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なぜLIVEに行くのか?なぜSEXをするのか?~私がLIVEに通い続ける理由

本日マツリセッション@野音に行ってきて、帰り道にペアオブ(アヒト)に間に合えばと下北沢行ったのだけど、LIVEには間に合わなかったが、談笑するアヒトを見つけ、凸してきた。
推しと直接話すのは本当に初めてに近くて、東京に住んでると芸能人にまぁまぁ見かけたりするのですが、生活の場なので、話しかけたりしないんです。
アヒトにも、受付の人にタバコの差し入れを渡して帰ろうと思っていたのですが、後ろを振り向いたらご本人が…。思わず話しかけてしまいました。一緒にお写真までご対応いただき、一生の思い出です。今日まで生きながらえて本当に良かった。
2年前に野音で見たマツリセッションのアヒトその人に、今日マツリセッションの後に会えるなんてなんて日だ!!!

ここの所LIVEに行けるだけ行くようになった。私も大分健康になったということだ。去年は鬱が重すぎて、チケットを取るものの、行けずに無駄にするということを繰り返していた。

ZAZENだけで言うと最近では
2023.11.24豊洲PIT
2024.2.28東京ドームシティホール
2024.4.12水戸ライトハウス
2024.5.26日比谷野音
(2024.10.27武道館)

まあまあ行ってる。
なんで同じバンドに何回も通うのか?
1回見ればいいじゃないか、そう思うと思います。
ZAZENはしばらく行ってなくて、MIYAにベースが変わってから、とても評判がいいので、まぁ一応1回観とくかと、豊洲PITに行きました。
それまでのZAZENになぜ行かなかったかと言うと、指揮者向井、職人3人という感じで、心動かされなかったのだ。MIYA以前のZAZENが好きだったという人も沢山いると思う。その職人っぽさが良かったという人もいると思う。
久しぶりに見たZAZENは全く様変わりしていた。MIYAの感情的プレイで、指揮者向井ではなく、ZAZENBOYSというバンドになってた(もちろん元々バンドだった)。
とにかく感情を揺さぶられた。
ひなっち、吉田一郎から脈々と続く、重めの音作りは踏襲しつつ、MIYAはそこに感情を乗せていた。
その影響で、松下敦も、カシオマンも、向井も感情的に、人間的に変わった気がする。

向井は、元々、ナンバガを解散して、自分のしたい音楽をする為にZAZENを立ち上げて、確かメンバーを雇う(料金を払っていた)形でスタートしたと記憶している。
最初はドラムはアヒトで、ひなっち、カシオマン、向井の構成だった。
その時のZAZENには関東大体全部行っていた。
ナンバガから、追いかけていて、そのままの習慣というのもあったんだけど、アヒトのドラムはいい意味で感情的で、通うと毎回出来が違った。だから、通い続ける意味があったし、LIVEは生もの。人間のすることだから、いい日もあれば、そうじゃない日もそれが面白いのだ。
アヒトが抜けてからのZAZENには2回位行って、通うのを辞めてしまった。松下敦のドラムは職人的で、良くも悪くも安定しすぎていた。だから、全部通う必要がないな、たまに見ればいいなと思ったのだ。
ちょうど就職して生活が忙しくなっていた時期と重なり、音楽、LIVEが遠いものとなっていた。

向井は性格がよろしいので、あまりご機嫌で出来が左右されることがない。他のバンドだと、喧嘩してるなーとか何となく伝わることもあるんだけど、ナンバガ時代も含めて、向井の機嫌が悪くて、不快な印象を持ったことは1度もない。
ナンバガ時代の時の方が尖ってはいた。ZAZENになる前より向井も感情的だったし、ナンバガは通う必要があるバンドだった。

もちろん音楽のプロなんだから、一定の完成度は必要だ。お金を払ってLIVEにいくのだから、いい演奏をしてほしい。でも、どこで観ても同じ感想を持つなら、通う意味というのが見いだせないのだ。

それは性行為に似ている。
同じ相手としたって、凄く成功して絶対に忘れられないと思う事もあれば、まぁ忘れてしまうような事もあると思う。

子どもを妊娠してから7年位、SEXをしなかった時期がある。ちょうどLIVEに行ってなかった時期と被る。
子どもを守ることに意識を集中していて、それどころじゃなかったのだ。
その間に、元夫に捨てられて、彼は早々に阿呆な年上のルックスも残念なおばさんに乗り換えた。不倫とか、浮気相手の調査をして、えっ?なんでわざわざこの人?と思うことはあるあるらしい。

浮気されてると分かって、いわゆる再構築をのぞみ、久しぶりに元夫とSEXをしたら、やり方が変わっていた。些細な事ではあるのだけど、変わっていた。
それまで私たちは中学の時から一緒に過ごし、その密やかなやり取りを2人だけの情報で密かにしていた(別れていた時期があるので私は別の人と経験はある)。
浮気されて、何よりもショックだったのは、元夫のSEXの仕方がまるで変わっていたことだった。何を教育されてきたのか、と思わずには居られなかった。
正直私はそんなに何かされることが好きではない。こっちから、何かする事はできるだけしたいと思うんだけど、私になにかして欲しいとはあんまりおもわない。特に舐められるのが嫌で、こっちからフェラチオはするけど、その逆が嫌だった。だから、ずっと拒否していた。
そしたら、浮気されたあと「俺だって舐めたかったんだよ!」の迷言を叫ばれた。
性病ババアのくせえ○ん○、一生舐めとけ!と思った。
でもまあ、そんなにしたかったのなら、別に我慢できないことでもなかったのだから、言ってくれれば良かったのに…とは思った。
元夫は言語化してコミュニケーション取るのが、私とはあんまりだった。多くを語らず、大体唇(怒っている時は上唇が太くなり、寂しくなってるとかなにか不満があると下唇が太くなった)の様子で、考えてることが分かり、臭い(💩を我慢してるとカラダから💩の臭いがして(まじで)、精神的に肉体的に疲れすぎていると、口からドブの臭いがした)で、体調と機嫌が分かった。
結婚する前私たちは、14年、仲良く一緒やってきたのだから、まぁ外れては居なかったのだろうと思う。
私の方が、今💩我慢してるでしょ?とか、○○そんなきついの?とか、その時々で聞けば大体把握できた。
彼は本当はドMだったのかもしれないと今思う。
元夫から解放され、相手も適当にSEXをするようになって、ドMの人って、行為の時に自分の唾液を私に飲ませようとしてくる気がする(知らんけど)。元夫は良く私に唾液を飲ませてきた。嫌だった。でもまあ我慢できない訳じゃなかった…。
私は若い時は自分がMっけが強かったので、彼にSっけを強いてしまった。
まあ、今ならその需要が分かる気がするけど。
私だって若くて、経験が浅かったのだ。

だから同じ相手とするSEXだって、すごくいい方向にいって、忘れられない記憶に残る事もあるし、何とも思わず流れてしまうものもある。
相手が全く箸にも棒にもかからず、もう二度と同じ人としたくない、と思うこともあれば、1回しか機会がなかったけど、忘れなれないSEXはある。
私ももう41。需要があるうちは…。と思うけれど、最近はそういう行為をする度に、これが人生最後になるかもしれないな、と毎回思う。

そういう事は若い時には全く思わなかった。
また望めばこの人と関係を持てるだろうと、希望的観測で居た。
でも、1度しかそういう機会に恵まれないこともある。色んな事情で。
1度でもあればいいじゃないか、という考えもまぁある。でも凄くそれを望んでも、もう二度と持てない。という経験もした。
だから、誰としたって、これが人生最後になるかもしれないな、と思う自分の感情はわかる気がする。

LIVEだってそう。
経った1度しか機会がなかったけど、忘れられないLIVEはある。

去年、小2の春からずっと同居していた、希死念慮が消えた。と同時に、それまで強くあった、執着の感情が薄くなった。
希死念慮が消えた瞬間は分かっていて、まあその事はまた機会があったら、纏めようと思うけど、とにかくずーっと付きまとわれていた、希死念慮と対峙するために、私には何かに執着する必要があったんだと思う。
多くは人だったり。

執着と欲は違うと思う。
分かりやすくいうと、お腹が空いた、何か食べたい。と思うのは欲だ。
でも、どうしてもあそこのラーメンが、今、食べたい!と思うのは執着だ。
欲はまだある。でも執着はなくなった。
執着がなくなると、他人に何かを期待する感情もなくなった。
今1人で生活してて、まじで楽。としか思わない。
希死念慮と執着があったころ、1人はただ寂しかった。でもそれがなくなると、まじでもう誰とも生活したくない。もしこれから交際する人ができたとしても、絶対一緒に住みたくない。週末婚とか、週替わりとか、月に何日か一緒に居るだけで充分だと思う。

椎名林檎の闇に降る雨という曲がある。引用する。

あんまりの暑さに目を覚まし
さっきまで見ていた夢の中
東西線はあたしを乗せても新宿におろしてくれなくて
辿り着けない此処に欲しい腕や髪や首筋
貴方の嫌う生ぬるい雨に濡らされてゆく
貴方に降り注ぐものがたとえ雨だろうが運命(さだめ)だろうが
許すことなどできるわけない
この手で必ず守る
そばに置いてて

天気予報が外れてばかりの毎日が見させた嘘の闇
高揚もときめきもため息も消耗しやがてやくなりそうで
招きたくない空々しい土の香や向日葵の
すぐにも向かう香しい絵画とかする日など
貴方を知り尽くす事がたとえ
可能だろうが不可能だろうが
満たされる日が来るはずもない
身体が生きてるかぎり
そばに置いてて

貴方に身を任すことがたとえ
危険だろうが安全だろうが
留め金などがあるはずもない
全て惜しみなくあげる
あなたに降り注ぐものがたとえ
雨だろうが運命だろうが
許すことなどできるわけない
この手で必ず守る
そばに
そばに置いてて

私が希死念慮と執着に囚われていたとき、この曲のままの心境だった。
まさにこんな感じだった。
貴方に身を任す事がたとえ危険だろうが安全だろうがどうでもいい。
私が私の手でなんとかする。
貴方を知り尽くす事がたとえ不可能なんだとしても、満たされる日が来るはずもなく、何もかも知りたいと思う。
なんでもする。あなたの為に私はなんでもする。
だからそばに置いていて欲しい。

本当にこんな感じだった。

それが希死念慮と執着が消えてしまうと、この曲を聞いて懐かしささえ覚えてしまう。
あーなんかもう、ここまで思う人に会うことはないな…。
出会うことがあったとしても、ここまで思えないな。

自分のことより誰かが常にあった。
でも今は自分のペースが乱されるくらいなら、寂しさなんてなんでもないし、別に寂しいとさえ思わない。

そう思う。

あんなに辛かった希死念慮ももう二度と手に入る事は無いなと思うとその事さえ、懐かしく思う。
何かに強く囚われることは、もう二度と起きないんじゃないか、そんな気がする。

えと、本題はなぜLIVEに行くのか、
なぜSEXをするのかでしたね。

私にとって、それはすごく似ている。

執着のない相手となぜ適当にセックスをするのか…。
なんかまあ、欲もないわけじゃない。
生理の前、そういう事に囚われる瞬間はある。
でもまあ、大体そう思う時は生理の前だし、生理が来てしまえば、その欲もまるでなかったものになる。
それは執着とは明らかに違う。
執着があったとき、絶対いつでもいから常にその人とそういう事がしたい!だったのだ。
今は、まあ誰でもいいからなんかそういう事したいかなぁー。位なのだ。

太ったおばさんなのに、そういう機会にまあ全く恵まれてないわけじゃなくて、今月でいうと2回そういう事をした。
誰とも交際はしていない。
だから、多い方なんじゃないか…とは思う。
全くない月も当然ある。全くない月が続くこともちろんある。

相手の方は、私は太ったおばさんなので、まあ自分だけだと思っているんじゃないかと思う(余計なことは言わない。嘘はつかないけど、わざわざ知らせなくていいことは言わない)。
誰とでもするというわけではないし、自分から望むこともあんまりない。

不倫はしない(自分がされて心底嫌だった)
私に対してガチ恋じゃない(ガチ恋臭がしたらブロックしてる。交際してもないのにめんどくさい)
共通の友達や知り合いが居ない(色々めんどくさい)
が、前提条件かなぁ。

その上で、持っていき方が上手かったり…。
そういう人とそういう刹那的な感じで、最近はそういう事をしている。
1回でおわることもあるし、複数回になることもあるし…。
不倫とガチ恋を除くと必然的に歳下になる。
相手に真面目に付き合う彼女ができれば、私を卒業していくし、いつまでも作らなければ、そういう事を前提として、会うことになる。

気にする事といえば、いつもはトランクスとか百均のパンツ履いてるけど、ZOZOのパンツを履いて行くくらい。
脇の永久脱毛は済んでいるし、そんなに無駄毛の濃い方じゃないし、年とともに毛も薄くなっている。
私は黒い下着しかもってなくて、上は常に黒のユニクロのブラなので、パンツだけ恥ずかしくない物を身につける程度。
そういう可能性が否定できないな、という日は黒のパンツとりあえず履いておこうか…。位。

黒い下着、黒い下着、真っ黒けっけの下着。

気楽なもんである。

じゃあなんで、セックスをするのかというと、たまにしないと、おじいちゃんになってしまう。
女という事を忘れ、性別さえ超越してしまう。
せめて、おばあちゃんでいたい。
だから、穴モテと分かっていて、たまに適当にそういう事をする。
ホテル代を私が出すと2回目がない気がするので、ホテル代はだしてもらってる。
お金を貰ってそういうことをしたこともないわけじゃないけど、最近はとんとない。
りりちゃん位引っ張れればいいのだけど、そんなに器用じゃない。
お金を貰うと、私に相手が執着し始める。
それがとことんめんどくさい。
私にメリットがない。

でも、セックスをするということは、その間は相手は私としか対応してないわけだし、独占しているといえばそう。
そんで何年かに1回位、忘れられないような奇跡が起きたりする。
そういう事が起きる時、必ず私は強く感情を揺さぶられている。
それは私を人間として、支える経験になる。
そういう経験がある、ということが、生きる支えになる。
その条件はやはり感情が揺さぶられるかどうか。

LIVEもそう。
私はその希死念慮と執着とおさらばしてから、LIVEは完全に1人で行っている。
昔は必ず2枚とって、誰かを誘っていたのだけど、そういうことさえ面倒だし、LIVE中私は人間が豹変して、身体を音に身を委ね動きまくる。その姿を誰にもに見て欲しくない。大汗をかくからすっぴんだし、LIVE中は音に没頭して我を忘れて居たいのだ。
セックスする時に私は絶対に目をつぶり続け、できるだけ部屋を暗くするみたいに。

MIYAの加入したZAZENは、生ものになっていた。だから通う価値があるし、時に絶対忘れられない人生を支えてくれる経験をくれる。その可能性が高いと思う。
複数回関係を持ってもいい、と思う人と連絡を取るみたいに…。感情を揺さぶられる。

セックスは、私を女として維持する為にする。
そして時に、人生を支える、生きることを肯定してくれるような経験をくれる。

LIVEは、私を人間として維持する為に行く。
そして時に、人生を支える、生きることを肯定してくれるような経験をくれる。

セックスをする事と、LIVEに行くことは似ている。
どちらも相手が居る、人間のすることなのだ。
同じ相手でも、結果が同じになるとは限らない。
感情が揺さぶられれば、そのいい方向になる事の可能性はあがる。
そして、どちらも、うまく行けば、とても気持ちがいい。

いいLIVEは本当に気持ちがいい。
ただそれだけ。
予約をしたり、日程を調整したり、時間を守ったり、私の1番苦手な事なのに、事前にチケットを取って、その日時に予定を合わせ、体を運ぶ。
セックスのためにそういうことはしないが、LIVEの為にならする。
私は、LIVEに行っている方だと思う。
LIVEに行きたいから、東京に居座っている。
人生を支える経験をくれそうだな(いい意味で感情を揺さぶられたな)と感じると、通う。もう二度と見なくないと思えば行かない。
どこをとっても最低だったから、この人とはもう二度と寝たくないと思うみたいに。

人生を支える経験をくれるんじゃないか?
その確率が高いんじゃないか?
そう思うと、LIVEもセックスも同じ人とする。
今のZAZENはそういう感じがする。
感情が揺さぶられている。

LIVEがなかったら、
LIVEに行ったと言う経験がなかったら、
私はもう死んでいる。
大袈裟じゃなく。
村上春樹と、LIVE(音楽)と、セックスがなかったら、私はもうこの世に居ない。

だから私はLIVEにいく。

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