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ランウェイ地獄

 ホーボー

 小町は精肉加工場の門の前で何度もスマホのメールに添付されたマップを確かめる。ここで間違いない。もう一度スマホを見る。11時22分。すでに22分の遅刻。慌てて門をくぐり砂利道を踏みしめる。不安と緊張をほぐそうと深呼吸をひとつ。ショーの前のモデルは誰でもスッピンだ。デザイナーの望む色と形に如何様にもなるように、化けるためにはあらかじめ化けの皮は剥がしておかなければならない。小町の子供の頃のあだ名はずっと出目金だった。高校の卒業と同時に着の身着のまま家を飛び出した。モードの世界を股に掛けて歩く女たちは、職を求めて彷徨い歩く放浪者(ホーボー)だ。尻の穴から向精神薬をひり出し、鼻の粘膜と歯茎の裏に人差し指で魔法の粉(エンジェルダスト)をなすりつけていても、向こうからオファーが殺到するほんのひと握りのトップモデルを除いて、腐るほど、吐いて捨てるほど、精子の数ほどいるその他大勢は、世界各地のオーディションで自らの魅力を最大限にアピールし、並みいる雑魚キャラども(有象無象。小町もその精子の群れの中を泳ぐ一匹に過ぎない)を蹴落としてサヴァイヴしていくしかない。強烈なインパクトで見る者を圧倒し、神秘的なオーラを放ってひとを魅きつけてやまない、凡百とは一線を画し唯一無二、オリジナルなビジュアルを体現する者がモデル足る者、ランウェイを闊歩するに値する。この世界に一歩足を踏み入れた以上は、簡単に諦めたり後悔したりあと戻りしたくない。
失敗に次ぐ失敗。不安。孤独。焦燥。困窮と絶望の果て。世界の終わりにほんの一瞬だけ、打ち上げ花火のように星降る歓喜のフィナーレの輪の中にうち混じってそのおこぼれ、お裾分けに与る。それだけ。そんなことは分かっている。重々百も承知、覚悟の前だけど逃げ出したくなる。
 「STAFF ONLY」と書かれた分厚い鉄板の扉を開けて、何の設備だか見当もつかないだだっ広い、真っ白な空間に入っていく。そこにはすでに服飾スタッフ、メイクスタッフ、舞台スタッフ、モデルたちが、小町以外全員揃っていてショーの準備を進めている。エルメスのスカーフをシャツの襟首に収めた髭もじゃもじゃの男が、インカムで「確認して!」と何度も絶叫している。ネイリストがモデルの爪に装飾を施すそばで、ビジューきらめく黒のチョーカーを付けた助手が、お菓子の詰め合わせ(アソート)のようにつけ爪が並んだトレイを持って立っている。ショーに出す服を着せたトルソーやマネキンを抱えて右往左往するスタッフの向こうに、デザイナーのムラサキがいた。服の最終チェックに余念がないムラサキは、いつも着ている漆黒の襞をたっぷりととったムームーのような服で、フォルムは完全にバーバママ。いつどこにいてもすぐに分かる。キャスティング・オーディションでのムラサキはむっつり押し黙って長机の一番端っこに座っていて、終始無言。わたし達は死ぬほど歩かされた。フィッティング(仮服合わせ)に来るようにメゾンからメールで連絡があった時、思わず「あ」 と声が出た。
ショーに出られるかもと淡い期待に胸膨らませながら、トワレで作った仮縫いにマチ針と安全ピンだらけの服を着て、ムラサキの前に立つ。一重まぶたの冷めた目。猛禽類を思わせる何を考えているのか分からない、ひとを殺めるのが運命(さだめ)の必殺仕事人のような目で射竦められて、服のことを言っているのかモデルのわたしのことを言っているのか。スタッフ、マネージャーと陰でゴニョゴニョ喋っているムラサキを見ていると、不安がどんどん増殖してきて泣きそうになる。帰りたい。早くここから逃げ出したいという思いを懸命に堪える。初めて面と向き合って何と言われるか、フィッティングを終えたわたしがドキドキしながら待っていると、ムラサキは
「髪を切れ。」と甲高い声で囀った。
わたしは自分の耳を疑ってしまった。烏の濡れ羽色、射干玉(ぬばたま)色と子供の頃から褒め称えられ密かに自負もし、元カレには「君の髪をなぞるとハープの音がする」とまで言わしめた、自他共に認める唯一のわたしの武器である髪を、切れと⁉ 元カレに「パイパンにしてくれ」と言われた時以来の衝撃だった。最初意味が分からず
「パイパンて何?」と訊き返したら、「下の毛を全部処理すること」だと。
「みんなやってるよ」って。みんなって誰だよ! 速攻別れた。
驚愕の色を浮かべていたであろうわたしの顔を見て、ムラサキは小馬鹿にしたように鼻を鳴らして、
「腹を切れ、と言ったんじゃない、髪を切れと言っただけだよ。」 そう言ってスタッフを笑わせた。全然面白くない。ていうか付和雷同の同調圧力で長い物には巻かれろ的な、頬引きつらせて無理から笑っているスタッフも許せない。こんなメゾンは嫌だ。すぐさまヘアメイク担当が呼ばれてくると、ショックで放心状態のわたしを座らせて腰まであった髪をおかっぱにした。
襟足から顎のラインにかけてきっちり揃えられた黒髪は、習字の払いの線のようにシャープに顔の前に突き出している。前髪は眉の上2・5センチでパッツンされた。あっという間にこけしにされて、わたしは雀の涙も出なかった。出来上がりを見たムラサキは干し柿のように垂れ下がったシワシワの粉を吹いた両頬をひくつかせ、五本の指を思いっきり開いた両手を打ち合わせて少女のように笑った。
「遅れてとっみまてん。きょ、今日びはよろてぃく、お願いまっ。む」
小町は自分に鞭打ち叱咤してムラサキの前まで歩いていって、声を震わせ嚙み嚙みの言い間違いだらけで頭を下げる。ムラサキはそんな小町を死んだ魚の目で一瞥し、
「こけしが!」とひと言吐き捨て手をひと振り、一蹴した。
このショーはムラサキの復活を期した、26年振りのカムバック・コレクションショーだった。一世一代、伸るか反るかの大勝負。話題性は十分で成功すればその年のモードを席巻、神にも見紛うほど持ち上げられ『タイム』誌の表紙を飾ることになる。失敗すれば「やめときゃよかったのに」「過去の栄光に泥を塗って」「死んでたら伝説になれたのに」揶揄、誹謗中傷、嘲笑されて生き恥を晒すことになるのだった。

 スタッフのひとりにモデルたちで犇くフィッティングルームに引っ張っていかれ、小町は身ぐるみ全部剥がされていく。隣りのブースで臨月間近のお腹を抱えたモリスンが、ヒーハー息を吸ったり吐いたりしながら服を着ている。モリスンが死にもの狂いで着ようとしているその服は、全身フェイクファーの白ずくめで、スタッフ総出で雪だるまを作っているように見えた。いつ、どこで、だれと、どんなふうになるのかなんて、誰にも分からない。まさか自分が⁉と、モリスンもまた思ったのだった。まさか自分が白昼堂々、都会のど真ん中のオープンカフェでナンパ師にナンパされ、一度こっきりのコトでアレして妊娠してしまうなんて、思ってもみなかった。アフターピルも飲んでしっかりケアしていたのに。気づいた時にはもう三ヵ月経っていた。子供はおろか、結婚すら考えたことがなかった。あの時コレしてアレした相手と出会ったオープンカフェまでさかのぼって、お店のひとに訊いたり街行く女の子に逆ナンなのか何なのか声を掛けてその男を探し回ったが、結局見つからなかった。堕ろすという選択肢はわたしの中になかった。わたしの体にもうひとつ命が宿っていると知った時から、なにかカチッと嵌まったようになって一本の道が見え、迷いが消えた。わたしの人生はわたしのすべてでできている。両親からの遺伝子。生まれた時代。国。環境。教育。出会ったひと・もの・こと。すべてでわたしの人生は成り立ち、作られている。その中心にはなによりもまずわたし自身がいて今、ここになにもかもが集約収斂している。この人生はわたしのものだ。
 向かいのブースで服を着終えた子が立ったまま、ウーバーイーツで頼んだ二郎系のがっつりもやしマシマシラーメンを、縁廻りを雷文が飾る丼鉢片手に割り箸で食べている。夜明け前の仕事上がりに24間営業のチェーン店でチャーシュー麵を啜るススキノのキャバ嬢そっくり。人類史上の遺伝子奥深くに刻印された太古の、遠い遠い記憶の淵の底から漆黒無幻の暗黒を切り裂いて湧き上がるどよめき。粟立った悲鳴。つんざく化鳥の鳴き声。人身御供の絶叫がブースの一画から上がる。それは根源的なるもの、原始的な怒り、苦しみ、恐怖、畏れからくるもので、わたし達の心臓を突き破り魂まで戦慄させた。スタッフ達が手を止め、立ち止まり、息を詰めて次の瞬間に来るものを待った。そのブースは小町のところからはちょうど死角になっていて、何も分からなかった。小町は悪魔に魅入られた未通の童女リーガンのように歩いていって、そのブースの中を覗いた。全面鏡張りの自己増殖していく空間に、モデルのオースティンが椅子に腰掛けている。メイク道具の並べられたテーブルに亜麻色の巻き髪を広げて俯せ、眠っている。小町は自動筆記するからくり人形(オートマタ)の身振りで眠る女の肩に手を掛け、オースティンの体を起こす。仰向けにされたオースティンはぽっかりと口を開けたまま、長いまつ毛に囲まれた切れ長の瞳は見開かれている。瞠目している灰白色の虹彩には、瞳孔に向かって放射状に金色の斜線が入って美事だ。両手はだらりとぶら下がり、心臓に一丁の裁ちばさみが突き立てられている。小町が体を起こした勢いで、オースティンは回転椅子の上でいつまでも回り続けている。
そこからの小町の記憶はない。

 小町が気が付いた時にはもうすでに、ムラサキの鶴の一声で全スタッフ、モデル、関係者に緊急招集がかけられていて、目の前に鈴生り黒山の人だかりとなった興奮冷めやらぬ、好奇心丸出し、不安に恐れ戦く人たちに向かってムラサキは、
「ショーが終わるまで警察に連絡はしない。」と宣言した。
ショー・マスト・ゴー・オン わたし達はそこにこのショーにかけるムラサキの覚悟と狂気を垣間見た。たとえ死体損壊、死体遺棄の罪、または殺人幇助、教唆、犯人隠匿、捜査攪乱、公務執行妨害の罪に問われようとも、このカムバックショーを最優先させる。その反道徳性(インモラル)、人倫に悖る、反社会的破壊行為にもかかわらず、わたし達は誰ひとりムラサキに異を唱えることなく、疑問を口にすることも目を見交わすこともなかった。わたし達は否も応もなく、唯々諾々とムラサキに黙従したのだ。

 綱渡り芸人(ロープ・ダンサー)

 ここから先のわたし達は疑心暗鬼の坩堝の中でお互いがお互いを監視・詮索・誹謗中傷し合う、ちょっとでも非を見つけようものならお上に上訴密告し、善人面で自分だけは罪を免れようと他人の足を引っ張る、特高や秘密警察が幅を効かせた時代の隣人同士のような状況に陥ったまま、ショーの本番まで辿り着かなくちゃいけなかった。モデルのクリスティーヌが会場の隅で携帯で話していたのを誰かが見かけ、警察に連絡したんじゃないかという噂がぱっと立った。髪、眉、まつ毛、下の毛まで白いアルビノのクリスティーヌは、携帯を持つ手をわなわな震わせ白目の瞳孔、銀鼠の虹彩、山羊のように真っ赤な目頭から大粒の涙をぽろぽろこぼしていたという。ムラサキが血相を変えて飛んできて、
「告(チク)ったのね⁉」と激昂した。
クリスティーヌは激しく首を振って「告(チク)ってません!」と乳白色の唇を噛み、
「告(チク)ったんだろ⁉」と何度も絶叫するムラサキに、クリスティーヌは両手で両耳を塞いで首を振り続けた。
「じゃあ誰と話してたんだよ⁉」 ハンナは立ったまま、Woltで頼んだ紙の箱に入った広島風お好み焼きを、左官の盛り板風に片手で持って割り箸で食べている。ハンナの鼻息に合わせてお好み焼きにトッピングされたかつお節が寝たり起きたりして踊る。それがおかしくて小町は吹き出しそうになる。そこに出前館で頼んだ「王将」の餃子16人前が届く。クリスティーヌは鏡獅子のように長く白い髪を打ち振り乱し、「誰にも話してない!」と言い張るのだった。
即刻、全員の携帯、タブレット、PC、スマートウォッチ、ゲーム機に到るまでムラサキの手で没収され、外部との連絡、接続、接触の一切が絶たれた。瞬時にして秋冬コレクションのクルーズショー幕開けの会場であったはずの場所が、情報というものを内から外、外から内へ送受信、発着信できない絶海の孤島、網走監獄のような場所に一変したのだった。この場合、お互いがお互いの看守であり囚人である。この実験を企画立案し実行に移し、秘かな好奇心をもって冷酷無残に観察して楽しんでいたのはただ一人、ムラサキだった。
 このような特異な状況下にあっても一向に頓着する様子もなく、恍惚の表情、終始瞽女(ごぜ)観音のような柔和な笑みを見せている毬栗(いがぐり)頭の子を、小町は不思議にも不気味にも思いながらどうしても目が離せず、魅き寄せられてしまうのだった。シェリーはその類稀なるビジュアル、ルックス、オーラで14才でプラダの専属モデルとしてデビュー、世界に衝撃を与えた。そのセンセーショナルな登場の仕方、インパクトのある強烈なビジョンで一躍、時代のアイコン、ティーンのカリスマ、流行を牽引する世界のインフルエンサーとして一世を風靡した。しかし彼女の心の脆さ、細やかな神経の震え慄きを知り、支える理解者はシェリーの周りに誰もいなかった。疲労と不眠が重なり心身のバランスを崩したシェリーは、16才を迎える誕生日に閾値を越えた水が溢れ出るようにしてスイートルームのバスタブで手首を切る自殺未遂を起こす。そこから何度も入退院を繰り返していく。
シェリーが生まれてはじめて本気の恋をしたのは、彼女の入院する病棟で働いていた看護士で、それは固着という典型的な病気の症状だった。四六時中ずるするべったりと付きまとって離れようとしないシェリーに対して、看護士の彼女は最善の努力、出来る限りのことをしようとした。しかしシェリーにはそれでは物足りず、癇癪を起し、自殺を仄めかした。主治医の判断で看護士が別の病棟に移動になると、シェリーは深海の貝のようにおし黙って何も話さなくなった。しばらくそうしていたが、両親が誕生日プレゼントに持ってきたテディベアに、シェリーは看護士への愛を転化した。1週間に一度会わせてもらえる彼女(テディベア)に、シェリーは将来の夢、結婚、子供は一人、ちいさなお家、庭には真っ赤なバラと白いパンジー、わたしの横にはあなた、あなた、あなたがいてほしいと語るのだった。

 服を着替え終わると、小町はパーテーションで仕切られたメイクブースに押し込まれる。モデルたちが鏡の前で頭と髪をいい様にいじくり回されながら、誰もが沈黙と間を怖れて間断なく、のべつくまなく囀るように喋っている。不安と恐怖、死から逃れるために。人類にははじめに歌と踊りがあった。次に言葉、そして物語りだ。小町はブロンデとティプトリーの間に割り込んで座らされ、ふたりの不毛な議論の板挟みとなって右往左往する嵌めになった。ブロンデの両脇には異様に脚長腰高で、長い首にちいさな頭がちょこんと乗った大型犬。なめし革のような毛並みが黄金色に光り輝くサルーキが二頭いる。ティプトリーの座る鏡台の上には三毛猫が。足下には黒猫がうずくまって寝ている。
「くさい。」
「すいません。」 ここに着いた時から尋常じゃない脇汗かきっぱなしで、拭くひまもなかった。
「お互い様じゃないの。」
「毛が随分抜けてる。わたしアレルギーなのよ。」
「分かりますか。」 やっぱりバレてた。ストレスでまた10円ハゲ。必死にペンシルでなぞって隠したけどダメだったか。
「それもお互い様。」
「春先はただの化け猫。」
「はい・・・」 どうして女の子の日が重なっちゃったんだろう。なんて日だ!
「年がら年じゅう゛さかりのついた犬゛じゃないの。」
「家じゅう引っ掻き傷だらけで障子もソファもボロボロだっていうじゃない。」
「なんで分かっちゃったんですか?ふしぎー。」 月6万のなんの染みだか分からないものが漆喰の壁に浮いてる築40年木造モルタルアパートに、モデルの子とシェアして住んでる。
「おトイレは砂場でちゃんとしますぅ。」
「どうだか。おっさんみたいに喉ゴロゴロ言わして、毛玉吐くのを後ろからコロコロ持ってついて歩くらしいね。」
「散歩中、平気で電柱の下に片足上げて小するでしょ。あれ、恥ずかしくない?飼い主が気づかないうちに歩きながら大して、困るわあ。」
「わたしはそんなこと、絶対にしません!」 いくらなんでも。ひととして最低限のことはちゃんと弁えてるんだから。
「テリトリーのためのマーキングはそっちも同じ。」
「一日一回リードつけてお散歩。すれ違うものすべてに口角泡を飛ばして、声枯れるまで吠えまくって、相憐れむ同類に出くわすとメリーゴーランドみたいに尻の穴を嗅ぎ回って、フンの処理にスコップとビニール持参。面倒くさ。」
「いい運動になっていますぅ。」
「腸活始めました。」 デューク更家のウォーキング。美木良介のロングブレス。ビリーズブートキャンプ。菊池体操。あのひとは今。
「肉球、ヒゲ、顔。いつでもどこでもザラザラの舌で舐めて身綺麗にしてる。ネコスイ最高。」
「小便はくさい。」
「毎日2リットル水を飲むようにしてますから、そんなに黄色くありません。」
「歯磨き、爪切り、毛繕い、トリミング。全部飼い主が手間暇かけてやらなくちゃいけない。ほんと面どい。」
「それがペットを飼うということよ。そっちは怠惰な豚、寄生虫、フーテン、金喰い虫じゃないの。」
「そこまで言わなくても‥‥わたし、結構頑張ってます。」 学生時代、出目金。アルバカ。ろくろく首。首長族とあだ名を付けられた。
「自由で高貴な種族。」
「ポーの一族の話ですか?」
「教えてもまるで覚えようとしない。芸のひとつもできゃしない。」
「教えられたのはひたすら歩き方です。本を一冊頭の上に乗せて、一本の糸に吊られているイメージ。身体の中心を貫く脊髄、ブレない軸、体幹を常に意識して歩くように言われました。」
「言われたことしかしない。真面目で従順。骨付き肉の乗った皿の前でお行儀よくお座りして、よだれを華厳の滝のように垂れ流しながら待ち続ける服従の犬。」
「窮鼠に咬まれるがいい!猫の額ほどの庭しかないくせに!」
「やっぱり前髪、短かすぎますよね。」
「負け犬(ルーザー)の遠吠えが!」
「犬も歩けば棒に当たるけど、猫が歩けば玄関先に水の入ったペットボトルが置かれる。」
「うちの家もやってました。風水的に玄関に水は最高なんですよ。」
「で、あなたどっち派なの?」
「トムとジェリーの話でしたっけ?」
「消えな!」
 犬ブロンデは製造年式20210314のアンドロイドだ。ちょっと見、もう生身の人間と寸毫の違いもない。猫ティプトリーは性同一性障害を持って生まれ、毎月のホルモン注射を欠かしたことがない。顎の骨を削り声帯まで手術したのに、「イチモツ」だけは自分自身だからと頑なに残している。
 小町の後ろで黒人のアーシェラが照明のせいで肩先を真鍮のように光らせ、口の中であっという間に蕩けてなくなる生キャラメルみたいな声で喋っている。
「服。靴。時計。眼鏡。カバン。財布。帽子。ジュエリー。自転車。バイク。車。食器。文房具。家具。家電。オモチャ。インテリア。建物。いつだってなんだってそう。
色(カラー) 形(フォルム) 素材(マテリアル) 量感(ヴォリューム・マッス)
あなた自身が選んだモノが必然的にものを言い、あなた自身を語っているじゃないの。モードはふたつの極の間で猛烈に揺れ動いてる。
モノクロ と カラフル 
ミニマム と 装飾過多(ファンシー)
シンプル と 多様
モダン と クラシック
人工 と 自然
機能性 と デザイン
型 と 自由 モードはつねにひとと違ったモノ、誰も見たことがない新しいモノを求め続けているから、古今東西がリバイバルする双極の間を絶え間なく揺れ続けて止どまること、終わることがないの。」
メイクの終わったアーシェラは立ち上がって、赤くてらてらしたリンゴ飴みたいなノヴァクバックから、競輪選手の太ももくらいあるニシキヘビを取り出して肩に掛け、首に巻き、身体に回していく。
 
 ハンナの前にフードパンダで頼んだ16人前の握りが詰まった漆塗りの器が置かれる。大トロ。中トロ。ネギトロ。炙りトロ。炙りサーモン。ウニ。イクラ。タコ。イカ。はまち。こはだ。穴子。エビ。たまご。かっぱ巻き。ガリ。ハンナは一貫口に頬張ってはシャリを飛ばして喋り散らす。咀嚼するリズムに合わせて前後に揺れるヘッドドレスの飾りつけに、ヘアメイクスタッフが内心舌打ちし悪態つきながら悪戦苦闘している。
「ほんとバカみたい。トロくて鈍くさくて、見てるこっちが歯痒くて死にたくなるくらい薄幸この上ない子だったの。なんでなのかしらね、すぐストーカーにつけ狙われちゃうタイプで、いつも誰かしらに付きまとわれてた。クソみたいな元カレにリベンジポルノされてさ、とてもじゃないけど素面(しらふ)で素顔を晒して街中を歩けないくらいの、えげつない動画が流出したこどがあったの。「もう誰も信じない。お金で買えるものだけが自分の思い通りにできる」なんて言ってたそばから、しっかり自称生保レディの薄汚いババァに騙されちゃって。全財産で翡翠だかアメジストだか紅玉髄(カルフンケル)だか分からない石を買わされて。誰かれ構わず手当たり次第に、アイフル、アコム、プロミス、レイクをはしごして四方八方から借りまくったお金を、絶対儲かる、元本元手保証の有望株に投資してあにはからんや、急転直下の株価暴落、会社はデフォルト経営破綻、社長はトンズラ。一生風俗で働いても返せない借金をこさえて自己破産申請をしたんだよ。じゃああの子の死は欲得ずくめの自業自得、自暴自棄の自死なんじゃないのって思うかもしれないけれど、それはない。わたしはよく知ってるから。ほんとバカで単純なあの子ときたら、「いつかIT企業CEOのビリオネアが火星移住計画『アダムとイヴ』を実行に移す時が来たら、プライベートロケットに乗ってわたしを迎えに来るの」来ないのって信じてたくらいだから。」

 レーテー(忘却)とステュクス(怒り)

 二度目の電話がかかってきて、それも最初の時と同じようにボイスチェンジャーで声が変えられていた。『二度はあるが三度目はない』と男だか女だか分からないその声はとても強い口調だった。
「ウルフの声を聞かせて!」
指定の口座に1億振り込むようにだけ言って、電話は切れた。わたしが告(チク)る訳がない。『警察に連絡したら娘の命はない』と、最初の電話の時に言われた。
「1億ものお金、わたしにはありません。」
『こっちはそっちの情報を調べ上げて逐一全部把握し、これくらいなら妥当だろうと踏んで吹っ掛けているんだ』と、男だか女だか分からないその声は不敵に笑った。相談できる相手なんて誰もいなかった。パートナーが何の理由もなく(もしかしたらわたしの知らない理由が、何かしらの理由があったのかもしれないけれど、わたしには何ひとつ心当たりがなかった)突然自ら命を絶ってから、わたしは娘を連れてショーからショーへ。雑誌、広告、C
Mの撮影。パーティー、レセプション、ワールドプレミア、ガラ、チャリティ、リアリティショーへの参加と、仕事で時間を埋めて目まぐるしく世界中を旅した。パートナーの死以降は誰とも、両親とも連絡を取らなくなり疎遠になった。『おまえがどれほど娘を溺愛しているか、こっちはよく知っているんだ』と、その男だか女だか分からない声は半笑いで言った。わたしを唯一この生、この腐ったろくでもない世界に繋ぎとめている娘ウルフ。そのことを知っていて、その男だか女だか分からないその声はそう言っているのだ。許せない。それも半笑いで。声まで変えて脅迫するその卑怯で卑劣なその男だか女だか分からないそいつを、今この場でぐうの音もでないように絞め殺してやりたい。生きた娘を取り戻す方法は三つ。         
一、お金を振り込む。 二、自分で見つける。 三、危険を冒して警察に連絡する。
お金を振り込んだからといって娘を無事に、無傷で、生娘のまま返してくれる保証はまったく、どこにもない。自分で見つけようにもその男だか女だか分からないそいつがどこでどのように娘を監禁、または連れ回しているのか、それとも考えるのも嫌だけれどもうすでに殺してしまっているのか、それすら見当もつかない。残された選択肢はたったひとつ。でもあまり冴えたやり方とはいえなかった。警察による誘拐犯の検挙率は国と地域によってまちまちで、バラつきがある。場所によっては誘拐犯と警察がグルというレアケースも存在する。この場合に限っていえば必ずしも最悪という訳ではなく、身代金を満額支払えば(誘拐犯と警察の間で折半もしくは4:6、3:7? 両者の力関係、警察の気分、虫の居所、マージンの要求次第でコロコロと変動する)人質は無事に生きて戻ってくる。
ここの警察を信じて、最悪の事態だけはどうか起こりませんようにと願って電話するしかなかったのに、携帯を没収された上、ショーの終了まで関係者全員の会場敷地内からの出入り禁止を告げられた。わたしはなぜ自分がここでこうしているのか、まったく分からなくなった。放心状態で会場内をぐるぐる夢遊病のように歩き回って、白い幽霊が出たとみんなを驚かせてしまった。

 ショーの本番直前まで、ムラサキは舞台袖でモデルたちの服を執拗に手直しし、指示カード通りになっているかチェックしてスタッフに注文をつける。不安と緊張で顔が引き攣り、体が硬直しているモデルたちに向かってムラサキは、
「あなた達ひとりひとりが今日の主役。今この瞬間(とき)の主人公なの。このショーは自分が支配している。自分のためにあるんだと。ハッタリでいい。傲慢で結構。鼻持ちならない自信過剰の目立ちたがり屋で上等。強い自分を演じてガツンとぶっカマしてくるのよ。」
そう簡単に自分をコントロールできる子なんていない。主役はあくまでデザイナーの服で、モデルはそれを着て歩くものでしかない。スーパーモデルだけがその服を自分を惹き立てるものとしてお飾りにすることができる。デザイナーもその影響力を十二分に知っていて、主従の転倒が起こるそこだけはWinWinの関係が許されている。その他大勢の雑魚どもはたくさん場数を踏んでいっぱい失敗して、たまにある成功体験を慰めにして経験を積み重ねていくことでしか自信も余裕も生まれてこない。過呼吸に陥る子。突然泣き出してしまう子。お腹を下してトイレの個室に閉じこもる子。洗面台で嘔吐する子。小町は拒食と過食を繰り返していた自分を思い出してしまい、胃の腑から込み上げてきたものを懸命に嚥下してこらえ、エズきそうになるのを我慢する。高校に入ってすぐ、クラス全員から無視されるようになった。わたしが教室にいない休み時間、クラスメイトが
「自分がかわいいの分かってて、分かってない振りしてるのが一番ムカつく」と喋っていた。わたしの存在自体が、周りの女の子の敏感な部分をいたずらに刺激してイラ立たせ、不愉快にし、逆撫でしているのが分かった。自分より背の高い子を嫌う男子は、動物園の柵の向こうのキリンでも見るように遠巻きにわたしを眺めた。爆食してはトイレに閉じこもって鍵を掛け、喉の奥に指を突っ込んで嘔吐した。コツが分かってくるとものの二、三秒で吐けた。作ってくれた両親、お店のひと、生産者さんへの罪悪感と自分への嫌悪感で、「お腹痛い」「生理痛がひどい」「彼氏と別れたばっかり」と嘘をついて二、三日何も食べなかったりした。この繰り返しが修行みたいに気持ちよくなって、どんどん痩せていってMAX25キロ体重が減った。鏡に映った自分の体は鶏ガラそのもので、浮き出たあばら骨を指でなぞってひとり悦に入った。自分で自分を鞭打つひと。リストカットするひと。荒行者。マシニストの気持ちがよく分かった。自らの罪に自ら罰を与えて天の許しを請うのだ。それがたとえ自己満足のひとりよがりでしかなくても、わたしは癒された。わたしの父はアメリカ人で、曾曾おじいちゃんがじゃが芋飢饉の時に新大陸に渡って来たアイルランド系だった。母は日本人で、漠然とハリウッドスターに憧れて海を渡ったミーハーな子だった。日本食レストランでアルバイトしていた母は、そこによく食べに来た監督志望の父と知り合い一緒に暮らし始めた。父はクロサワ、オズ、フカサクの大ファンで低予算で自主制作の映画を撮り、DVDに焼いて制作会社に片っ端から送りつけていたが鳴かず飛ばずだった。母はなんとなくエントリーしたディズニーチャンネルのオーディションでプロデューサーの目にとまり、ドラマにちょい役で出演するようになった。母が夢のハリウッド女優を目指してイベント、チャリティ、セレモニー、パーティーに顔を出しチャンスをうかがう中、父との関係は希薄になってふたりは別れた。父は監督の夢を諦めて、趣味の車好きを活かしてタクシードライバー、中古車ディーラー、レストア専門の修理工場と仕事を転々とした。母も結局、夢を叶えることはできなかった。日本に帰る前に、父に会いたいとふと思い立って共通の知人、友人のつてを辿って父がその時働いていたスクラップ工場を訪ねた。父は再会した母に、いつか誕生日かなにかの時に渡すつもりでいた手作りのオスカー像をプレゼントした。
母は思わず泣いてしまった。今度は父が新天地を求めて海を渡る番だった。

 80年代、雨後の筍のようにいたマンションデザイナーのひとりだったムラサキは、バブル経済の波に乗って自身のブランドを立ち上げメゾンを設立した。赤坂にアトリエを構えて、春夏と秋冬、年二回のコレクション。プレタポルテの新作。販売促進のためのプロモーション。イベントの開催と36
5日、がむしゃらに働いた。パリ・ミラノ・ロンドン・ニューヨーク・東京と、世界中を駆けずり回ってショーをする。テーマはその時代、今この瞬間(とき)のムラサキのインスピレーションの趣くまま自由自在、千変万化した。動物のテーマ。レオパード(ヒョウ柄)。虎斑。ゼブラ。ジラフ(キリン柄)。蛇皮。クロコダイル。カンガルー。ミンク・貂の毛皮。馬・牛・豚のレザー。ウール。アンゴラ兎・カシミヤ山羊・ビーバー・アルパカ・ラクダ(キャメル)・アンゴラ山羊(モヘア)の毛。モカシン(鹿皮)。鹿の子・蛇の目・孔雀・亀甲紋。ポメラニアン・ホルスタイン柄。ライオン・ゴリラ・マンドリルの顔。若冲の群鶏。温泉に浸かるニホンザル・カピバラ・狸を大胆にプリントしたもの。くノ一・巫女・尼・海女のテーマを、ニューヨークのマンハッタン、セントラルパークでハプニング的に行った。オタクのテーマ。バンダナに縁無し度付き眼鏡。裾丈の短い、油絵の空のようなケミカルウォッシュジーパンにシャツをインして。締めたベルトの余りが腰に垂れているスタイルの提示は、ダサいとイケてるの価値の転倒を図った。
勲章のテーマ。バッジ。ワッペン。ブローチ。パッチワーク。アップリケ。ビーズ。スパンコール。スワロフスキー。ニップレス。ビジュー。名札。腕章。徽章。値札。POP。シール。ステッカー。マグネット。毛玉。オナモミ。服に付けるありとあらゆるものをコラージュ・モンタージュ・ナラタージュ・パスティーシュ・グワッシュの手法で表現した。ゾンビのテーマをクルーズ船を借り切ってショーしたところ、招待したバイヤー、メディア関係者をパニックに陥れた。アンシンメトリーのテーマ。潮招き。義手。義足。隻腕。隻眼。眼帯。左右で異なる形・色・デザイン・素材を組み合わせて、道化(ピエロ)的陳腐さに堕しないように苦心した。宇宙服のテーマ。プラスティック。グラスファイバー。アクリル。ポリ塩化ビニル。ポリプロピレン。カーボンナノチューブ。新素材を用いて未来感、宇宙を表現したつもりがピエールカルダンの二番煎じ、疑似餌(ルアー)、猿真似、柳の下の二匹目のどぜうと酷評され、大失敗に終わった。七つの大罪のテーマ。「高慢」のモデルが屈強な男奴隷四人が担ぐ御輿に乗って登場。「怒り」のモデルが客席側から観覧者にさそり鞭を振るいながら現れる。「貧欲」の貧乳のモデルが正面からあらゆる服を着た着膨れの恰好でキャットウォーク。「暴飲暴食」のモデルが千鳥足で、クリームとスポンジが何層にもなった上からメイプルシロップがグランマの垂れ乳のように垂れているパンケーキをアテに、地ビールを大ジョッキで一気吞み。「色欲」のモデルが一糸まとわぬ丸裸一貫、スッポンポンの生まれたままの姿にマノロブラニクの靴だけ履いてストリーキング。「怠惰」のモデルが肩までもぐり込んで亀の甲羅にした炬燵を、インカムを付けた四人のスタッフが運び込む。それら一部始終を「嫉妬」のモデルが舞台袖から顔半分だけ覗かせ、前歯で嚙んだ下唇に血が滲んでいる。
 ファッションは芸術(アート)だ。ひと昔前であれば貴族・上流階級(ブルジョアジー)・セレブ御用達のオートクチュール(高級衣装)だけで十分やっていけたものも、今は誰もが買えて着られるプレタポルテ(既製服)の時代だ。馬車馬のように働いていたムラサキは40(アクメ)の時、とうとう張り続けていた糸がプチンと切れた。強迫観念に囚われて
「服がない。」と朝昼晩、四六時中、寝ても醒めても蜿蜒と言い続けた。真剣な面持ちで一心不乱にトワル(仮布)を裁ちばさみで切り刻み細切れにしたものを、糸で縫い合わせて龍の鱗のようにしていった。メゾンの職長もパタンナーも怖くて誰も近寄れなかった。バカラの切り子細工みたいなキラキラした眼をして、「服がない。服がない。」と囁き寝食を忘れ、トワルが一枚もなくなると誰かが逆鱗に触れたみたいにキッとなって、パタンナーのひとりを捕まえ糸でぐるくる巻きにして首を締め上げた。警察に連絡するしかなくなって、精神科病院に強制入院した。自分で自分のしていることが分からず、コントロールできない。自分のやったこと、言ったことを何も覚えていない。誰も彼女を理解できない。手を差し延べるすべもない。孤独と闇の世界。永劫回帰(リターントゥフォエバー)するわたし。一日は朝・昼・晩、地球の自転でできている。一年は春・夏・秋・冬、地球の公転でできている。一生、食べて寝る毎日。モーニングルーティンとナイトルーティンがあって、生活習慣、社会的慣習、年中行事がある。同じことを繰り返してそこから逃れられない中毒者(ジャンキー)、常習犯、依存症患者、症候群(シンドローム)がある。囚われている先入観、固定概念、偏見(バイアス)がある。頑なにこだわり続ける職人、芸術家、夢想家、変人奇人がいる。失った恋、夢、仕事、過去の栄光を牛のように反芻する。スルメのようにしゅがむ。囚われから逃れるための瞑想、座禅、マインドフルネス、修行、悟りもまた、それに囚われている。あるがままのわたし、本当の自分、足すことも引くこともない自然体の、傲慢になることも卑下することもない分相応、等身大、身の丈に合った自分自身であること、自分探しにわたしは囚われている。暗く深い、じめじめしたいつ果てるともないトンネルの、はるか彼方、針の先ほどの向こうから、うっすらと薄明のほの光が射し込むように、徐々にムラサキは寛解していった。
ある程度落ち着きを取り戻してくると、ムラサキは社会福祉施設に移され、そこでリハビリとリクリエーションを続けた。なにがきっかけでムラサキのスイッチが入ったのか。突如26年前、40(アクメ)の歳、発症する直前にタイムリープしたように、ムラサキは内から滾滾と湧き出るアイデアを具現化せずにはいられなくなった。昔のコネとツテをまさぐり手繰り寄せてスタッフを集め、今いる社会福祉施設をそのままアトリエとして使用した。忘れ去られていた伝説のデザイナーが26年振りにショーを行うとあって、名立たるトップモデルたちが名を連ね、その話題性にこぞってメディアマスコミが飛びついた。

 「あなたが殺したんでしょう?」
そう耳元で囁かれびっくりして振り向くと、出番直前なのにホットミルクを注いだカレー味のどん兵衛を立ち食いしているハンナが後ろにいた。強烈なカレーの風味が舞台袖に所狭しと立ち込めて、他のモデルたちもスタッフも露骨に嫌な顔をしてみせた。タバコを吸いたくても遥か彼方、世界の涯、絶海の孤島に位置する喫煙所の中以外では吸えない。喫煙者またの名をニコチン中毒者、肺癌予備軍はガレー船でオーストラリアへと追放される極悪人のような扱いを受ける今の御時勢、余計にイライラが募っていく。
「わたしじゃありません!」 小町は強く否定した。
「失神のふりなんかしちゃってさ。」
「ふりじゃありません!本当に、わたし、彼女の死体を見たあとの記憶がとんでるんだから。」
「もしかしたらこういうことなのかもしれないわよ。」
ハンナは意地悪そうに上目遣いで小町を見ながらうどんを啜り、口角を上げてニッコリ笑う。
「オースティンが死んでるのを見て失神したんじゃなくて、はさみで刺し殺したあと失神したふりをしたんじゃないか、」
「ふりじゃないってば!そんなわけない!」
「なんでそんなムキになってんの?」
「でも記憶がないって言ってたから、はさみで刺したことも忘れてるのかも」
「死体を見るまでははっきり憶えています。誰かの悲鳴が聞こえて、わたしはそのブースの方へ。鏡の前に彼女が俯せていて、肩に手を置いて起こそうとしたら、胸の真ん中にはさみが‥‥そこからの記憶がないんです。」
「ふーん」
ハンナはずるずるちゅるちゅるちゅぽんと、小気味よい音を響かせてうどんを啜り、小町が見つめる中、カレーにミルクでカフェラテみたいになった汁まですっかり飲み干す。
「悲鳴なんてなかったわよ。」
「えっ?」
「本当のことを教えてあげる。」
ハンナは唇と唇がくっつくくらい顔を寄せてきて、小町の目をまじまじと、まるで暗示でもかけるみたいに見つめながら話した。ハンナの口元からカレーの残り香がいつまでも漂い続けていて、それが後々までも、カレーの匂いを嗅ぐたびにその時の記憶、ハンナの唇、ヘッドドレス、着ていた服、ハンナの喋ったことをまざまざと思い出してしまうのだった。

 百鬼夜行

 本田美奈子の「ワンウェイ・ジェネレーション」(作詞秋元康 作曲筒美京平)が流れ出し、ショーが始まる。舞台正面から向かって左にバイヤー、右にメディア・マスコミ関係者、フロントローにはファッション雑誌エディター、カリスマスタイリスト、インフルエンサーが座りカメラやスマホを舞台に向けて構えている。会場内の明かりは消されていて、右斜め上にぽっかり空いた、満月のような光の穴が舞台上を淡く照らし出している。ランウェイには精肉を吊るすレールが、舞台袖からキャットウォークの始まりまで凸状に突き出している。重苦しい機械のスイッチが入る音がして、レールに沿ってフックに宙吊りにされたモデルたちが次々と舞台上に現れる。モデルたちはみな白粉(ドーラン)で顔を白く塗られ、丸みを帯びたコクーンコートを着ており、繭そのものに見立ててある。
妊婦のモリスンがコクーンコートを脱ぎ捨てランウェイを歩き出す。生成りの絹糸で織られた榛(はしばみ)色のマタニティドレスで、苔生した石畳のような光沢のある別珍の、濃緑のキャットウォークを歩いていく。厚底のグラディエーターサンダルのせいで、モリスンは物の見事に足をぐねらせナオミ・キャンベルのようにこけて破水し、そのままランウェイ上で分娩に入る。ハンナがポンパドール風におっ立てたブロンドの髪にカッコウの卵の入った鳥の巣を乗せ、モンロー気取りでランウェイを歩く。シェリーはいがぐり頭にケピ、草間彌生の水玉モチーフ、フリーメーソンのピラミッドに目玉、クリムトの接吻を髣髴とさせるドレスで出てくる。舞台中央で股をおっ広げたモリスンの獣の咆哮が六方へと響き渡る。狼か狐か鹿か、この世の終わり、そして始まりなのである。
舞台奥にアメ細工で精巧に作られたアラベスクのステンドグラスをぶち破って、ハーレーダビッドソンに跨ったアーシェラが爆音轟かせてキャットウォークを走ってくる。階(きざはし)でバイクから降り立ったアーシェラは体にニシキヘビを巻いたままで、パープルピンクのレザースーツ、マーブル模様のロングブーツ、フルフェイスのヘルメットを脱ぐと逆ピラミッドに固めた縮れ毛が、マジックスティックから花束みたいにパッと広がる。
 タフタをふんだんに用いた天の羽衣のトップス、チュールスカート、ミリタリー柄のハイカットスニーカーのブロンデが、両脇にサルーキ―を連れて歩いてくる。全身ペイズリー柄のジャガード・クロス・セットアップでティプトリーが歩いてくる。三毛猫ホームズと黒猫ヤマトが舞台袖で丸くなっている。猫のしっぽを踏んづけて慌てて飛び出した小町は夢うつつの、ふわふわと暗闇の中に浮かび上がる濃緑のキャットウォークを階まで歩いていく。顎のラインを鋭角に切り取るおかっぱ。頭のてっぺんが右斜め上からの光で真っ白にハレーションしている。シャンブレーに織ったアオザイが玉虫色に変化し、芯を入れて四角く張り出した黒のボトムス。裸足にビジューを鏤めたベアフットサンダル。
「わたしは何度も何度もわたしに問いかけてみたのよ。゛わたしが殺したんじゃないか?゛って。でも゛わたしじゃない。゛ってわたしは分かってる。わたしが分かってるからって゛わたしじゃない。゛ことにはならないけど、わたしがブースに入っていった時にはもう、オースティンは死んでた。わたしとオースティンが付き合ってた時から、オースティンはもうそれをやってたから、すぐに分かった。鏡台の上にあったスプーンとライターとパケットをジップロックに入れて捨てた。第一発見者になるのは誰か、タッパーウェアに入れて持って来た昨日の残りのグリーンカレーをレンジでチンして食べながら、ずっと見張ってた。わたしのブースからそこがよく見えたのよ。一番最初に来たのはムラサキで、オースティンが死んでるのに気づいたムラサキは、しばらく固まってた。そのあと、何を思ったのかムラサキは、持っていた裁ちばさみをオースティンの胸の真ん中に突き立てて、その体を鏡台にうつ伏せにすると何食わぬ顔してブースから出てった。」
阿鼻叫喚の階で、モリスンは悶え狂っている。よく知らないひとが目を閉じてヘッドホンで聴いたら、象の鳴き声にそっくりだった。蝙蝠の羽根のように打ち広げられた股の間、局部の中心にぽっかりと、赤黒い斑の柘榴の実のような頭が覗いている。アルビノクリスティーヌが義経千本桜の平知盛(とももり)白装束でランウェイを歩く。銀角二本の前立てが摩天を衝く兜。白糸威(おどし)の鎧。綴れ錦の出陣羽織。纐纈(こうけち)織りの籠手。銀襴緞子(どんす)の大跨。クリスティーヌは文楽人形の動きを忠実に再現して見せる。おどおどと挙動不審で目の焦点が定まっていない。キャットウォークの階でぎこちなく立ち止まって、決めポーズ。反転して振り返った先、舞台奥の割れたステンドグラスからまるでティファニーの店角に潜む、金のエンジェルみたいな金粉まみれの愛し子、ウルフが走って来てクリスティーヌの胸に飛び込む。
「精肉貯蔵庫に閉じ込められてた。時と間合いを見計らって、ドンピシャの絶妙のタイミングで扉が開け放たれた。すべてはショーの演出、カムバックショーの成功、世界的名声、『タイム』の表紙のため。グラディエーターサンダルだって、裁ちばさみだって。ムラサキの掌の上でいいように弄ばれ、嬲られいたぶられてるだけの着せ替え人形。」
間歇的に泣いていたものが最後の方は永遠に鳴り続けてやむことのない教会の鐘の音のようになって、生きとし生けるものに悔い改めと祈りを促す。ゴルフボールほどの出口が一気にびょーんと延び拡がってバレーボールくらいになると、螺旋を描いて昇って来た産道の先にようやく光を見た。羊膜に包まれて出てきたそれは、このろくでもない、群生品類が万物斉同している世界に落ちて来てしまったことに大いに驚いてしまう。
呱呱の声。
逆さ十字に吊るされたオースティンが、モデルたちによって運ばれてくる。茨の冠を戴く巻き毛の亜麻色の髪が末広がりに広がって、今年一番冷えた日の朝の陽の光のように美しい。白薔薇をモチーフにしたリバティプリント。デコルテ、パフスリーブのワンピース。胸の中央に屹立する裁ちばさみの持ち手がハートを象る。サテンのウエディングドレスに着換えたモリスンが産湯を使ってさっぱりした赤子、バードと名付けた子を天鵞絨(ベルベット)のおくるみにくるんで登場し、フィナーレを飾る。リバーレースのベールが長く尾を曳き、サモトラケのニケ像を模した精緻なドレスが真珠母色に輝く。舞台袖に仕込まれた祝砲の爆発音が会場内に轟き、首を竦めてビックリ仰天している人たちの上にポン菓子が雨あられと降ってくる。モチ米の焼けた香ばしい懐かしい匂いが立ち込め、なごり雪のようなポン菓子が降り注ぐ中、ムラサキがランウェイに姿を見せる。全身黒ずくめのムラサキは得意満面の笑みで、塩吹く干し柿の両頬を下垂らせて、モデルたちにハグされ肩を抱き合ってキャットウォークへと進んでいく。バイヤー、エディター、メディアマスコミ関係者はスタンディングオベーションの拍手喝采でムラサキを迎える。

                              了
 

 

 

 


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