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哲学①「時間の存在の不思議さ」について思い、考えること

※この文章は、学生時代に哲学の授業レポートで書き記したものとなります。

時間とは、個人的には「積み重ね」というよりは「連続性」であるように感じる。いや、言葉が異なるだけで本質は同じことか。
私にとって過去・現在・未来とは以下のようになる。

過去=あったもの(あったかもしれない)記憶
現在=あるもの、まさに今、知覚を含むもの
未来=あるかもしれないもの、あるだろうもの、予期するもの

昔から阿吽像(金剛力士像)が好きだ。寺院では左に阿形、右に吽形が設置されているのをよく目にするが、それは「この世のすべてを阿吽として観ているために悪事は許さない」とする、ある種の警備や魔除けの意味があったと修学旅行で聞いた。

しかし、私は全く別の意味で好きなのだ。それは「この世の始まりである(かもしれない)阿形とこの世の終わりである(かもしれない)吽形の狭間に立つと、自身がその場に立つことすら阿吽像には見破られていた」ように感じるからである。明確な時間の流れを感じ、「まさに今」時の狭間に自らが落とし込まれたような感覚を抱くのである。そこには「落とし込まれたような」という、フッサールで云うところのその人にしか持ちえない「知覚」や「パースペクティヴ」が存在する。

山崎ナオコーラさんによる『美しい距離』(文藝春秋)では、語り手である主人公の夫が、人が亡くなって哀しいのはその人の存在が失われたことが哀しいのではなく、その人のこれからの未来の時間が永久に失われたことが哀しいのではないか、と気付くシーンがある。本当はあったはずの未来にその人が生きていないということが一番哀しいことなのだと、「死」と「時間」の関係性を思い出した。

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