見出し画像

20240308 「奇子」手塚治虫

「奇子」という作品にすごみを感じるのは、物語の舞台設定が「終戦直後の日本」に設定されているところだ。

冒頭、復員兵の乗った大型船が横浜港に到着するところから物語は始まる。船をおりた彼らを家族や恋人がおおよろこびで出迎えている。戦争が終わり、民主主義がひろまり、平和な時代がやってきそうな、一見明るいムードだ。しかし、これから描かれる物語には、目を背けたくなるようなひどい展開の連続がまっている。

あれだけ「反戦」的な作品をつくり続けてきた手塚治虫が、戦争が終わったあとの世界で起きる地獄を描く。結局のところ戦争が終わり、平和な世の中がやってきても、そこにまた新たな地獄が生まれる。人間のおろかさとか、どうしようもなさに対するまなざし。自分の身が危うくなれば生きるために人を殺す。その性質からは逃れられない。

語弊をおそれずにいうと、「戦争もの」のジャンルで人間の残虐さや非道さを描いた作品はありふれている。しかし、あえて戦争から距離をとったうえでこういったテーマのものを描くというのは、なんとも人間に対する諦観とか絶望がよけいに伝わってくる。

さらに、「戦争」というと、なにか抗うことのできない大きなものに個人が巻き込まれていくマクロなイメージがあるが、奇子で描かれるのはあくまでごくミクロな家族単位の物語だ。人間はもっとも身近で親しい間柄であるはずの家族とすらいがみ合い、争い合ってしまう。血をわかちあった関係なのに、内心では憎しみ合い、殺しにすら手を染める。



しかし、この「奇子」という作品の魅力は、そういった「闇」の部分だけではない。むしろ、闇が深いからこそ、光の部分が描かれたときに、よりいっそう輝かしさを感じる。

その「光」とは、手塚治虫がずっと描きつづけてきた「生」に対する執着、あるいは愛情の力強さだ。

そういった人間の美しさ、生のエネルギーをもっとも体現しているのが奇子そのものだろう。成長して大人になった奇子の造形は異常にエロい。純粋に顔だちが美しいだけではなく、手足が長くて胴体もわりとしっかりしている。モデル体型ではあるが、スリムというわけではない。生命力があふれていて、なにか動物的な感じすらする。

それは外見だけでなく、内面においてもそうだ。彼女は生きるため、あるいは「だれかを愛したい」という強烈な欲求のために自分の美貌を利用し、ところかまわず男性を求めようとする。


奇子の美しさを際立たせているのは、天外家を中心とした人間の醜い内面だけではなく、その他のキャラクターの造形にもあらわれている。奇子と比べると志子の顔はあきらかに地味めに描かれている。また、当主の作右衛門は顔がブサイクな上に、夜這いシーンであらわになる裸体はしおれていてひどく醜い。さらに、陰謀にまきこまれてメチャクチャに潰された男の顔面がどアップになっているコマがあるが、これにはだれもが目を背けたくなるはずだ。このようなビジュアル的な「醜さ」に対して、今作は非常に意識的に描かれていたという印象がある。

光と闇、生と死のコントラストが両方とも存在することで、お互いを際立たせている。


あるいは、そういった光と闇が混在することで、「人間」という生き物の正体がわからなくなっていくとも感じる。

天外家で唯一の良心と思われた男ですら、これは果たして「いいこと」なのだろうか?という行動に手を染める。「奇子のため」という免罪符つきではあるが、あれだけ忌み嫌っていた旧家の悪しき伝統を自分も継いでしまっているという矛盾。また、あれだけ利己的で身も心も醜かった人間が、病床に臥して口もきけない状態になっている姿を見ると、かわいそうだと思って情が湧いてしまう。
これらの感情はなんとも言いがたいが、人間ならではの不思議なものだと思う。

なにか人間のつかみどころのなさとか、良いのか悪いのか、わからないという感情がますます強くなっていく。



個人的にもっとも胸が痛くなったのは、お涼が死ぬシーンだった。

奇子と2人で池のふちを歩きながら、お涼は「あい、仁朗さまきれえだ」「あいみんなすかん」など、自分をいじめる天外家に対する不満をぶちまける。そして、よその家に嫁になって出ていく夢を語る。

「嫁っ子のう、ええべべ来てこうやって歩くだ」
「この道まっツぐまっツぐ歩くだ」

その言葉を最後に、お涼は池に突き落とされる。そしてそのままおぼれ死ぬ。

上段のセリフはなんとも白痴らしいというか、実現可能性のひくい単なる夢想ではあるのだが、子どもじみていてかわいらしいなと思う。「きれいな服を着て、まっとうに人間あつかいされたい」という人間ならだれしもが感じるであろう願いだからだ。

だが、人の悪意や殺意、そして暴力はそんなものをあっという間に押しつぶす。おそらくお涼は自分が殺される理由もわからないまま死んだのだろう。池に突き落とされるシーンの描き方がお涼視点ということなら、自分がだれに殺されたのかもわからなかったはずだ。やりたいことを残したまま、ある日いきなりだれかの都合で殺されてしまう。

必死に地上に這いあがろうとするところを、丸太が無慈悲に何度も池に押しもどす。その間なんとか呼吸をしようとして言葉を発さずに必死にもがくお涼の様が、ひどく哀れで胸が苦しくなる。これが人の最期だとすると、こんなにかわいそうなことはなかなかないとすら思う。読了後も、このシーンが頭に焼きついて離れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?