1番目アタール、アタール・プリジオス(13)嵐の日
*
求婚したばかりの女の前で…。
エクトラスは俯いたまま、しばらく下唇をぐっと噛み締めていた。
外界では灰色の空から雨が降り始め、神殿の窓を叩いた。風も強まる。
「…逃亡者。いったいどうして? 船が難破したからではなかったのですか?」
「確かに難破した。それは事故だ…僕はね、海中に投げ出された。僕と数名の船員は泳ぎの心得があったが、ほかの乗員たちは溺れて死んだ。
海の藻屑だ。僕は大波に何度も呑み込まれそうになりながら、ようやっと割れた甲板の大きな木片まで辿り着き、それに捕まり、ここへ流されてきた。…一緒の板に捕まろうとした船員たちは、みんな蹴落としてやった。彼らは力尽きて沈んでいったよ。
はは…ねえ、僕はひどいだろう?」
「…あなたの生きることへの執着が彼らより勝った結果でしょう」
「ははは…そうとも取れるね。でも僕がそうしたのにはね、もうひとつ理由があるんだ」
窓の向こうは、雷雨になっていた。
ミューフィは語る彼を見つめた。
「僕はね…聖地巡礼を果たしてから死にたいと懇願したんだ。だってさ、本当は僕の予定じゃなかったのに、候補だった奴が急死しちゃってね、それで突然僕にお鉢が回ってきちゃったんだ」
「候補?」
「あー。そう、贄人のね」
「贄…人…」
「『贄の儀式』というのが9年に一度あるんだ。僕らの国にはね。それは《神王家》と呼ばれる3つの家が順番に主宰する儀式でね、主宰する一族から1人、神に命を捧げねばならなくて…それを贄人というんだ。
2年ほど前の『贄の儀式』の主宰はアペル家ではなくて、シャント家だったから、シャント家から贄人を出すわけ。
ところが、そいつが急病で死んじゃってさ…僕はアペル家の者だけど、母がシャント家の出身でね、死んだそいつの姉だったんだ。つまり、死んだのは僕の叔父。シャント家の当主の弟でもあった。でも、シャント家の一族は幼い子どもばかりで、当主には幼い子すらいなくて…贄人の候補になる15歳以上の男子が他にいなかった。
当主は主宰者なので初めからなれないし…そこで僕に白羽の矢が立ってしまったんだよ。
…………いい迷惑だ」
長々と語ってから、少し疲れたようにエクトラスは息を吐いた。
「ひどい儀式だろう? だが、3家が平等な地位を保つために、必要な人身御供でね…贄人を出さぬ家は貶められた。僕は本来アペル家の者だからアペル家が他の2家より優位に立てる好機ではあったんだ…。
僕には弟が2人もいる。上は12歳、下はまだ9歳だったのがね…要するに、僕が死んでも何とかなるってわけだ」
「それで、ときに19歳だったエクトラスさまが選ばれてしまったと?」
「はは…まあ、そういうことだ」
「……お辛かったですね…」
ミューフィは彼に寄り添い、その胸を彼の胸に押し付けるようにしてぎゅっと抱き締めた。
「同情してくれるのかい? 僕はただただ死にたくなかった……呆れた臆病者だろう?」
2人は唇を寄せて、互いを貪った。
ドーン!ドーン!…という地底までも打ち砕くような雷鳴が、だんだん強くなっていく。
雨はどんどん激しく、唸る風と共に神殿を揺るがした。
天を覆い尽くす黒雲からは、白銀の稲妻が克明に閃き、虚空に幾筋もの亀裂を入れた。
“世界”が、震えている…。
小さな島は、あっという間に、白昼に闇をもたらすほどの大嵐の中に包み込まれてしまった。
すべてが閉ざされていく…。
書庫の固い床から、起き上がり…。
書架と書架の間に座り込んだ2人は呼吸を整えながら、まだ手と手を強く握り合っていた。
嵐はまだ続いている。
今夜はここから出られまい。
「私は…少女の頃、この島を出たかった。この窮屈な世界から逃げ出したかったのです」
彼はただミューフィの言葉を聞いていた。
「ですが…2年と少し前、こんな嵐の夜に、島の外から来たあなたに出会い、あなたの素晴らしさに触れ…やはり私はこの狭い島の“聖域”の中で生まれ育った世間知らずの女。外では生きられない…と、強く感じました」
稲光が彼女の横顔を一瞬ごとに輝かすも、その眼差しは希望を抱いてはいなかった。
「…エクトラスさま」
「……ん?」
「あなたは、故郷に戻られないおつもりかもしれませんが」
「ああ…」
「…戻らざるを得なくなるでしょう」
「…君の『神力』がそう告げてるの?」
彼女は、こくりと頷いた。
「そう…。それは困ったな、僕は針の筵だ。君が見えない僕の未来というのは…本当に無いのかもしれないね」
エクトラスは俯き、小声で呟いた。
「まずは、聖地へ向かって下さい。聖地で神託を受けることをおすすめします。それを持って、故郷にお戻りになれば、命は繋がります…これは私の直感が告げております」
「はは…なるほど、神託は絶対だしね」
彼は目から滲み出るものを拭いもせぬまま、彼女の頬に口づける。
それが栗色の瞳から、するりとこぼれ落ち…。
ミューフィは左薬指に嵌めた小枝の婚約指輪の白いバイモの下を向いた花を上に向け、花びらでそれを拭うように受け容れる。
嵐は激しさを増している。
「ありがとう、ミュー」
幼い笑顔が愛おしいが、彼は故郷に戻れば、天才的な語学力で幾つもの国の言葉を操り、若くして神学博士の称号を持つ、高位の司祭外交官でもあった。つまり『選ばれた才能』なのである。
ただ彼女が何より驚いたのは、その筆跡の美しさだったが…。
それが、いきなり『贄』になれと言われて、受け入れられるわけがない。
「大丈夫ですわ、あなた…」
この嵐が去ったら。
彼女は、神官を辞する決意をした。
…私は、この人の「妻」になる。
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