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鳥葬という祭り 【ADHDは荒野を目指す】

*注意!
 今回の記事には、いわゆる「グロい」描写がふんだんにあります。苦手な方は、是非読まずに飛ばしてください!


              ↓↓ 以下本文 ↓↓

 2-31.

 鳥葬とは、死体を鳥に食べさせる、チベットの葬儀のこと。

 その程度の知識は、あらかじめ持っていました。
 そして漠然と、山に放置した死体を鳥が食べる、そんな風に思っていました。

 けれども、実際のそれは、想像とはまるで違うものでした。

 最初に、石畳みのサークルの上で、大柄な僧侶が大きな鉈を振るい始めるのです――遺体を解体するために。
 三つの遺体の肌を切り裂きます。
 体液が零れ落ちます。

 途端、とんでもない悪臭が周囲に流れだします。
 あらかじめ別の僧侶が、草を燃やして煙をまき散らしているのですが、殆ど効き目がありません。

 凄まじい匂いです。
 喩えようがありません。
 同じ匂いを、過去一度嗅いだことはありますが――それは、大学の授業の一環で、行倒れた遺体の解剖に立ち会った時のこと。

 その後も一度、その匂いを嗅ぎますが――遠くアフリカにおいて、無数の死体に囲まれた時のこと。

 死の匂い、としか呼べない匂いです。
 気分が悪くなった僕は、急いで風上の方に移動します。

 僧侶の解体は続く。
 骨までは断ちません。ただ肌を切り裂き、食べやすくする。

 そしてその間に、ハゲワシ達がサークルの周囲を取り囲みます。
 口々に、ギャアギャアと鳴く――興奮ぶりが伝わってきます。

 けれども、彼らはサークルの中には決して入ってきません。
 サークルを取り囲んで、ただただ騒いでいる。

 しかし、僧侶が解体を終えて、サークルから出た途端――饗宴が始まります。

 ある物は必死に駆け、ある物は飛び上がり、一斉に死体に群がる。
 遺体はハゲワシの中に没します。

 頭を上げたハゲワシの顔は、真っ赤に染まっている。
 一羽の嘴の先に、赤い肉片が見える。
 すると隣のハゲワシがその肉に食らいつき、肉片の引っ張り合いが始まる。
 一羽がヨタヨタとサークルから出て来たかと思うと、僕の足元近くで、肉片を吐き出す。そしてすぐに、サークルの中に戻る。

 狂乱の声が、さらに高く、大きくなる。


 そんな時間が、三十分ほど続きます。
 その間、脇に座る僧侶たちは読経を続けています。
 サークルを取り囲む人々――間違いなく遺族の人々でしょう――は、黙ってその光景を眺めています。

 やがて、ハゲワシが減り始めます。
 満腹したのでしょう、赤く染まった顔のハゲワシ達が、一羽、また一羽と、飛び立ちます――山へと戻って行く。

 ハゲワシの殆どが去った後、サークルの上に残されているのは、髪の毛と僅かな肉片の付着した、骨だけ。

 僧侶が再びサークルに入ります。
 残って食べていたハゲワシを取り除くと、彼は骨を持ち上げます。
 全身の骨が、ばらばらになることなく、一つにくっついたまま持ち上げられる。
 僧侶はそれを低い台の上に載せる。
 そして、脇にあった大きなハンマーを振り上げます。

 勢いよくそれを振り下ろす。
 骨が、音を立てて砕かれる。

 何度も何度もハンマーを振り下ろす。
 やがて、三人分の骨は、大量の粉末にと変わります。

 僧侶はそこに、大麦の粉を混ぜます。
 そして、サークルの上に、それをまき散らす。


 途端――興奮の声が沸き上がります。

 ハゲワシではありません。
 カラス達です。

 最初はハゲワシの外側で控え、ハゲワシが去った後は前列に出て待ち構えたカラス達。
 僧侶がサークルから立ち退いた途端、カラス達が躍り上がります。

 人の骨であった粉末を目がけて、殺到します。

 狂乱の声が、その空間を満たします。


 

 そうして二時間ほどで、サークルの上に髪の毛だけを残して、三人の姿はほぼ完全に消え去りました。

 僕は、暫くの間茫然としていました。
 それは、余りに壮絶な光景でした。

 葬儀に参加し、遺体や遺骨を見たことは、勿論何度もあります。
 インドの聖なる河に流される死体も見た。カンボジアに転がる遺骨も見た。
 日本でも、死体解剖を見たこともあります。手術で摘出された兄の臓器を見たこともある。

 でも、それらが食べられる、その狂乱の宴は――流石に、想像を絶するものでした。


 けれども、それだけでした。

 その日僕は、遺族たちや僧侶と共にその丘を下り、再び宿坊に入り、カップ麺を食べ、トイレで震えながら用を足し、火鉢の熱を感じながら眠りに就きました。
 その風景の壮絶さに反して、僕の精神には何の傷跡も残りませんでした。  
 興味深い物を見た、ただそう感じていただけです。

 
 鳥葬を見れば、死生観が変わる。
 少なくとも、肉が食べられなくなる。

 同じくチベットの鳥葬を見た人から、そんな話を聞いたことがあるのですが――そんなことは、一切ありませんでした。

 それは、僕が何か確固たる信念を持っているからでも、達観しているからでもない。
 まともな「死生観」なるものを、持っていないからです。

 たった一人の兄の、二十二歳での夭逝に対してすら、燥ぐ以外の行動ができなかった僕です。
 自分自身の目の前のことだけで必死な、ADHDの僕です。

 自分の死に関しては、深く深く考えてきましたが、他人の死に関しては、殆ど何の関心も持てないのです。

 人が死ぬ。葬儀という名の、非日常の祭りが行われる。祭りが終われば、それを残念がりながら日常に戻る。
 それが、僕の持つ死生観の全てです。


 日本においては、異常とも評される精神ですが――でも多分、チベットにおいては、その反応は間違っていないのだと思います。

 輪廻転生を信じる彼らにとって、死というのは、魂を入れる容器の交換にすぎません。
 そしてその不要になった容器を、リサイクルに出しただけなのです――肉体を鳥に食べさせることで、食物連鎖のサイクルに戻しただけなのです。

 鳥葬の際、泣き叫ぶような遺族は一人もいませんでした。
 僕という異教徒がそこにいることに、異を唱える人もいませんでした。
 外国人にそれを見せて金を儲けることに、罪悪感を感じる僧侶もいませんでした。

 遺族も僧侶も僕も、祭りの参加者でしかなかったのです。 

 そうして僕は、壮絶な光景を見たという満足感だけを胸に、旅に戻ったのでした。

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