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1番目アタール、アタール・プリジオス(17)烙印



 *



自分の呼吸と鼓動が、どんどん速く激しさを増していく。

部屋に駆け込んだ少年は、もうすぐ自分は内側から破裂して弾け飛んでしまうのではないかと思った。


導火線が…爆弾へと繋がっている導火線が…刻一刻と短くなっていくような感覚だ。


黴のにおいの籠もる白い枕に顔をうずめて、自分を落ち着かせようと深く息を吸い込もうとするが、逆に咳き込む。
加えて、声を押し殺そうと幾ら堪えても、嘔吐のように苦しげな己れの嗚咽が喉から漏れ出でる。



…分かっている。


浴室の湯気と熱気で、彼の上腕から肩にかけて袖がピタッと汗で張り付いていた。
それを見て、パルムはその汗を流すように促しただけなのだ。


それは、彼の優しさだ。


でも、

どうしても…駄目なのだ。


これだけは。


どうしても…!!

どうしても…!!


「う…うぅうううーっ! うぁあぁ、アァー!」


遂に、堪え切れずに、大きな声をあげてしまった。



…苦しい。


苦しくて、苦しくて…。


でも、誰も…。


助けてなんか、くれない…。



あのとき感じた“孤独”は、


“孤高”なんてものじゃない。




本当に惨めったらしい、


独りぼっちの “孤独” だった。




“贄人” などと、「人」とは言ってはいるが、


あの瞬間、


自分は『人間』ではなく、


“供物”という


…『モノ』に、された。




長い祈祷の後。

謎の苦い酒を飲まされ、意識が薄らいだ。

すると、突然、身体を転がされ、後ろ手に縛られ、運ばれて、身包み剥がされ、全身を隈なく冷水で洗われ、目隠しと猿ぐつわを噛まされた。


“あれ” の後。


また冷水をかけられ、雑に拭かれて…。

あとはもう、あまりの痛みで、声も出ない間に、すべてが執り行われた。


『でも、そうだよな…』


誰が、モノを助けようとする?


誰が、モノの身代わりになろうと思う?


誰が…モノになりたい?



『俺も、なりたくなんかなかった…』


不意に感情が消えた。



…アリエル!



そのとき、耳の中で、声がした。



誰だ…。


俺は、アリエル、なんて名じゃない。




『レミエラス・ブラグシャッド・アペルだ』




かつて《神王家》だった、アペルの者だ。



その成れの果て。



腐り切った一族の1人だぞ?


なのに、なぜ?


アリエル……なんて、呼ぶ?


俺は…。



「アリエル!」



肉声に近いが、完全な肉声ではない。


この、声…。


「アリエル、いや…今、お前は、レミエラスだったか?」


…ああ、誰かと思えば。

そういえば、居たのだっけ…。



『水晶玉』の天才学者、アタール・プリジオス。

『幽体』に、いつの間にか成っている。



「アリエル・オットーなんて、いないんだ…」



アタールに見下ろされながら、彼は身体を横たえたまま、枕にうつ伏せた顔をわずかにそちらに向けて呟く。



「俺は…べつの人間になんかなれない」


「それは、お前が“アリエル・オットー”に成ってまだ時間が経っていないせいだ。だからお前の心がレミエラスであったとしても、それは当たり前のことだ。問題など何もない」


アタールの声は若々しいが、重みはあった。
『幽体』の形は青年の時期のものだったが、500年もの間、この世界に存在してきた魂だ。


「いくら、時間が経ったって、変わらないよ…」


「なぜ、そう思うのだ」


「……だって、これが…あるから」


少年は、ゆっくりと起き上がった。

呼吸はまだ少し落ち着かないが、鼓動は鎮まってきた。
涙を流し俯いたまま、服の前を開き、両肩を剥き出した格好で…。


その姿は、白く霞んだ亡霊のように儚い。




「…そこまで、されていた…か…」




アタールはふわりと浮き上がり、少年に寄り添った。


透くようにまだみずみずしい白い肌の左の胸元に、赤黒く刻まれた禍々しい《蝶》の紋様。


それは、大人の拳ほどの大きさもある、


主神《パナタトス》の紋章だった。




「“贄の烙印”…」


ロエーヌは、思わず口を手で押さえた。


まだ15歳になったばかりだった少年に付けるには、あまりにもむごい傷痕だった。


彼は、“罪人” ではない。


それを強行した一族の意志とやらは、熱に浮かされた狂人のごとくに思えた。


たとえ、死ぬことが決まっているとはいえ…いや、だからこそ聖なる存在のはずなのに。



神の意志ではない。

これは、明らかに人の意志。

人の残虐な利己心が、脈々と受け継いできた『悪魔の儀式』だ。


「…恥ずべきことは何もありません。神は初めから貴方を許しています。人が貴方をさいなむのです。人に貴方を断罪する権利などないのに!」


「ロエーヌ、姉さん…」


項垂れて、寝台に腰掛けている義弟の傍らに座り、憤慨したロエーヌはその丸まった哀れな背中を繰り返し撫でてやる。


「パルムさんは…」


弱々しい少年の問いに、彼女はニッコリと笑った。


「優しい子ですね、貴方は…。彼は大丈夫ですよ、今は落ち込んでいますが、貴方の笑顔を見れば、すぐに元気になりますから」


「…どこに、いるの?」


「礼拝堂です。イオク準司祭に懺悔をしています。もう終わる頃だと思いますが」


「……そう。じゃ、行く」


少年はふらふらと立ち上がり、自ら部屋の扉を開けて、階段を静かに降りて行った。


「大丈夫か? 付いて行かなくて」


部屋に留まったまま、黙って見送るロエーヌに、アタールが一応確かめる。


「…ご不安ですか?」


振り返った蒼い瞳は、満天の星を映した凪の海のように穏やかだ。

それを見て、アタールは軽く咳払いをした。


「大丈夫なのは、分かっているが、お前としては見守らずとも良いのかと思ってな」


ロエーヌは美しく微笑む。


「はい、私も和解するのは分かっています。イオク様もいらっしゃいますし」



「…そうか、ならばいいのだ」



肉体のない博士の背けた顔が、うっすらと赤くなったように、ロエーヌには見えた。








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