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Eloise HessのSecond handを鑑賞する

とある平日の会社帰り、偶然にも夜遅くまでやっているギャラリーの展示情報を入手し、金曜でもないのに梯子ギャラリーを企てたシマ子は、初めて訪れるギャラリーの門をくぐった。
入り口は解放されており、「こんにちは」と断って入ったにもかかわらず、奥からパソコンのキーボードを打つ音だけが聞こえ、誰も出てこない。
もう一度パソコンの方へ向けて声を発してみたが、完全に無視。。。
「このギャラリー、仕事中のイラつきシマ子と同じ雰囲気じゃないか」と思わず笑えてくる。
きっと勝手に見て、好きなように写真を撮ってよいのだな、と思い、まずは一通り気になる写真をパシャパシャ撮ってから、鑑賞に移る。

程なくして、キーボードの音のする部屋の奥の台所から、「こんにちは」と中性的な女性がガムを噛みながらやってきた。
「気になることがあれば質問して」というので、「全体的な説明をしてもらえますか?」と尋ねたところ、彼女はガムをくちゃくちゃしながら説明を始めた。非常に退廃的な雰囲気でガラガラ声をした、白に近い金色のまつ毛と眉毛をした女性で、ドラッグやってます、という余韻が全身から漂っていたが、アーティストや彼らに密に接する人は何かしら世間的にはあまり認められないフェチがある場合が多い、と最近のシマ子は思っている節がある。20代の頃は怖くて近寄れなかったが、今となれば「アートだ」と思えば普通に話しかけられる。
年を取るのも悪くない😁

まずはアーティストのBioから行こう。
今回は95年生まれの若い女性で、経歴も非常にシンプルなものだ。

Eloise Hess(1995-)
カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ、在住
2017年 Bennington College卒業
2024年 Yale大学大学院修士課程絵画・版画専攻修了

アーティストのHPより

次に展示案内へ移ろう。
案内文は、「短編小説か?」というくらい長いため、女性の説明になかったところを主に抜粋して載せることにした。

「イメージはまず第一に、私たちによって感じられる...」。
- Jacques Lacan「イメージとは何か?」

この絵画は、目に見えるものをイメージ化することに失敗した写真、つまり500枚近い写真から選ばれた12枚の写真だ。Eloise Hessは、父親のCharles Hess(1961年生)と共に、手と心と目のつながりがゆっくりと劣化していく様子を記録した。あるジェスチャーが、他のジェスチャーに取って代わったり、繰り返されたりする。あるメディアを通したある見方が頓挫し、別のメディアで別の見方が引き継がれる。その遅れの中で、イメージが形成される。
絵画は写真ではない。写真は、現実の模倣、あるいは表象として、絵画の目的に歴史的に取って代わる。人間の手によって作られてはいないイコンとして、存在するだけで痕跡が残り、実体のないものとの接触が証明される。この真実と触覚の回路を、明確な似顔絵や印象のイメージに定着させようとする写真の衝動は、Hessの絵画では強烈なぼかしへと劣化する。カメラがスライドし、下降し、内側を向き、遠ざかるにつれ、半透明の影、エッジ、オクルージョンが生じる。微かなグラデーションが連続的に視界を移していく。

展示案内より抜粋・意訳

Jacques-Marie-Émile Lacan(1901年4月13日 - 1981年9月9日)
フランスの哲学者、精神科医、精神分析家。
初期には、フランスの構造主義、ポスト構造主義思想に影響力を持った精神分析家として知られていた。
中期では、フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派のリーダー役を荷った。
後期では、フロイトの大義派を立ち上げた。

Wikipediaより

上の説明にあるように、作品点数は12点だったが、いいな、と思うもののみ撮影したので、元々が少ないのに全てがないことをご了承いただきたい。

何が撮られたのかはっきりとはわからないけれど、きっと指なのだろうとは思うけれど、ちょっと心優しくなれるものがある。
前から見たところ
横から見たところ。厚さに注目、これは割と薄めです。
このぼかしというかブレ、どうですか?
なんだか懐かしい気分になりませんか?
全体像
薄めだったり
厚めだったり
子供にかえっている感じだな

本当は女性の説明を先に載せるか、後にするか、悩んだ。
しかし、先に説明してしまうとこの独特の雰囲気が即座に明快になる気がして、ムードを壊すかな、と危惧し、後に載せることにした。

さて、女性曰く、すべての作品のベースは使い捨てカメラで撮影されたそうだ。
ここで私が敢えて「撮影した」ではなく、「撮影された」と受動態にしたのにはワケがある。
Eloiseの父親は有名な写真家だったそうだが、アルツハイマーに伴う物忘れがあり、時には、カメラが首からかかっており、手元にない状態であることすら忘れてしまうため、焦点が合っていない写真がたくさんあった。そのような父が撮ったもの、父を撮ったもの、を彼女が12枚を選び、その上に蝋と和紙を交互に貼り、ぼかしやブレを加えることで(これについても、加えようと思わなかったのにできたブレもあるそうだ)、これらの作品は生みだされたそうだ。また、既にご覧いただいた通り、蝋と和紙の枚数・厚みも作品により異なり、厚ければ厚いほどブレ幅も大きくなっている。
つまり、撮ろうとして撮った、というよりは、現像してみたら出てきた、その上に更にぼかしを加えた写真作品、といった方が表現としても雰囲気としても近いかな、と思ったわけだ。

この説明をガラガラな少しゆっくり目の声で聞いたわけだが、どういうわけか、澄んだ声で聴くよりも、心にジーンと響くものがあった。

本展示会でEloiseは、世界を描写し、記憶し、整理する能力が衰えていく中で、それを見ようとする父親の姿を自身の作品に留め、父親との思い出の一部を公開した。
もしかしたら、現在もなおロサンゼルスのどこかで、父親と2人、ゆっくりと街中を歩きながら、思い出づくりに専念しているかもしれない。

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