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《掌編》虚空と邂逅 BYREDO ビブリオテークに寄せて

 それは、鎮魂歌というにはあまりにも響きが強く、魂の復活を願っているかのような音色だった。バイプオルガンの響きが時空を超え、彼の従兄弟の生を確かめながら、一音ずつの音を放つ。

 第二次世界大戦中、音楽学生だった鬼頭恭一の楽譜が戦火と記憶の靄の中から拾い出され、恭一青年が従兄弟を失った悲しみ、そして戦時中の国民への鼓舞激励をこの21世紀のホールとそれを聞く人の胸に振動させる。その時、我々は言葉を紡ぐことが出来ない。鎮魂歌を作曲した彼もまた戦争に招集され、亡くなっているのだ。間接的な久遠の記憶に耳をそば立てれば、哀憐の情が湧く筈もない。我々はあまりにも多くのものを失い、それを忘れながら前進し、自由と快楽を思いのまま享受してきたという負い目を持っているからだ。後に生きる我々は、靄の中から情報を引き出せば、何とでも意見を述べることができる。だが、それが出来るのは魂の純度が低く、想像力が乏しい者の特権だ。

 何とでも言葉を吐き出せる現在、ちょっとした衝動や欲望で相手を傷つけられる。だから私は圭ちゃんの演奏する姿を正視することが出来なかった。

 演奏を終えた圭ちゃんが椅子から立ち上がると、視点が定まらない表情のまま深く頭を下げる。

 木造のホールのロビーに出れば、夏の暑さを和らげるような淑やかな雨が降っていた。むうっと木々の匂いがする。光のきらめきをぼんやりと見ていると、圭ちゃんがこちらにやって来た。

「よく、頑張ったね」

 数年ぶりに会った圭ちゃんは随分と痩せており、顔つきが険しくなっているように思えた。圭ちゃんの病気については、母から伝え聞いていた以上に聞きたくはなかった。

 2人で遊歩道を歩きながら、圭ちゃんは80年以上前の楽譜をもとに楽譜を読み直す作業や解釈する作業が大変だったこと、休学期間を終え、来年の大学卒業を目標にピアノに向かっていることを話してくれた。

「私、この間はごめんね」

「気にしないで」

 圭ちゃんは低く笑い、私の次の言葉を制した。

「圭ちゃんの演奏を聞いている時は、どこにいるのか分からないような感じだった。急に感情がグッと極まったかと思ったんだけど、その後に虚しくなったり、戦争のイメージと結びつかなかったり。」

「でも、生きているんだよね」

「うん」

 圭ちゃんとの短かい会話は駅の改札口で途切れた。

「元気でいてね」

「まきちゃんもね」

 1人、プラットホームに立った時、私はもう圭ちゃんには会えないんじゃないかと、嫌な予感でおかしくなりそうだった。でも、それと同時に、鬼頭恭一も彼の曲を聞いた今の人も昔の人も、そしてプラットホームに立つ他の人たちも全員、丸い、大きな1つの魂の中で満員電車のように押しつぶされながら、今を生きているんじゃないか、そう思った。

この作品は、BYREDO ビブリオテークの香りから着想を得た作品であり、香水のイメージを文章にしたものではありません。

鬼頭恭一は1942年に国立音楽学校に在籍した戦没学生で、実際の人物です。彼の鎮魂歌をコンサートで聞き、いつかは小説にしたいと考えており、文章にしました。

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