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【発達障害】精神年齢が実年齢の2/3説について物申す

わたしが身近で関わったことのある成人済み発達障害当事者は、ASD男性とADHD男性の1人ずつ。

前者は幼少期にアスペルガー症候群との診断を受け、発達障害にも寛容で理解があり、とても忍耐強い看護師のお母さまの教育の賜物か、本人の努力か、とても優秀な成績で医学部へ進学した。
小学生から理系分野で頭角を表し、興味が強かった液状化現象について自由研究をしてその完成度の高さにクラスメイトも先生たちもみんな驚いた。お喋りのときの特徴的な語尾はあったが、明るくて気のいい性格でいつも真面目だった。アレルギー体質で花粉の時期はいつも苦しそうにしていたが、今年から大学病院の研修医になるそうだ。ただ、やっぱり感情への理解が乏しいところは相変わらずである。わたしと同い年の24歳なのでまだ珍しくは無いかもしれないが、恋人ができたことは一度もないらしい。

一方後者は、ADHDに加えて何かしらの精神疾患(ぼくは躁うつだと思う、という自覚はあるようだった)という診断が出るのが恐ろしい!と家族が何度勧めても精神科に行かずペットボトルのゴミ袋が山積みのゴミ部屋で暮らしていた。ゴミ捨ての時間に起きられず、週に1度の回収日を逃し続けていたら増えてしまったらしい。洗い物が億劫だから、と紙皿と使い捨てのカトラリーしかない家だった。
彼はあらゆる刺激への依存気質であり、恋愛では毎回べったりストーカーのようになってしまうためにこっぴどく振られて痛手を負い、ストレスを発散するため酒や過食でやらかしまくり、過食が行きすぎてまるまると肥えていた。30歳を過ぎているはずなのに、話していると身体だけ大きくなった中学生のような気がしてしまう。世間知らずで、理想しか見えていない幼さのある人だった。

では3人目の例として、自分の話に移る。
わたし自身のことはたくさん記事にしているので、そこからなんとなく感じ取ってくだされば。波瀾万丈とまでは言わないが、見た目はノーマル、中身は結構なギャップ萎えクレイジーガールとしてこれまで生き延びてきた。たまに、自分が常識はずれな、聞かれたことから少しズレた回答をしてしまって凹んだりしている。でも自分のどこが駄目か・どうするべきだったのかは逐一反省して気付けているほうだ、と思う。(思いたい。)

さて、わたしは現在24歳なので、2/3となると精神年齢16歳。顔だけで言えば無理があるのが正直な感想。やっとこさ高校入学したくらいの計算になる。見た目年齢は年相応なはずなので、さすがにもう少し、中身が大人でいてほしいなとは思うけれど…
定型発達の友人たちにはよく「毒舌キレキレだったあの頃からあんまり変わらないね☺️」、と言われるのはどうもこれのことな気がしてならない。定型発達の友人らは、久しぶりに会うと社会の荒波に揉まれて幾分か、疲れた顔をして貯金やふるさと納税の話をしていた。丸くなったね。

個人的には顔付きも、定型発達より発達障害人のほうが若々しく見える気がしないでもない…
だが、もちろん個人差も大きいと思う。ちゃんとした根拠はないので偏見だけれども。特にASD傾向が強い方は、表情筋が動かないのか、シワができにくそうなイメージがある。あと無表情で愛想笑いなどをしないなどは子供だ、とは思われたりするかもしれない。

では、精神年齢って具体的に何を指すのだろう。
感情への理解の深さだとすれば、ASDは苦手だろうし、嫌なことにも我慢して取り組む力だとすれば、わたしをはじめADHDは苦手な人が多いだろう。でも、わたしたちだって、特性ゆえに傷付いた経験から、他人の痛みへの配慮などはできるのではないだろうか。身をもって痛い目にあったことのない人にはピンとこないかもしれないが。

わたしには、今まで挫折や理不尽な目に遭うことなく幸せに生きてこられてしまったタイプの定型発達人のほうが、遥かに幼稚に思える。
彼らは自分と向き合ったことがなかったり、できない側の事情を想像すらできなかったりする。自分を基準で物事を考えてしまうと、その他大勢の苦しみを無視することになる。そんな環境の良さという下駄を履いた状態で見下されても、その下駄こっちにくれたら今度はお前が弱者だ、とわたしはつい意地悪なことを思ってしまうのだ。

お金、
良好な家族仲、
快適な住環境、
生まれ持ったIQ、
自己肯定感や自信、
不調のない健康な身体、
不調のない健康な脳。


それらの環境に恵まれていたから自分は成功できたのだとわかっている人がどれほどいるだろう。大抵は「自分が努力したからだ、ほかの人だって努力不足なだけで自分と同じだけやれば成功できる」とのたまう。生まれたときから足の裏に生えている高い高い下駄を脱いだこともないくせに。
別に発達障害に限らずとも、幼い精神性の人は世に腐るほどいるわけで、自分は定型発達に敵わないなんて思う必要はないと思う。

ただ、自分に足りない部分があるかもしれないという謙虚な姿勢でいることはとても大事だ。人の上に立ちたいなんてプライドはゴミ箱へ。
足りない部分があるならひとに頼ればいい。頼ったときに助けてもらえるような人間性かどうかは、人生がうまくいくか、転げ落ちてしまうかの境目な気もする。
困ったときに意地を張って拗ねるのではなく、「いま困っているよ、助けがほしいよ、お願いします😢」と言えたほうが、差し伸べられた手に感謝して甘えられるほうが、遥かに大人ではないだろうか。


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