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あれから14年

令和6年能登半島地震で亡くなられた方々に謹んでお悔やみを申し上げます。
また、被害に遭われた方々の心の安まる日が1日でも早く訪れることを心より願っています。
人命救助に携わっていらっしゃる方々、自ら被災しながらも業務に当たっていらっしゃる方々、ありがとうございます。

3月11日が今年も近づいてきました。
ニュースでは例年、
「あの日を忘れないように」
とか、
「あの日を今一度思い出して」
とかいうフレーズが聞かれるようになりますが、私は
「忘れたい。でも忘れたくても忘れられない」
「頑張って思い出そうとしなくても、日常の中でふと思い出している」
ので、わざわざ「忘れないで」とか「思い出して」という風に言われるのが苦痛です。
毎年、同じような内容で、同じような方々が震災を語っているのを見るのも聞くのも辛いのです。
だから、1月から3月は震災報道をしているニュースやラジオをあまり見ないし聞きません。
3月11日は14時46分が近づいてくると心がザワザワしてくるし、追悼のサイレンが鳴ると緊張している自分に気付きます。
それらが過ぎ去ると、どっと疲れます。
そして、やっと気持ちが楽になります。
2011年から13年が経っているのに。

2024年1月1日の16時6分、16時10分は初詣の行列に並んでいたところでした。
緊急地震速報を知らせる音がスマホから一斉に鳴り始めましたが、いつもなら緊急地震速報が流れる時は地鳴りと共に大きく揺れていることが多いので、地鳴りも揺れも感じないのに緊急地震速報が流れたことに「誤報かな?」という空気が辺りに流れました。
しかし、スマホで通知を見た人たちから次第に「能登半島で地震だって」「津波警報が発令されてるよ」というひそひそ声が聞こえるようになり、周囲がなんとも言えない空気に包まれたのを覚えています。

私は一気に、13年前の3月11日に心が引き戻された気がしました。
雪が舞う、あの寒かった日と、神社で並んでいる時の寒さが重なったようでした。
行列の先頭になってお参りしたときには、どうか能登半島の地震が鎮まるように願いました。
帰宅時に流れるニュースの映像は、3月11日もこんな風にニュースが流れていたのだろうか…と考えさせられるものでした。
3月11日当日は強い揺れの後に電気も電波も全て無くなって、どんなことになっているのか全く分からなかったので、能登の様子を伝えるニュースに目と心が釘付けになりました。
でも、ふと「これはフラッシュバックを起こしそう」と思い、ニュースを見るのをやめました。
案の定、一緒にニュースを見ていたパートナーは緊急を伝えるサイレンの連続に疲弊していました。

なんという新年の幕開けなのでしょう。

1月1日の地震から4週間が過ぎようとしています。
いま私の中でぐるぐると渦巻いている感情や思考があります。
言葉にするなら、
「もう私たちは被災地や被災者と名乗るのをやめよう」
という感情です。
毎年どこかで水害があり、大きな地震が数年に1回は起きています。
被災地に住むことや被災者になる可能性はどこにでも、誰にでもあります。
一度被災すれば、突然、自分の住む場所が被災地と呼ばれ、被災者のカテゴリーに括られます。
そして、支援されることはありがたいことであると同時に、どこまでも支援されることに依存してしまう深い深い誘惑もあります。
また、支援して「ありがとう」と言われることにも自己有用感の高まりがあり、いつまでも何でも支援し続けてしまう誘惑があります。
被災する前は自立した生活を送っていたはずが、いろいろな依存にはまるポイントが存在します。
誰かを恨み、何かのせいにし続けることも簡単です。
あっという間に、被災地で暮らす被災者のイメージ通りに動き始めてしまう。
2011年から2013年の間の2年間、被災地支援の仕事をしていましたが、忘れられない言葉があります。
「被災者なんだから、タダでくれるんじゃないの?」
「企画のイメージに合う被災者さんを知りませんか?」
支援活動を辞めよう、と決めたきっかけの言葉でもあります。

言葉が足らず、表現が適切でないところもあるかと思います。
能登半島地震をきっかけに、心の中にたくさんの思考が渦巻いています。
自分の居住しているところで、声に出していく勇気がないばかりにここで心情を吐露してしまいました。
ここまでお読みいただいた方に感謝いたします。
拙い文章になりましたが、お読みいただきありがとうございます。

私は、被災された方々に心を寄せます。
私の出来ることをしていきます。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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