況であっても、精神的には余裕がありました。何せ旅仲間が大勢いるのです。彼らの中の数人も、僕同様に高山病にやられていましたが、残りは元気一杯で、僕の面倒も見てくれます。
 やがて僕の体も高度順応を果たし、三日目の夜には普通に動けるようになり、四日目には元気一杯になりました。
 そうして、数年前にはあれだけ苦労して辿り着いたラサに、悠々と到着します。

 そこから、ただ楽しい日々が始まりました。
 一緒に居たのは、皆楽しい人達でした。
 陸路で韓国を目指すというバングラデシュ人――北朝鮮をどう通過するつもりなのかは最後まで分かりませんでしたが――、氷点下の真夜中でも屋外で裸になって体を洗う屈強なインド人――本名が『ダイヤモンド』でした――、高山病に倒れても大麻を手放さずずっと笑っているイングランド人。

 そして日本人も皆、底の抜けたような人達でした。
 皆、仕事をやめて、年単位で旅をしている人達です。芸能界にいた人もいれば、現役ミュージシャンもいる。モスラの人形とカメラしか持たない――着替えさえない――で旅している十八歳の青年もいれば、二週間の旅のつもりがタイ人女性に恋してバンコクを半年離れられず、その後失恋の挙句、旅を続けることにした男もいる。

 ボーリングや温泉やキャバレーに出かける者がいる。売春宿に出かけたりする者もいれば、チベット人巡礼者に混じって五体投地をする者もいる。市場で生きたスッポンを買って来て、名前をつけて暫く飼育した後、近くの食堂で調理をしてもらい、おいしくいただく者もいる。

 色んな場所を旅してきたとはいえ、日本ではお堅い世界しか見て来ず、旅先にいる時にもほぼ一人ぼっちで過ごして来た僕――つまり世間知らずだった僕にとっては、彼らは恐ろしく新鮮で、刺激的な人達でした。

 そして彼らにとっても、エリートコースを歩いて来た僕は、ひどく珍しい存在であるようで、そして大いに敬意を示してくれました。挙動不審としか言いようのない僕の振る舞いにしても、「やはり賢い人は違う」という感嘆の対象にするぐらい。

 僕はその一員として、とにかく楽しく過ごします。

 

 僕のそれまでの人生において、一対一で親しい関係を築いた相手は男女問わずそれなりにいますが、集団の一員として、楽しく振舞えた経験は、学生だった頃の一時期を除き、殆どありませんでした。

 ADHDであるが為に、空気が読めないせいもある。
 プライドが高すぎるがために、我を出し過ぎてしまうせいもある。
 コンプレックスが強すぎる為に、少し白い目で見られただけで激しく傷つき、その集団から逃げ出してしまうせいもある。

 けれども、そのラサの集団の中では、僕は不快な思いを一つもすることなく、穏やかな気持ちで過ごすことが出来ました。
 生まれて初めて出来た、『仲間』でした。


 しかし、そんな楽しい日々にも、やがて終わりが来ます。
 旅費の限りや、今後の予定のある人から、ラサを去って行きます。一人二人と去って行くと、残された者はどんどん寂しくなり、そして彼らも去って行く。

 そんな中、僕は仲間の一人である津村と共に、今後について話し合っていました。

 津村は端正な顔をした、三つ年下の日本人男性です。
 彼は初対面の頃から、何度も言っていました。

 ――自分は英語も話せない。頭も悪いし体力もない。でも旅はしたい。だから絶対に、旅慣れた人にくっついて旅する。「バックパッカー」ならぬ、「パラサイトパッカー」だ、と。

 そう自信満々の体で言うのです。

 そんな津村が、僕に提案してきたのです。

 ――自分はクンジュラブ峠を越えたい、と。

 クンジュラブ峠とは、チベットの遥か西方、中国とパキスタンの境にある、標高約五千メートルの峠です。
 舗装はされていますが、その道の険しさ、さらに両国の政情の不安定さの為に、かなりハードな国境越えだと聞いています。

 ――そんな峠を、俺が一人で越えられる筈がない。だからべいしゃんさんが行くなら、それについて行く。
 そう、堂々と言うのです。


 僕は迷います。
 そう、本来このチベットに来たのも、ただの寄り道のつもりだったのです。
 ラサの次は成都に飛び、そこから日本に戻るつもりだったのです。
 それが、もしこれから西方に行くとしたら――流石に、寄り道にも程がある。

 でも――僕の心は揺れます。

 津村だけでなく、おそらく僕が一人であったとしても、クンジュラブ峠を越えることは出来ないでしょう。
 学生時代にヒッチハイクでラサを目指した時や、一人きりで大学合格を目指した時の、「虚仮の一念」のような強い意志のようなものは、最早僕の中にはありません。
 三十歳が近づき、社会復帰を焦る小さな男がいるだけです。
 そんな過酷な道を、一人で切り抜けることは出来そうにもない。

 それでも――旅をしたい、という気持ちだけは、相変わらず根強く心の中に居ついています。

 津村という、気心の知れた相方がいれば――一人でいる時よりも遥かに危険に遭遇しにくくなるし、退屈凌ぎになるような相手がいれば、その旅もなんとかやりぬけそう。

 でも――やっぱり、今更旅をしている場合ではないのではないか。
 履歴書の穴が大きくなればなるほど、社会復帰は困難になる。
 それに、これ以上旅をしてしまえば、もう旅の止め時を見失ってしまい、生涯フラフラしてしまうのではないか。

 そんな風に考え、心は揺れます――が、すぐにその揺れは収まります。

 僕は、気付いたのです。
 パキスタンには、中学生の頃の僕が、強く憧れた土地――『ガンダーラ』があることを。

 そして思ったのです。
 ――そこに行けば、僕は旅を終えられる、と。

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