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はじめての〇〇に憧れる うざみのおすそ分け

文明の進んだ現代で はじめて〇〇をしたというのはもう無理かもしれない。

一通りのことは試されている。

どんな分野でも はじめて〇〇したというのは羨望の眼差しをむけられる。

いいなぁ。

僕もそういうのやってみたい。

なにかの縁でnoteにエッセイを投稿しているのだから言葉で はじめての〇〇を発明したい。

もちろん一発屋ではなく後世に語り継がれるようなやつ。

単語を作るというよりは短文がいいかな。

僕がそう思い立った魔法の言葉がある。
それは誰しも一度は耳にしたことはある言葉だ。
いや、誰しもが一度は口にしたことがあるんじゃないかな。

「いたいのいたいのとんでいけ〜」


と。

すごくない?
そんなわけないのに。
どんな根拠があってそんなことを言うのか。

はじめてこの言葉を作ったひとの才能が羨ましい。

痛みはとんでいくものではないのに。
痛みはひくものだ。

とんでいくということは そこからなくなるということ。

優しさに溢れている。
僕も言われたことも言ったこともある。
痛みで泣く子どもに なすすべがない時に重宝する。

でもこの言葉で問題いたみが解決するわけではない。

子どもは大人が魔法をかけてくれたと感じる。

大人も子ども助かる魔法の言葉なのだ。
なんて汎用性の高い言葉だろうか。

こういう言葉を発明したい。


まぁでも。

子どもは気が付いている。

大人がこの魔法まやかしの言葉を口にしたとき。
まだ痛くても我慢しなくてはいけない空気になることを。
子どもながらに鋭く察知する。

魔法の言葉というのは大人が自分たちに都合よく解釈しているに過ぎない。

子どもは大人の期待に応えようとする。

大人がとんでいけ〜と言っているのだ。
優しい目をして 優しい声で。

とんでいくわけがないのに。
でも とんでいかないと困る。

おたがいに。

子どもは無意識に忖度する。

それが生存戦略というもの。


あれ?
エッセイの主旨がズレてきている。
すごい良い言葉だなぁと思って書き始めたのに。

おかしいな。

僕がこんなにも痛いうざいわけがない。

素直ないい子のはずなのに。

だれか僕にもいたいうざいいたいうざいのとんでけ〜ってやっておくれ。

優しい目と優しい声でね。

ちゃんと忖度して素直になるから。

あ、でも とんでいったいたみうざみはあなたのところにとんでいくかもしれない。

さぁあなたにその覚悟はあるか。
こっちはおすそ分けの準備はできている。

おすそ分けしないとうざみが増す。
なんとかしておくれ。


毎日エッセイを投稿していればそのうちはじめての〇〇を発明する日がくるかもしれない。

そんな楽しみも秘めながら これからもエッセイをしたためていこうと思った。

ではまた。

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