東日本大震災の記憶 埼玉-東京辺りで体験した事

東日本大震災のとき、3.11が発生したとき、私は義理の実家に里帰りしていた。埼玉の北の方だった。1.18に子を出産し、1週間ほど入院、義理の実家で産褥期をお世話になり、1ヶ月が経っていた。いつ帰宅しようか考え始めた時だった。家には私と子、義理の父、2世帯住宅の別棟に義理の祖父母が居た。
揺れが始まって、私は直ぐに子を抱き上げて、リビングの出窓から庭に飛び出た。リビングの目の前は4畳ほどの芝生になっており、その真ん中にしゃがみこんで、窓から室内を見ていた。
地震シュミレーションのトラックの荷台に備えられた移動式の部屋みたいに、大きく左右に揺さぶられ、右からはテレビ、パソコン、プリンターなどが飛んで落ちて、左からは固定電話、棚、とにかくあらゆるものか飛び落ちて散乱していた。その時私は、夫の住む東京、働く東京が震源地だと疑わず、ついにこの日が来てしまった。関東大震災だ、どうなってしまうのだ…と、子を抱えしゃがみこみながら、呆然としていた。2世帯住宅の別棟に祖父母が居ることは分かっていたし、埋もれる前に助け出さなきゃと思ったけど思ったけれど、生後1ヶ月の子を放り出して行くわけにはいかない。腕の中に抱きしめながら、無力感に打ちひしがれていた。
揺れが収まり、義理の父が、祖父母を庭に連れ出した。寒いからと、私と子も納屋の入り口に通されたが、いつ来るとも分からない余震が逆に怖く、こんな狭いところに居るのは嫌だと思いながらも、足腰の弱い祖父母に声を掛け、明るく振舞った。義理の父は止めるのも聞かず、荒れたリビングに戻り、直ぐに倒れた家財の掃除に取り掛かっていた。揺れが収まり、祖父母も寒いと室内に帰っていった。私は子を抱いたまま、芝生に陣取り唖然としていた。寒いから入りなさいと押し切られ、リビングに戻った。夫の携帯、都内に出ている義理の姉の携帯に掛けるも繋がらなかった。付けたテレビはお台場から上がる煙を移していた。もう東京はダメだと呆然とした。新宿で働く夫には会えないかもしれないと思った。しばらくすると、固定電話が鳴った。義理の姉だった。義理の父が電話に出た。日比谷線内で、地震に揺れに遭い、北千住まで来たものの、足止めを喰らい動けずにいる、携帯に掛けたけど繋がらず、固定電話に掛けたとの事だった。私は次にいつ繋がるか分からないから、ちょっと!と止めようとした所で、義理の父は普通に受話器を置いてしまった。数十分の後、パートに出ていた義理の母が血相を変えて、自転車て帰宅した。私も母の顔を見れてほっとした。家族全員の無事を確認すると、母はパート先の金属のロッカーが倒れた様子を教えてくれ、急いで一旦帰宅した、と言った。テレビをつけ、ここが震源地ではない事を確認すると、また自転車でパート先に帰って行った。義理の姉が多分帰宅困難になるだろと、北千住駅周辺のホテルに片っ端から電話を掛けたが、ダメだった。大手のまともなホテルは、ホテル内の美品が壊れているから、予約を受けられないと言った。今日の晩、客室の安全が確保されれば、それでいいと、繋がる度に交渉したがダメだった。だんだん大手から、駅周辺のビジホに移行したが、その頃には小さめのホテルはいっぱいになってしまっていた。夫はネコのマークの運送会社の配達を仕事にしていた。社用の携帯に掛けてもかからず、夕方に本社に繋がり、営業所と身内であることを伝え、営業所の電話番号を聞いた。当時ギリギリ固定電話があって、繋がった夫同僚の声を聞き、膝から崩れてしまった。家族からの入電が初めてだったようで、顔見知りの同僚も喜んでくれた。夫に電話を変わって貰い無事を確認した。
暗くなる頃、もう一度固定電話が鳴った。義理の姉が、今度は公衆電話に並んで掛けてきたとの事だった。義理の父が、ホテルの予約が取れなかったことを話すが、もう姉は覚悟を決めていたようで、駅に泊まると言っていたようだ。私は浴槽に水を貯めた。濁った水しかでなかったったが、断水されて、トイレなどに困るよりはいいと思ったのだ。NHKに合わせたテレビは、お台場の火災の映像を写し、キャスターは次から次へと来る台本を読んでいた。高齢者が1人足を怪我した事を苦虫を噛み潰したように報じていたのをよく覚えている。報じているキャスターも、見ている私もそんな規模の地震ではないことがわかっていたのだ。ただ、上からの指示で、読んでいる、そんな雰囲気だった。私は契約したばかりで、ローンの審査が通ってない新築のマンションのことをおもった。契約は済んでるけど、ローンが通ってないということは、保険に入れてないということだよな…一体どうなってしまうのだと、青ざめていた。義理の母も帰宅し、夕飯になった。義理の父は、海苔の佃煮など、保存食をふるまった。正直、明日以降の食事がどうなるかわからないのに、何故保存食に手をつけるのか意味がわからなかった。暗くなるにつれ、帰宅困難者のニュースが始まり、義理の父は車をだして、姉を迎えに行くと言い出した。道が混雑するし、北千住駅に辿り付けたとしても、姉と連絡が取れない今何を言い出すのかと思ったが、止めても聞かない人だと分かっていたので何も言わなかった。私はただ軽蔑した。娘と義母と、リビングのテレビの前に布団を持ち寄り、3人でニュースを見ながら一夜を過ごすことにした。義母はリュックサックに避難用の荷物をまとめていた。夜も更けて12時を回った頃、義父が帰宅した。越ヶ谷の辺りで、前に進まなくなり、引き返したとのことだった。娘が心配で出たのなら、せめて連れてかえってこいと思って、私は義父を更に軽蔑した。義父だけは、2階の自室に戻りぐっすり寝た。一睡も出来ぬまま、朝の五時を回ってしばらくした頃、姉が帰宅した。電車が動きだして、1番早いのに乗って帰ってきたとのことだった。母の顔が綻び、あーこうゆう時家族は一緒に居なきゃいけないな、と思った。お風呂の好きな姉だったので、浴槽の水を抜き、お湯を張った。義父は朝から車で外を走り回り、ガソリンを消耗しながら、街の様子を話していた。私はやっぱり軽蔑した。
昼、私は娘を義母に預け、東京に向かっていた。契約済みのマンションがどうなっているか、この目で見ないわけに行かなったのだ。マンションに着くといつもの営業さんが、午前中に建築会社の人も来て、安全が確認されていることを説明してくれ、売り文句の過剰な程の耐震性能を示してくれた。私は現況に安心し、1日も早く引き渡してくれるように頼んだ。帰宅の道すがら、私は東京の自宅に帰ることを決めていた。どうせ死ぬなら、夫の傍がいいと、誰にも相談せずに決めた。夕方、義母に娘を預け、買い出しにでた。まずガソリンスタンドに行ってガソリンを満タンにした。いつも入れている安い所は長蛇の列で、馬鹿らしいので、その近くの有人スタンドで入れた。こんな中営業してくれていることに感謝と謝意を示した。スタンドの店員はいつもより人数が多かったが、並ばなかった。日が暮れると、24時間営業のスーパーに行き、詰めるだけの保存食を買った。買い占め騒動の起る前で、カップ麺なども制限なくケースで買えた。スーパーはガラガラだった。売り場から数が少なくなっていたのは水位なものだった。でも制限はなかった。粉ミルクと水もふんだんに買えた。私は2週間買出しに出られなくても夫と3人生活出来るだけの食料を買い込んだ。レジの人にすみませんと頭を下げお礼を言ったが、なんの事かよく分からないという顔をしていた。翌日から始まる買い占め騒動を、まだ誰も予想できてなかったのだ。帰宅すると、鞄にハンガーのまま、自分の衣料品を全てぶち込み、娘の荷物も纏めて、車に積んだ。「お姉さんの顔を見たお母さんの表情みたら、夫の近くに居たいと思って」とだけ言ったら、止められなかった。ガソリンは満タン。大事に使えば、最悪埼玉と東京を3往復はできるな。次にいつ給油できるか分からないからな、と思った。深夜、高速に乗って東京に向かった。異様な程静かな夜だった。道に車はほとんどなかった。昨日の帰宅困難の迎えの行列が嘘みたいだった。消せる電光掲示板は消えていたけど、ほとんどの広告が見せる相手を失ったまま、光っていた。本当に異様な程静かで、昔みたウォンカーワイの映画の中にいるみたいだった。娘はチャイルドシートの中で静かに眠っていた。滑るように車を走らせ、当時借りていたビルに急いだ。24時を回る前には帰宅できた。子どもの最低限の荷物だけ抱え、車の荷物を運び込むのを諦め、2ヶ月ぶりとなる我が家の鍵を開けた。夫はまだ帰って居なかった。2ヶ月の間に夫は引越しの準備を進め、家具の配置は全く違うものになっていたが、久しぶりの根城に安堵した。娘にミルクをやり、寝かしつけると、自転車で通勤する、夫が帰宅した。私たちを見て第一声が「なんでいるんだ」だった。帰宅することを伝えてなかったので、驚いた様子だった。久しぶりに2人で語らった。地震が起こったとき、夫は配達先の高層ビルに閉じ込められたとの事だった。エレベーターが止まり、台車を持っていたため、階段も使えず、そこで数時間足止めを食らったそうだ。3月11日の夜は、電車が動かず、同僚の誰も帰宅出来なかったため、営業所のあるビルの同じビルに店を構える飲み屋で、みんなで宴会騒ぎだったそうだ。朝電車が動いたので、同僚全員を帰し、自分は営業所に残り、問い合わせ業務に応じたとのことだった。荷物は受けも配達も全部ストップしたのだが、それに対してクレームを言ってくる顧客は存在し、その対応に追われたとの事だった。全部仕事を片付けて、自転車で帰宅した。
私も昨日からの出来事を報告し、マンションの購入の手続きを進めた事を話した。あのマンションにして良かったねということになった。私は2ヶ月ぶりにLuxで髪を洗い、底知れぬ解放感に包まれていた。久しぶりに自分のベッドで寝て、なんとも言えない幸せな気分を味わった。
翌朝、早くにやはり夫は出勤していき、自宅にテレビがない事に怖さを感じたため、娘を連れて家電量販店に行き、3万円程の小型のテレビを買った。初めての1人での育児、1人で風呂に入れる度胸がなく(面倒くさかったし)膨らませるタイプのビニールの浴槽を準備して、夫の帰宅を待った。こんな遅くまで風呂に入れないで、湯冷めするだろと怒りながらも、夫が自分の手で娘を風呂に入れるのはどこか楽しそうだった。
親子3人で水入らずのワンルーム生活をした。その翌々日位にマンションのローン審査が通った連絡が入った。300万円程、現金で入金する事になっており、いくつかの口座に分散して貯金していたものをゆうちょ銀行とUFJ銀行を回った。大金を現金で下ろすのは初めての経験で、ドキドキした。現金は一度に50万円までしか下ろせないことを初めて知った。営業時間終わりのUFJのATMはめちゃくちゃ暗くて怖かった。ちょうど節電の機運が高まっていて、それに配慮して照明がギリギリまで落とされていたのだ。
そして翌日、確か夫は仕事が休みだったので、娘を預けて銀行に行った。午後のUFJの窓口は照明が明るくなってはいたものの、混雑していたが混乱はなかった。私は生涯初めて300万円という現金を手にし、ドキドキしていた。早く預けて振込してしまいたかったが、椅子に座り順番を待った。こんな事態になっても、通常通り金融機関が使えることを本当にに感謝した。
1人のおじいさんが入ってきた。手には年金事務所からの封筒を持っていた。しばらくすると、窓口に進み、明かりが煌々と着いていることにクレームをつけ始めた。窓口の女性から、奥の男性に対応が変わった。声は次第に大きくなり、もともとピリピリとしていた空気はさらに凍りつき、ヒリヒリし始めた。対応する男性は身振りを大きく落ち着くよう促していたが、因縁を付ける男性の態度は大きくなるばかりだった。私は300万の現金を鞄に、怖かった。老害だと思った。私は座ったまま、その年金事務所の封筒を持つ男性に声を掛けた。「お帰りになられたらいかがですか?私は昨日も来たのですが、暗くて手元も見えず、怖かったんですよ?金融機関で照明を明るくするのは必要な事じゃないですか?」声が震えた。でも1度話し出したら、止まらなくなった。「みんな家に帰りたいと思いながら、仕事してるんです。みんな怖いんです。こんな事態になっても金融機関が動いて居る日本は凄い国なんですよ」と口をついて出たところで、ちょうど私の順番が来て窓口に呼ばれた。私は立ち上がり、窓口に進むと、記入した書類と現金300万円が入った封筒を出した。男性が私を凝視しているのが分かった。封筒から現金を取り出した女性がその場で数えようとするのを「怖いので裏でやってください」と伝えた。すると、横にいたクレームをつけていた高齢の男性が私の腕を掴んだ。私は振りほどいて後ろにさがった。対応していた、銀行の男性が、それ以上やったら警察を呼びます!と声を荒らげた。私は「呼んでください!私被害届出します」と銀行員の男性に伝えた。私は元いた席に着席し、背筋を伸ばしたけれど、怖くて震えていた。ちょうど3時を回り、表の玄関が閉められていた。高齢の男性と銀行員の男性は対峙し、まだ大声で何かを言っていた。金融機関からの通報とあり、警察は早かった。駅の目の前だったので、その交番からきたのだろう、ものの数分で4人の警察官が裏口から銀行内に入ってきた。高齢の男性は何もしてない!と大声で叫びながら、抵抗していた。逃げようとしていたけど、それは警察に囲まれ、叶わなかった。私は300万円の送金手続きが終わり、ちょっとだけ待っててください、と引き止められ、高齢男性と目が合わないように前を見ていた。怖かった。警察官にその人に腕を掴まれて、と説明した。何もされた訳じゃないんでしょ?じゃあ帰ってと警察官に裏口に促された。銀行員の数名からお礼を言われたが、長居したくなかったので、そのまま銀行を後にした。だから、結局その高齢男性がどうなったのか知らない。でも、金融機関の治安がどのくらい大事で、それができてるすごい国なんだ、それが分からない馬鹿が本当に存在するんだと驚いた。警察を呼ばれた高齢の男性が、俺が罪になるはずない!と叫んでいたのに、実際に警察に囲まれたら狼狽していたのが印象的だった。
契約して、受け渡しがまだだったマンションに、後日無事入居して、引越しを終えた。
元旦の朝、大地震のニュースを前に14年前の事が走馬灯のように蘇った。これが本当にに被災地の人だったらもっと大変なフラッシュバックに襲われているのだろうと思うと辛くなった。被災地でローンだけ残った流されたり倒壊した家を持つ人のニュースを見て、他人事とは思えなかった。首都直感地震だったら、私たちもローンだけ抱えてどうにも出来ない状況になっていたかもしれない。でも3.11の時より社会は前に進んでいると思う。今回声を荒らげたNHKのアナウンサーに賛否が分かれたけど、あの時の無力なアナウンスではなかった。それだけでも違う。今回も金融機関機関にも、どこにも、混乱か起きないで欲しいと切に願う。神城断層地震の時の教訓も置いておこうと思ったんだけど、6000字を超えたので、読むのもしんどいと思うしこの辺りにしようと思います。いつも通り起承転結もなかく、ダラダラと長くなりましたが、最後までお付き合い頂いてありがとうございました。東日本大震災の関東での体験記に需要あるか分からないけど、備忘録に置いておきます。

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