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春王のヘイムスクリングラ

 須弥山頂の善見城で眠る帝釈天は、制多迦童子に足腰を叩かせ、このような夢を見た。

   王の主題

 東勝身州に待望の子が産まれた。その子は春団治と名付けられて、大切に育てられた。

   第一曲東天紅ラブコメ倶楽部

 東雲チキンあきら

 ぼくは1950年1月29日、江東区亀戸天神前で産気づいた母親のお腹の中から、泰山胎動して産道をきりもみしながら前進し、八十の衢の紅蓮の娑婆辻に踊り出た。3600g、10時間の難産だったという。猿のような赤子から天使のような寝顔を見せて眠る愛し子へ。目はくりくりっとバブバブハイハイし、オッパイを吞み飽かし、ぐずり夜泣き疳の虫、おねしょ蟹糞おたふく水疱瘡はしかと歴任したはよかったが、いささか甘やかされ過ぎた嫌いもあり、箸が転んでもすぐに泣く、弱虫泣き虫塞ぎ虫の子なってしまった。黄金時代と巷ではもっぱら評判の子供時代はいじめられ、からかわれ、嘲笑される暗黒時代で、チキンというあだ名を付けられた。頭の上にはいつもどんよりとした厚い雲がかかっているように視界が狭く暗く、日本晴れ、あっぱれ凱風快晴の富士の山など望むべくもなく、毎日嫌々学校に通っていた15の春、それは突然、降って湧いたようにやって来た。
ビートルズがやって来た。周りの大人たち、クラスメイト誰ひとり関心を抱かない中、ぼくはひとり部屋に閉じこもってラジオにかじりつきエアチェックし、横須賀米軍基地向けの短波放送にチューニングを合わせようとダイアルをいじくり続け、ノイズだらけのビートルズナンバーに胸躍らせ、ツイスト&シャウトした。
凱風快晴。ぼくの頭の中はピーカンに晴れ上がって、気分は上々天晴れ家を飛び出した。新たな時代がはじまる予感に悪寒が走り、自転車をこいで本屋で音楽雑誌を買い、こんな告知を出した。
『バンドメンバー募集
 ギター ベース ドラム ボーカル ビートルズの好きな方。自薦他薦問
 わず。当方、音楽経験なし。』
待てど暮らせど返事は一通もなく、そいじゃあこっちからってんで目ぼしい人を探して町をあちらこちらと、自転車でこいで回った。そう簡単に見つかるはずもなく、疲れ果ててパンパンに張った足を引きずり、猿江公園のベンチにへたり込んでいると、買い物袋をぶら下げたおばさんが近づいてきて、
「おにいさん、三千円ぽっきりで気持ちよくなれるよ」と囁いた。
ぼくは顔を真っ赤にして促されるまま、おばさんの後に付いていった。どこをどう歩いたか、深川本坊のアパートの二階に上げられて、そこでチェリーボーイから染井吉野の花咲かせ、大人に大変身した。おばさんには子供が一人いるらしく、部屋の片隅に積み重なる衣類に埋もれたピアニカを見つけた。一人目のメンバーの獲得はこうして成った。週二日、月曜と木曜を練習日とすることに決めて、坂東ウメさんがピアニカを担当する。
 勢いづいたぼくは自転車をかっ飛ばし、大人になった誇らしさと童貞を失った切なさとメンバーを獲得した心強さに得意になって、荒川の河川敷までかっ飛びぶっ放した。小松川千本桜の土手下から、スカしっ屁ような奇妙な破裂音がしているんで近づいてみると、金髪こめかみに両剃り込みをほどこし、眉毛のないのっぺりした顔、短ランボンタン赤靴下に女物サンダルのヤンキーが、トランペットを吹いていた。ヤバイと思って逃げ出そうとしたがすでに遅く、
「待てやゴラァ!」と凄まれて「何見てんだよ」とボコボコにされた。這いつくばって土下座し、青い土と草いきれの匂いを甘噛みしながら、
「メンバーになって下さい」と懇願したら、意外にもあっさりOKしてくれた。二人目のメンバー獲得はこうして成った。ビートルズにトランペットはいらなかったが、ヤンキーの先輩に逆らってはいけないことくらい、世の中の常識だ。バンドにはやはりボーカルが必要だし、できれば作詞・作曲もできるポール、ジョン、ジョージのような才能の持ち主が望ましかったが、そのような逸材がその辺に転がっているはずもなく、錦糸町辺りをウロウロし、亀戸駅から東あずま駅、立花団地に迷い込んで方向が分からなくなった。壁に耳を当てて澄ましていると、微かな歌声を聞いた。壁に手を当て差し入れて、押し入れの中で口ずさんでいた引きこもりの女の子の肩をつかみ、世紀の歌姫(ディーバ)を獲得した。三人目のメンバーはこうして成った。
ビートルズに憧れて探しはじめたバンドメンバーは、取りあえず人数だけは一緒になったわけだ。

 メタルブルー(謎カノン)

 運転席のまる夫と助手席のペケ子は、街中に網の目状に張り巡らされた定点を、ひとつひとつ虱潰しに回っていく。まる夫はすべての定点の位置を記憶し、ペケ子はパッカー車の後ろを付いて走りながら。ボタンを押してゴミ袋を回転板の回る投入口へ押し込む。収集されたゴミは夢の島へと。鴉たちが競って集まる島には、死と再生を繰り返す母なる自然の息子が眠る。

 坂東ウメ

 わたしは1925年3月20日、江東区深川に生まれました。戦争の時代に生まれ育った子供たちは、みなみな軍国少年少女でございます。男の子は皇御国のため戦って美事華散ることに憧れ、女の子は東条英機大将に恋をしておりました。終戦の日、自分たちで建てたバラック小屋の中から、着の身着のまま垢まみれ煤まみれの姿で這い出して、一面焼け野原の空の下に立ちました時、わたしはやっと解放されたと思いました。町内の掲示板に貼られた女給募集のチラシを見て訪ねて行きますと、駐留軍相手の慰安婦募集だと分かりました。わたしが帰ろうといたしますと、そのひとが言うには
「日本はアメリカに負けた。彼らは鬼畜のようなケダモノで何をされるか分かったものでない。日本の婦女子を守るため、社会の良俗と公共の秩序を守るために、どうか力になって欲しい。」と頭を下げられまして、他に仕事がある訳でなし、お給金もしっかり頂けるということでしたので、赤線区域内の公娼館で働くことになったのでございます。厚化粧でペラペラの和服を着て笑いを売る女たちが、建ち並ぶ旅館という旅館に詰めておりまして、突入してくるGI達を相手に泣き叫び、踊り喚き、唄い呻く歓楽の地獄池にどっぷりと浸かる。中には一日に三十人のGIを平気でこなす強者もございました。わたしはすぐに月に一度の身体検査に引っ掛かってしまいまして、仕事もできなくなりました。両親もわたしの頂くお給金をあてにしておりましたから、はたと困っておりますと、先輩の女性に誘われましてモグリの私娼館の方へ。お給金はぐっと安くなりましたけれど入ることができました。
そこも公安の厳しい取り締まりにあって潰されてしまいますと、オーラル専門で夜の街に立つ個人営業をやりました。ショバ代なども払わねばならず、上がりから残るお金はわずかでございました。ちょうどその頃、立て続けに亡くなった両親の葬儀代、火葬代、お墓を建ててあげることもできたのでした。ひとりになったわたしに近所の人が親切に結婚相手を世話してくれまして、言われるまま勧められるまま町工場で働くすこし年のいった人と一緒になりました。娘もひとり授かりましたものの、夫は酒癖の悪さから職場の人と口論になり、工場をクビになりまして。それから夫は酒浸りギャンブル浸りの生活で暴力もひどくなり、家にお金が入ってこないのですから、わたしが内職などをしておりますと、それが気に食わないのか、わたしが作った菓子箱や紙縒りをひっくり返しグチャグチャにしてしまいます。外で働こうにも子連れでは仕事も見つからず、手っ取り早く、短時間でということになりますと仕方なし、昔取った杵柄でということにもなり。夜の街に立つようになりますと、夫はふいとどこかへそれっきり、行方知れずでございます。
 わたしは娘ひとりを抱えまして夜の街に戻り、来年小学校に上がるということにもなりますと、当然ますますお金が必要になる訳で、昼も声をかけるようになりました。卒園式にも出られませず、さぞかし辛い思いをしていることだろうと、わたしが仕事から帰ってきますと、娘が
「おかえり」と言って、式の時に歌った歌を歌ってくれたのでございます。
わたしは涙が止まらず、思わず娘を抱きしめまして
「ごめんね」とつぶやいたのでありました。

 東雲チキンあきら

 おばさんの都合もあって4人がはじめて顔を合わせることができたのは、それから2週間も経ってからのことだった。場所は思い出の猿江公園。ぼくは立花団地に寄って、嫌がるかのかさんを無理やり連れ出し自転車の後ろにくくりつけ、公園まで飛ばした。先輩とおばさんはもう来ていた。
「なにバックレようとしてんだよ。」と先輩に〆られ、詫びを入れつつ
「まず最初に、バンド名は何にしたらよろしいでしょう。」とご機嫌を取る。先輩は「夜露死苦トゥハート」。おばさんは買い物袋の中から家計簿を取り出し、ページをめくって「ゆきずり慕情」。かのかさんは自転車の後ろで固まったまま。ぼくは東天紅地帯に住む4人にちなんで
「゛タマゴ倶楽部゛なんてのはどうでしょう?」と、軽い感じで提案してみた。先輩は「ナメてんのか⁉」と頭突きを食らわせられ、おばさんには
「妊活する夫婦じゃあるまいし。」と笑われた。
いつの時代、どこの場所、誰でも何かを作り出し、産み出す者はつねに勝者だと、ぼくは力説したが聞いてもらえなかった。取りあえず、バンド名は
゛シン・ビートルズ゛にしといて、先輩はトランペット。おばさんはピアニカ。かのかさんはボーカルを担当することが、改めて決定された。
「おまえは何を担当するんだ?」と言われて、ぼくははたと困ってしまった。次に集まる時に担当の楽器を持って来なければメンバーから外すと先輩に脅されて、そんなのはヒドい、言い出しっぺでメンバーを集めたのもぼくなのにと言いたかったのだが、先輩にメンチ切られてグーの音も出ず
「分かりました。」と言うしかなくて、その日は帰った。

 学校の四時限目が終わって、いつものようにジュースを買ってくるように言われて、校舎裏のフェンスに空いた穴から抜け出し、自動販売機まで走ってふと指定のゴミ置き場を見ると、燃えるゴミの袋から一対のマラカスがこぼれ落ちている。ぼくは立ち竦んだまま、気づくと失禁していた。ジュースを買うのを忘れたままマラカスだけ持って教室に戻り、一軍のクラスメイトにボコボコにされながら、学ランの内懐に隠したマラカスだけは死にもの狂いで守り、傷つけなかった。速攻帰宅部のぼくは早速部屋で練習に励んだ。ビートルズの曲に合わせてマスカラと腰の振りを決め、これで゛タマゴ倶楽部゛に残れると確信した。ぼくの中では゛タマゴ俱楽部゛だったけれど、あくまでぼくの中だけの話で、先輩の中では゛夜露死苦トゥーハート゛おばさんの中では゛ゆきずり慕情゛に違いない。
次の木曜日に集まることが決まって、いよいよバンドとしての第一歩を踏み出す。夢はティアラ江東(公会堂)でのワンマンゲリラライヴ。マスカラと腰の振りは蘊奥を極め、切れ味鋭く空を切って腰を痛めそうになる。練習は深夜にまで及び両親、隣り近所からはイライラする、耳障りだ、めまい、吐き気がする、眠れない、算盤を持ったトニー谷に追いかけられる夢を見た、と苦情が来たが一向にお構いなし、気分はビートルズなのだ。

   王の戴冠

 国王は皇太子に後を継がせると決意し、退位を国民に伝える。
国民は早過ぎる譲位を惜しみつつ、国王の判断を尊び、即位する春王の時代を慶祝する。

 春王の襲名口上

 この度、畏れ多くも金春の名を継ぐことに相成りまして誠に恐悦至極、その責任の重さをひしひしと感じておる次第でございます。
不肖春団治、これより一層精進いたしまして、金春の名に恥じませぬよう汚さぬよう、日々刻苦勉励して参りたいと思っております。皆々様あっての春団治、ご声援ご愛顧に後押しされまして、ご期待に背かぬよう精一杯やって参りたいと存じます。
どうぞこれからも皆様に温かく見守っていただき、𠮟咤激励を頂きまして、ますますご一同様のご発展ご無事をお祈りいたし、甚だ高い所からではございますが挨拶の代わりとさせていただきまする。

 山吹かのか

 わたしは1945年2月15日、江東区立花に生まれた。わたしが生まれた時、父は出征しており沖縄戦で帰らぬ人となったので、わたしは会ったことがない。母は乳飲み子のわたしを抱え、実家の方へ疎開していたが終戦後、復員してきた父の弟と再婚し、一男一女をもうけた。わたしは義父となじめず、母もわたしが悪いと決めつけてしまったので、ひとり孤立することが多くなった。押し入れの中に閉じ籠って、息を殺して秘めやかに存在を消した。家族が仲良く笑っている声を襖一枚隔てた暗闇の中で聞く時、自分がいなくなれば理想的な家族。みんなにとって幸せな形だと考えて、手首にカミソリを当ててみたけれど、怖くなってやめた。
学校にも行かず、抽選で当たった団地に引っ越してきても変わらず押し入れに閉じ籠って、ひたすら暗闇の中、母親の胎内に戻った気で満足し、羊水の中に浮かぶ自分を夢想する。あの頃のままの記憶を辿っている錯覚に陥って、そこで母の歌う鼻唄に合わせてでんぐり返るわたしははたと気付いた。
母は国民全員が本土決戦・一億玉砕を叫んでいた戦争末期の、飢餓状態にあえぐ狂気の東天紅で、夫が無事に帰って来ると疑わず、わたしが生まれてくること、戦争が終わったら戻って来た夫と家族三人、新しい生活がはじまる喜びを母は信じ、疑わず、待ち、祈り、一日一日をお米のひと粒ひと粒、つまんで残さず食べるように、もったいないと言いながら大事に生きていたんじゃないか。わたしは押し入れの中で生まれ出ずる胎児のまま膝を抱え、涙を流しながら母の鼻唄を聞いている。つられて歌ったハミングに、壁から手が出てきてわたしをさらった。
そしてわたしは光の満ちた世界へ誕生した。

 東風方くにを

 わたしは1947年4月2日、江東区大島に生まれました。わたしは母親を喉頭がんで早くに亡くしまして、父は忙しいひとでしたから、さびしさや孤独を紛らわせるためだったんでしょうか、悪い仲間とつるみましてヤンチャばかりしておりました。カツアゲ、タイマン、喧嘩上等、タバコにシンナー、さまざまなイタズラをやりました。自転車のサドルを盗んで残った筒穴にチューリップを挿しておいたり、壁や看板、シャッターへの落書き、万引きなんかはしょっちゅうで、本屋の女性店員の目の前でこれ見よがしにエロ漫画を小脇に抱え出て行くのでした。警察の方にはよくご厄介にになりました。高校に入ったばかりの頃でしたか、父が職場で倒れまして、わたしは伯父方の家へ預けられることになり、学校からの帰りがてらよく父の入院している病院へお見舞いに行きました。
ある日、病院の屋上に上がってみますと、シーツや肌着、浴衣といった洗濯物の干されている間で、ひとりの男性がトランペットを吹いておりました。しかしいくらも息が続かず、すぐにやめては息を整え、鎮まるのを待っては吹くのでした。看護士さんがそれを見つけ止めようとすると、えらい剣幕で怒鳴り散らし、トランペットを吹き続けるのでした。父の容体は良くも悪くもならず、一進一退を繰り返しておりました。冬の寒さが長引いて春になってもなかなか気温が上がらず、そんな中、花冷えの日に桜を見ようと車椅子で外まで出たのが悪かったのかとうとう、父は昏睡状態に陥り、脳死の判断が出された時にも、屋上からは微かにトランペットの響きがしておりました。
葬儀が済んだ後、わたしは父の入院していた病院の前を通った時ふと、あのトランペットを吹くひとはどうしているだろうと、屋上に上がってみました。シーツ、タオル、肌着、浴衣が午後の風に揺れる間に男性は見当たらず、壁から突き出た煙突にトランペットが空へ向けて掲げられておりました。通り掛かった看護士の方に訊くと、亡くなったのは父が死んでいくらもない頃で、あのトランペットは誰も引き取り手がなく、そのままあそこにあるのだと教えてくれました。父はあのトランペットを聞きながら亡くなり、その音が消えるのと同じように吹いていたひとも亡くなったのでした。わたしはこのトランペットは吹き続けられなければならない。吹き続けられ、ひとの命は伝えられていかなければならない。そう勝手に思い込み、ひとり決めにしてしまいましたわたしは、自分がそれを引き継ぎ、吹く番になるのだと、トランペットを煙突から抜き取ったのでした。

 春王への陰謀

 ふたりにお茶を点て終わると、桃子は躙り口の脇に寄って控える。兄がおもむろに器を置き、猫柳から差し出された式台の上の風呂敷を開く。封じ金百両が乗っている。
ニッキー団長 おぬしも悪よのう。猫柳。
悪徳商人猫柳 いえいえ。御代官様ほどでは。
ニッキー団長 して、手筈の方は整っておるのか。
猫柳 万事おさおさ怠りなく。
ニッキー団長 あとは桃子に任せるぞ。
桃子 すべてはお兄様の御心のままに。
猫柳 こいつは春から縁起がよろしゅうございますなあ。
ニッキー団長 これ柳屋、声がちと大きいぞ。
猫柳 これは。壁に耳あり障子に目あり。
ニッキー団長 ではしかと頼んだぞ。
猫柳 はい。

 タマゴ倶楽部、前夜

 ぼく達はそれぞれ自分の楽器を持って、先輩の知り合いのご好意で使わせてもらえることになったガレージに集まり、初のセッションを試みた。
「なんでスタジオに漬け物持ってくんだよォ、このクソババァ!」
「今日の晩御飯なんだからしょうがないでしょ。」
「なんだとクソババァ、バンドの平均年齢を引き上げやがって。」
「そっちこそバンドのお荷物じゃないの。」
「あぁ?もう一遍言ってみろや、ぶっ殺すぞ!このアマ。」
ビートルズの「マザー・ネイチャーズ・サン」に合わせて、先輩がトランペットを、おばさんが七色の丸シールが貼ってある鍵盤を弾き、ぼくは腰を振りマスカラを、かのかさんが蚊の鳴くような声で歌う。
「もっとデケェ声出せよネエちゃん。乳はデケェくせによ。」
かのかさんは俯いたまま涙をにじませ、ぼくは空気を変えようと「ユー・ウォント・シー・ミー」に合わせてマスカラ踊りを踊る。先輩は口が切れるまでトランペットを吹き続け、おばさんは吹き口を嚙み嚙み付いてくる。かのかさんの声は鯉する口パクのアイドルと同じで、三つの倍音に掻き消されて何も聞こえない。
「先輩、もうちょっとぼくらが音を落とさないと。かのかさんの声が生きないです。」
「あぁ?てめえなに先輩にタメ口きいてんだよ。ロックは自己主張と自己主張のタイマン。生きるか死ぬかのガチンコFUCKだろうが。ネエちゃん、こりゃオママゴトじゃねえ。本気(マジ)で、死ぬ気で武道館目指してんだよ。ママゴトなら家帰ってやれよ。」
かのかさんは涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら歌い、おばさんがお腹を空かせて待ってる娘のために帰ると言い出すまで、セッションは止まなかった。ぼくの自転車の後ろにかのかさんを乗せて帰る途中、おぼろ月夜がふたりの影を四方に分散させて踊る下で、ぼくはかのかさんの横顔を見た。その顔はオーシャンチャイルド・ヨーコのように微笑んでいた。

 次のセッションの日が待ち遠しくて、日程をさまざまに組み4人の都合を合わせようと駆けずり回っていた時、それは起きた。うちの高校と隣り町の高校との縄張り争いが激化し、ちょうどふたつの高校の真ん中にある駄菓子屋を巡ってガンの飛ばし合い。メンチの切り合い。小突き合い。肩が触れたの触れないの。チュッパチャプスを盗ったの盗らないの。チェルシーを嚙むな舐めろだのでタイマン勝負。はては学校を挙げての一大闘争になって、くにを先輩もその戦争を免れず、否応もなく巻き込まれていったのだった。
おばさんが寝込んだというので、ぼくが訪ねて行くと、おばさんは至って元気に迎えてくれた。どういうことか不審に思っているうちに、おばさんが腕によりをかけたご馳走の夕ごはんが出てきて、ひとり娘のつくしちゃんと一緒にいただいた。グズるつくしちゃんを隣りの部屋に寝かしつけた後、どういうことか訳を訊くと、おばさんはバンドをやめたいと言った。ぼくは
「どうしてだ。せっかく練習し始めて形になってきたのに、これからデビューを目指して頑張っていこうとしてた矢先にどうして。なんでだ。」
おばさんは何も言わなかった。見送るというおばさんと一緒に猿江公園まで歩きがてら、星屑散り敷く青い夜に、ぼくはチェリーボーイから染井吉野の花咲かせた日のことを思い出し、思わず顔を赤らめて見上げた夜空の宇宙に牛飼い座のアルクトゥールス瞬く春。おばさんと別れた。

 メタルブルー

 寒の戻りが続いてまだ冷える夜の街を、パッカー車が網の目を隈なく辿って定点を通過し、朧ろ月に車体が蒼く光る。まる夫はルームミラー、サイドミラーを睨みながら、ペケ子は左右(ひだりみぎ)とフットワークも軽く、回転版が唸りを上げる。夢の島行きの道の脇にはたんぽぽの綿毛が通り過ぎた風に飛ばされ、月の顔をかすめて夢の国に運ばれる。

 東風方くにを

 鉄パイプで側頭部を殴打されて、そのまま脳震盪を起こして立てなくなり入院していたベッドに、ウメさんは椿の鉢植えを持ってお見舞いに来てくれました。椿はポトリと花が落ちるので、病院では忌むべきものとされているのですが、わたしは本当に嬉しくて、今でも椿の花を見ますとウメさんのことを思い出して笑ってしまいます。会うと喧嘩ばかりしてそれが楽しくもあったからでしょうか、わたしはウメさんに早くに亡くした母親を重ねていたのかもしれません。ひと恋しく温かさを求めていつもイライラしていました。自分の感情や力を持て余していた十八の春。なにかを掴もう、確かなものをこの手に、世界を変えようともがき苦しんでなにも掴めず、いたずらに時間とエネルギーを浪費して。
あの抗争の後、わたしは停学処分になりましてそのまま学校をやめ、知人の紹介で建築現場で働くようになりました。トランペットもそれ以来、触れることなく押し入れにしまい込んだまま、埃をかぶっています。どこかでトランペットの音を聴くと、わたしの中でいつか見た遠い記憶、あの頃の思い出ばかりが甦り、胸が熱くなってしまいます。トランペットは埃にまみれ、もう高らかに鳴り響くことはないけれど、わたしの中ではいつでも取り出して思い出すことができて、何かの弾みにはいつも高く鳴り響き始めるのです。

 春王の襲名披露

 金春王の襲名披露は、それはそれは大変な人出で、街には出店、屋台、露店が立ち並び、芸人たちがそれぞれの技を競って道行くひとの足を止めようと、必死の形相で腕を振るい、汗を飛ばす。竹梯子の頂き、鳶職人が片足で身体を支え、逆さ吊りになって見得を切る出初めの式が済むと、火消し人足たちが纏・幡・幟を掲げて練り歩き、四月道化のあしびが奇妙な猿踊りを踊って先頭をきり、露払いしていく。四人の雲助に担がれた御輿に乗って、裃姿の金春王が枡に盛った豆を撒く。
゛福は内 鬼は外゛
見物客は落ちた豆を競って拾い、これを食べると無病息災。家内安全。商売繁盛。で一生、食うことに困らないと言われている。神宮前の石段を揺すり上げられて登り、社に到着すると、白衣に朱袴の巫女姿、桃子がしずしずと金春王の前に額づいて三拝。大福餅を乗せた三方を頭上高く掲げ、差し出す。金春王、餅を手に取り口をあんぐり開けて喰らおうとしたところへ、
「お待ちなさい!」
何事かと皆が固唾を呑んでいると、御輿の後ろへ控えていた王の保育官子規がしゃしゃり出て、金春王の手に持つ餅を叩き落とす。随身のひとり、ニッキー団長、怒りも顕わに形相を歪め子規を見下す。
「これは異なこと。襲名の儀の典礼に逆ろうて、前代未聞の所行かな。
子規、如何様にいたすつもりか。」
「さあ」
「さあ」
「サアサアサアサア」
人垣を縫って露払いを務めた四月道化あしびが、王の御前に飛び出し、落ちた大福餅を取って食う。あっと一同息を吞む中、ゴックリと。あしびは餅を呑み込んでみせる。だんまりの間が数秒。途端にあしび、苦しみ出し、悶えまたたき喉を引っ掻き、白目剥き、阿鼻叫喚の唸りを上げて悶絶、血走った眼球がポロリと地面に落ちる。
境内はパニック。足踏み合い蹴倒し罵り合い。石段に鈴生りになっていた見物客は将棋倒しになって崩落。保育官子規が斬りつけた匕首を、桃子発止と受け止め流し。ニッキー団長、印を結んでどろん。硝煙が上がり姿を消す。
境内には悶絶頓死したあしびだけを残して、誰もいなくなる。寂滅の間の数秒後。毒をもって毒を制した四月道化あしび、何事もなかったように立ち上がり、ドン・キホーテで買った玩具の目玉を拾って境内を去る。

 山吹かのか

 ひとには物語(メロディー)力が必要だという。それはお話を作る力。夢、メロディーを紡ぎ綴り、奏でていく力のこと。想像力の一種だけれど、そこには魔力がある。自分自身の物語。たったひとり自分だけがどこまでも自分を信じてやり、妄想狂気にも似た物語る力、メロディーの力だ。わたしは自分の力でメロディーを奏でることに没頭した。「自己主張しない奴は死んでるのと同じだ」と言われた時、わたしは悔し涙で喉を詰まらせ、なんでそんなことをよく知りもしない人に言われなければいけないのか。憤りと共に自分が大切に大事に守ってきた卵の殻に亀裂が入ったような気がした。
そうだ、傷つけなければ卵は割れない。自分をさらけ出し、傷つくのを覚悟で世界に飛び出し、世界を見ようとしなければ、いつまでも卵は卵のまま化石になってしまうだけ。わたしは大いに傷つけられた。そしてわたしは殻を破り、抜け出そうともがきあがき苦しんだ。わたしが見聞きし感じ受け取ったものこそが世界そのもので、それ以外に世界というものはない。知れば知るほど世界は広がり、自分は豊かになっていく。知らなかった自分を発見し、まだ見知らぬ土地と領域に想いを馳せる。
あのひとに傷つけられたことで、わたしは変われた。怖れを知らぬ無知で無恥な常乙女は、勢いと情熱で時代を闊歩し、今では二児の母親だ。青春といえば臭くて面映ゆい死語だけど、わたしはあの頃に出会った三人のこと、タマゴ倶楽部を間違いなく青春だったと言える。

 坂東ウメ

 夜の女に恋は禁物なのでございます。お客様との関係は飽くまでも身体と身体のものにしておいて、心の在り様をどう別のものにしておくかが、春の女のやり方でございます。「こころと身体はひとつ」と簡単に申したりしますが、もしひとつなら、それはケダモノの何物でもございません。言葉と物。理想と現実。実在と現象が同じひとつのものだと言っている世界は、ケダモノの世界に違いないのです。ひとは物に名前を付け、現実ではないもうひとつの夢を見、言葉はひとり歩きして物語を紡ぎ始め、夢遊病者はもうひとつの世界に生きているのです。夜の街にひとり立つ女は、身体という現実ともうひとつの、こころという物語の中を生きている主人公なのです。そこに喜びと意味を見い出しているヒロインなのです。
バンドをやめた理由。嘘と演技をしなくちゃいけなくなったから。夜の女が恋をしたら終わり。相手を傷つける前に、いいえ、自分が傷つく前に消えてしまいたかっただけ。彼がバンドに誘ってくれた時から、哀しい予感はしていたのかもしれません。ひとり娘は美しい女性に成長してくれまして、肩の荷が下りた気持ちでおります。ひとの一生なんて分からないものですけど、ゆきずり慕情はわたしにとって、大人になって来た青春ラブコメディーだったんじゃないでしょうか。そこでは身体もこころも、言葉も物も、理想も現実も、実在も現象も音楽の中にひとつに溶け込んで、物語が綴られていたのでした。それって、すばらしいことよね。

 春王の流離

 春王は追っ手を逃れ、夜も更けた火消し頃、舟で東勝身州を離れる。
保育官子規が艫(とも)で楫(かじ)を操り、みよしには四月道化あしびが座ってあくびをしている。
月もおぼろに白魚の かがりも霞む春の空 冷たい風もほろ酔いに
心持ちよくうかうかと 浮かれ烏のただ三羽 ねぐらへ帰る川端で
棹の雫が濡れ手で粟 思いがけなく手に入る百両
 行く先は遥か地の涯て。南の島ジャンブー=ドゥヴィーパ。

 東雲チキンあきら

 ぼくは解散を阻止しようと四方八方手を尽くしたけれど、ひとり欠けてしまえばあとはもう、箍が外れるようにバラバラになってしまった。ビートルズもまた、永遠に元に戻ることはない。すべてはあの時、あの場所で、あの時代にだけ起こった事だ。ぼくはどうすることもできなかった。マラカスはヤシの実の中で種が虚しく擦過するだけ。生み出された音楽は確かにそこにあった。だけど一秒後には夢のように掻き消え失せる。残るのは、こんなメロディーだったなあという記憶だけ。かのかさんが蕩けるような目で先輩を見ているのを、振るマラカスの間から覗き見た時、ぼくは天国から地獄へ堕ちた悪魔になったけれど、悪魔の踊りを踊ってかのかさんに迷惑をかけたりはしなかった。一緒に先輩のお見舞いに行こうと立花団地を訪ねた時、彼女が急に大人びて見え、年上なんだと改めて気づいて遠い存在になったような、寂しい苦しい気持ちで胸がいっぱいになった。
ぼくにとって青春は光と陰、暗黒と太陽の光の綯い交ぜになった、なんともいえない色をしている。でもそこには虹が架かっているだろう。大人になって振り返る時、未来から過去を振り返り見る瞬間にしか輝かない七色の橋が架かっているのを、それを青春と呼ぶのだろう。

   第二曲ジャンブー=ドゥヴィーパ

 リチェルカーレ

 笹舟が波に揺られ南の島の岸辺に打ち寄せられる。真砂の白浜に底を擦って止まる、と。島から花火が打ち上がり、島の住民がどっと浜辺へ押し寄せてきて、舟の上から春王を担ぎ出し、ひと波の上をわっせわっせと胴上げしながら、群集は王を運んでいく。子規もあしびもあっけに取られて舟に取り残され、はぐれてしまい。春王は大波小波。青海青海波の上を手に手に支えられながら、くるくる回って流れていき、どこへ運ばれていくのか皆目、見当もつかない。全島を挙げてのお祭り騒ぎ。藪入り。頼母子講。謝肉祭。野外祝祭劇。春王、転がってきた御柱に跨がらされてひと波の上を滑り落ちゆき、街の東西に建設された太陽の門と月の門を望見することになる。幾百という御柱が街中に打ち立てられようとしていて、街に一際高く聳え立つ教会の鐘楼に、黄金の聖杯。ジュール・リメ杯がぶら下がっている。
春王、末廣亭の椅子に座らされ、街の目抜き通りをきらびやかな衣装でパレードする、サンバのリズムに合わせたダンスチームに取り囲まれる。超巨大なヘラクレスオオカブトの山車の上で踊る先導者。メストレ・サラを見る。
クレオールのむっちりとした、山のように盛り上がる尻を尻振り。ぷるぷる尻振るイパネマの娘。バラリアの女王。コルコヴァ―ド丘の天使。太陽の瞳に星屑鏤めた銀色のスパンコールが、打楽器隊(バテリーア)のサンバのリズムに合わせて乱反射し、春王の座る椅子が御柱の先に乗せられぐんぐん上昇していく。メストレ・サラの踊りを間近で存分、心ゆくまで堪能する。向日葵の瞳に魅入られ、小麦色の肌に塗られたオリーブ油が夜の照明に妖しく照り映え真夏の熱帯魚。くるくる回るたびにぷるぷる尻振り。春王、幻惑されてクィーンの虜となって。背負った羽根衣(プルス)が後光を放って春王を包み込み、金砂銀沙のアイシャドゥ。へその穿ち穴からセクスィービームが。むちむち尻振り。春王、鼻血をぶっ放して卒倒し、椅子に崩折れる。あとの記憶はない。

 真夜中のスキャット

 一郎と礼子の乗るパッカー車はトンネルを抜けて地下街の定点に向かう。礼子は鼠返しのついたダストボックスからゴミ袋を取り「マチン」の種を蒔く。街の中央に建つ銅像を巡って、たいまつの灯る鈍色のれんが道を出口へと走らせる。

 FIFAワールドカップ綺想曲(カプリッチョ)

 頬を叩かれ気づいた春王の目に、歌手と旗持ち、はぐれた保育官子規と四月道化あしびが心配そうに覗き込んでいる。
護民官リエンツォ 気づかれたか、異国の方よ。
わたしは厳格にして温厚なるニコロ。ローマの解放者にしてイタリアの守護者。全人類の自由、平和、正義の味方なる尊厳なる護民官。ニコロ・リエンツォ・ガブリ―二だ。
見よ ローマ市民の興奮度を。時代は我々市民のものとなったのだ。専横と暴虐を恣にした貴族どもは没落し、民衆の時代。大衆の世界。新たなる夜明けに鶏鳴する有明の新時代の王が君臨するのだ。
見るがいい 狂瀾怒濤の日々。毎日がスペシャルゲストをお迎えしての無礼講。カーニバル三昧に明け暮れ、世界に冠たるローマはここに極まる。
コルトヴァ―ド丘 カピトリーノ丘の鐘を鳴らせ!
王の御出陣である!

コルコヴァ―ド丘 カピトリーノ丘の鐘をはじめ全島の鐘が鳴り渡り、屈強な男たちに担ぎ上げられた王様。エドソン・アランテス・ド・ナシメント。
国民は皆、彼のことを通称ペレと呼ぶ。フットボールの神様ペレが何度もガッツポーズしながら現れる。全国民のボルテージは最高潮に達し、マラカナン・スタジアムに紙吹雪がフラミンゴの群れのように乱れ飛ぶ。
護民官リエンツォ さあ、史上最高の試合が始まる。
全宇宙の照明を灯せ!

護民官が黄金の球と十字架のついた職杖をかざすと、街の明かりという明かりがすべて灯され、教会の鐘楼に吊るされたジュール・リメ杯が四方八方からスポットライトで照らし出される。サンバのリズムに合わせて笛と太鼓とマリンバが、パシスタが躍りイパネマ海岸のひとり娘、バラリアの女王。メストレ・サラが尻振り。疾風怒濤の狂乱痴気騒ぎが巻き起こる。住居の一画の楼台(トリビューン)から、紙やぼろ切れを丸めて靴下に詰めこみ、紐で縛った丸い物体が群集の中へ放り込まれる。
世界はプラネット・フットボール。太陽の門へ蹴り込もうとする者と、月の門へ蹴り込もうとする者との壮絶なゲームと化す。老若男女、有象無象、富貴卑賤の別なくボールは撥ね上がり、転々と転がり、蹴り出され飛んでいく。群集は喚き散らし、大衆はボールへ近づこうと人の上に人を重ね、民衆は死にもの狂いで大移動する。偶然と自由の支配する無秩序なゲームをコントロールしようと、ゲルマンの民族から栄光のリベロ。脱臼した右肩を庇いながらピッチ上に立ち続ける「皇帝」ベッケンバウアーと、「爆撃機」ゲルト・ミュラーがポルチコの陰から現れ、アステカの戦いを戦う。王様ペレは王冠とマントを脱ぎ錫杖を投げ捨てる。青と黄のカナリア色。セレソンの10番をつけて群集の中へ。人波の上を運ばれていくペレと春王が街の中央、噴水の頂きで交錯する。外灯の上を掠めて空へと舞い上がったボールを、フットボール発祥の地ブリタニアの反逆児カントナがカンフーキック。
月の門へと一直線に向かうボールを、コロンビアの守護神レネ・イギータがエビ反りになって踵でもって蹴り出すスコーピオンダイヴ。中庭(パテオ)を転々とするボールが無冠の帝王ロベルト・バッジオに渡り、新将軍ジュヌディエーヌ・ジダンがすぐに奪ってマルセイユルーレット。観衆を沸かせたところに旧将軍プラティニが割って入り、カッとなったジダンは頭突きしてのけ、トリコロールは自滅する。マテラッティは高笑い。ボールはベランダの鉢植えを倒して空飛ぶネーデルランド人ヨハン・クライフのところへ。
アディダスでもプーマでもない、二本線のユニホームに大衆はバカ笑いし、セレソン黄金のクァルテット。ジーコ、ファルカン、ソクラテス、セレーゾがコルコヴァ―ド丘から駆け下りボールを奪いに行く。怪物ロナウドとロマーリオがイパネマ海岸でビーチバレーに夢中になっている間に、ボールはアパートとアパートの間に吊るされた洗濯物の下を飛んで、バルコニーで待っていた三羽鴉ファン・バステン、フリット、ライカ―ルトが奪い合う。三つ巴のくんづほぐれつ、こぼれたボールをテラスで行水していた黒豹エウゼビオが強烈なシュート。太陽の門に網の巣を張り巡らせた黒蜘蛛レフ・ヤシンが完璧なセーブ。交代しろとオリバー・カーンが吠える。民衆の只中へと呑み込まれたボールを、闘牛士ケンペスが長髪を靡かせて追いかけ、金髪の悪魔デニス・ローがカテナチオをこじ開けようといじくり回し、裏庭に転がってきたボールをアルビオン、ハーストが思い切りよくミドルシュート。
ボールは月の門めがけて飛び、クロスバーを叩いて垂直に落下。
ゴールか 線上ノーゴールか。アルビオン国民と西ゲルマン国民が「入った入ってない」で永遠に口論し続けている間に、アズーリ、パオロ・ロッシとデル・ピエロがカピトリーノ丘から駆け下り、群集がブリタニア主将ベッカムを「愚か者」呼ばわりすると、ベッカムは観客にカントナカンフーキックをお見舞い。即退場となる。「おれは一度もカードをもらったことがない」と嘯くリネカーは金のためにJリーグ名古屋グランパスでプレイし、噴水の周りを巡ったボールは、悪魔の左足持つロべカルに渡る。人も殺せる殺人ボールが春王の頭を掠め、神の手によって神の子となったアルゼンチンの至宝ナポリの王様マラドーナに渡る。左足だけでアルビオンの守備陣営をひとり、ふたり、3人、4人、5人抜いてシュート。そのまま月の門へ入るかと思われたボールを、南葛FC11番岬太郎くんが右足を伸ばして弾き、岬くんはそのままゴールポストへ激突。ボールは大きく撥ね返って太陽の門前。ゴールデンコンビを組む10番王様ペレと大空翼くんのもとへ。翼くんはドライヴシュートと見せかけて、スライディングに来たポルトガルの英雄Cロナウドをフェイントでかわし、中央へ走り込んでいた王様ペレへとラストパス。守備をさぼるバロンドール8回リオネル・メッシ。飛び出してきた黒蜘蛛ヤシンを見て、王様はボールをそのままスルー。驚いたヤシンの前をボールはすり抜けて誰もいない右のスペースへと。ボールに追いついたペレがシュート。
吠えるカーンの声も空しく、ボールは太陽の門内へ。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォ――――――――ル
 
国民は歓喜と熱狂の渦に灼かれて踊り上がる。泡を吹いて卒倒する者。抱き合って涙する者。殴り合って仲良くなる者。神に祈って感謝する者。笛と太鼓とマリンバが天上まで木霊し、紙吹雪舞い散る街の大通りを春王は人波の上、どこまでも運ばれ、護民官リエンツォが三つの大軍旗、女神ローマが両手に棕櫚と球を持ち二頭の獅子の上に座る「自由の旗」剣を抜いた聖パウロの「正義の旗」聖ペテロが協和と平和なるふたつの鍵を持つ「平和の旗」を掲げ行進する。フラミンゴ舞い飛ぶコルトヴァ―ド丘のキリスト像が祝福のサンバを踊り、マラカナンにしてウェンブリー、カンプノウスタジアム、全土全戸の照明が落ちる。カピトリーノ丘の金鐘楼に現れるダンシングクィ―ン。バラリアの女王にして先導者メストレ・サラが、ぶら下がるジュール・リメ杯を盗んで、警察犬ピクルスに吠えられながら南の島から姿を消す。混沌と狂乱の一夜が明け、群集が鐘楼を見上げるとジュール・リメ杯がない。国民は意気消沈し、護民官リエンツォを犠牲山羊(スケープゴート)にして八つ裂きにしてしまう。王様ペレは剣の背で春王の肩を叩いて騎士に馭(ぎょ)し、聖杯の探求(グラール・クエスト)へと旅立たせる。
 舟の艫に子規が楫を操り、みよしには四月道化あしびがあぐらを掻いてあくびし、騎士春王は聖杯を求める遍歴修行の旅へ。

 祭りのあと

 パッカー車はへちゃげたトマトで家の壁も路上も赤く爛れた街の石畳の上を走り夜明け前、近づく暁光までにトマトの残り滓で作られた王様像を回収していく。散乱する紙吹雪とトマトと旗の切れはしが街全体を掃き溜めにし、ぬかるみにタイヤを取られたパッカー車を、一郎がアクセルを踏み続け礼子は後ろから押す。斑に続くおびただしいトマトの腐臭で時が止まったままの街並みを、パッカー車が縫うようにして走る。

   第三曲開かれた言語の扉

 西牛貨州

 ルフィヌスは持ち前の弁舌の巧みさで法律家として成功し、正当な手続きを踏んで官房長官の地位まで昇り詰める。歩兵隊総司令プロモトゥスは競敵ルフィヌスの悪辣非道な人柄、巧言令色の佞臣ぶりを軽蔑の目で見下していたが、ある会議の席上において、とうとう堪忍袋の緒を切らした将軍は、腹に据えかねるルフィヌスのあまりの驕慢さ、厚顔無恥に思わずカッとなって平手打ちをくらわせた。この暴行は「自分の権威からも見過ごしならぬ最大の恥辱侮辱である」と、ルフィヌスは帝に上申し、プロモトゥスは解職・追放。ルフィヌスは復讐心を大いに満足させたのだった。さらに権力の拡大を図ろうと、西方民政総督とコンスタンティノポリス首都長官という二つの要職に就いているタティアヌスとその息子プロクルスを、汚職と収賄の容疑で告発し、皇帝が特別に召集した弾劾裁判の裁判長はルフィヌス自身だった。
父親は地下牢に投ぜられ、息子は逃亡。ルフィヌスは厳粛公正な裁判の保証と、皇帝自身の名を持ち出した誓約とで父親を説得し、それを信じたタティアヌスは息子に親書を書いて呼び戻すと、逃亡者プロクルスはすぐさま逮捕、投獄、拷問、断罪され、ルフィヌスはタティアヌスに息子の処刑に立ち会うように強制した。こうしてルフィヌスは西方民政総督という地位を得る。
 皇帝が死ぬと、新帝はまだひ弱な若者であることをよいことに、ルフィヌスは西方帝国のあらゆる富を強制的租税、言語道断な買収、法外な罰金、不当な没収、強制したあるいは捏造した遺言書で引き寄せる。莫大な財産を築いたルフィヌスは、娘を青年皇帝に娶わせ、さらに権力欲と名声欲を恣にしようと画策する。しかし君側の奸である侍従長エウトロピウスは、皇帝がルフィヌスの娘を愛する気持ちなど毛頭なく、この娘が帝の承諾なしに妃の候補に選ばれたことを知ると、プロモトゥスの子息の家庭に保護されていた異国の女メストレ・サラを代わりに擁立しようと謀る。青年皇帝は先導者メストレ・サラの魅力を讃える侍従長の巧みな快い言葉に熱心に耳を傾け、その絵姿にもだし難い欲情の眼差しで見入った。我が意中の愛情のことは、朕の幸福の完成を妨げようと熱中している官房長官には決して知られてはならない、隠しておくのが賢明であると、こういうことだけは素早く理解した。
 まもなく、皇帝の婚儀が間近である旨が市民に告知され、何も知らない市民らは、ルフィヌスの娘の幸福を祝う準備に取り掛かる。宦官、役人らの目も文な行列が、婚礼の善美を尽くして宮廷の門から出御し、未来の帝妃のための冠、衣装、高貴な装飾品等が高々と捧持されている。厳粛な行列は花環で飾られた見物人でいっぱいの街路を通り過ぎて、プロモトゥスの子息の家に達する。宦官の長はうやうやしく邸内に入り、待っていたメストレ・サラに帝妃の衣装を着せたかと思うと、そのまま彼女を案内し宮廷へ。青年皇帝の待つ閨房へと導く。してやったりの侍従長エウトロピウスにまんまといっぱい謀られ、出し抜かれたルフィヌスは、憤怒と憎悪の煮え滾る熱湯風呂に首までどっぷり浸かってとち狂った。
娘はいたく傷つけられておかしくなり、父は連綿と連なる万世一系に自分も繋がることができると悦に入っていたその矢先に異国の娘、それも我が宿敵の家で匿われていた娘が、皇帝の閨房に招じ入れられたのを見たのであるから。ルフィヌスは復讐王の鬼と化し、エウトロピウスをつけ狙った。

 コメニウスの「世界図絵」

 春王以下子規、あしびが聖杯を求めて上陸した島「西牛貨州」の峠茶屋で、お団子と渋茶を喫しひと休みしていると、隣りの床几に腰掛けていた雲水が、片肌脱いで背中の唐句麗々を見せ声を荒げている。茶屋の主人は気丈に一歩も退かずに「これじゃガキの使いの駄賃にもなりゃしない。お客さん、これは困ります」と頑張っている。春王、ちょいと気を利かして懐から幾らか金を出し「これでいいかい」と床几の上に置いてみせたが、店の主人も雲水もその金を見て狐に抓まれたような顔をしている。そのまま口論を続けるので、この島では金が流通していないのかと思っていると、向こうから指差す一言神人形を戴いた指南車に乗る隠密同心が、岡っ引き目明しを先走らせて現れる。岡っ引きが雲水に「言表」を見せるよう命じ、岡っ引きは受け取った「言表」を十手に搦めて同心に差し出す。二束三文の価とされ、あと八文足りぬとなって雲水には3時間の皿洗いが命ぜられる。指南車の指差す一言神人形が回り、隠密同心とその一味は次なる評定の場を目指して走る。
茶屋の主人がこの島の価値体系を教えてくれた。「言語」が交換価値、兌換銀行券として流通し「言葉」は金、「物語」は宝なのだと。文字一文字が価千金になることもあり、十万字費やしても駄作は紙屑同然、一銭の価値もない。この島では一流の俳諧師。歌人。書家。物語師。数学者。戯作者。桂冠詩人。吟遊詩人。百科全書派がこよなく尊敬と崇拝を受けており、「言語」を持たない者は、一文無しの素寒貧。すってんてんなのだった。「言語」が価値を生ずるようになるには、文才と知識、素養と勉強が必要であり、独創的で普遍的な「言語」はもっとも価値高く、造語・新語を作る者、新しい数式、法則を発見しようとする者は後を絶たない。永遠不変のラテン語のモットーが立派な価値基準となっている。一攫千金(ゴールドラッシュ)を求めて古典文献を漁る者。図書館に日参する山師。宝くじに当たると誰も読んだことのない驚異の書物を手に入れることができ一生、食うに困らない生活ができる。たわ言。駄文。駄作。へぼ俳句はまったく通用しない。慣用句。ことわざ。名台詞。流行語。フローベールの紋切り型辞典に載る「言語」はまったくの価値ナシ。警句(アフォリズム)。スローガン。四文字熟語を連発して価値に価値を付け加え、余剰価値を出すことはできない。象形文字(ヒエログリフ)。ルーン文字。線文字β。ナスカの地上絵を読み解く者。暗号解読者。万物理論発見者。大いなる書物を読む者は偉大なり。
「言語」の価に折り合いがつかない場合、その価値が分からない場合は、指南車に一言神人形を戴く隠密同心が駆け付けて来て、その価を指南評定する。同心にも分からない場合は上の与力へ。与力にも分からない場合はさらに上の町奉行のお白洲でお裁きを受け、それでも駄目なら老中へと回される。
 春王は団子とお茶の価をどう払うか、はたと困ってしまった。書道二級の四月道化あしびが硯に墨を擦って、半紙に゛忍耐゛の二文字を書いて出したが一文にもならず、春王がE=mc²の「言表」を提出したが、茶屋の主人に子供でも知ってると鼻で笑われ、三人一緒にお茶屋で売り子として働かなければいけないかと思われた時、子規が芭蕉の句を思い出して、それでお団子と渋茶の価を賄うことができたのだった。
 ほろほろと山吹散るか滝の音

 林檎園

 白い花咲く林檎園の中、ジュール・リメ杯を持った娘が善悪を知るの木の下、雨宿りしている。木の上から杯持つ娘の手をむんづと捕える者。
泥眼工作員さくら その杯を渡してもらおうか。
若女リオさくら それはできぬ相談。
泥眼さくら 命が惜しくないと見える。
若女さくら そっちこそ。あちきが何者か知りもしないで巫山戯(ふざけ)た口をきく。
泥眼さくら では名を訊こう。
若女さくら 名乗るのであればまず訊く方からが筋というもの。
泥眼 それもそうだ。ポラリスの国、冬の女王配下の者。北から南下する流氷に乗って来た泥眼工作員さくら。
若女 閻浮檀金の川流れる南の島、ジャンブ―=ドゥヴィーパのダンスクイーン。バテリアの女王にして先導者メストレ・サラ。若女リオさくら。
泥眼 同じ名もなにかの縁。
若女 ここで死んでもいつかは遇わん。いざ勝負。
増DOTMAさくら 待て待て 待たれい!
泥眼・若女 何奴⁉
増さくら 木陰で名乗りを聞いていた。わらわも同じ名を持つ者。西牛貨州を彷徨う夢遊病者。帝に疎まれた増DOTMAさくら。
若女 なんと奇遇な。
泥眼 作りごとめいた偶然。
増 林檎の木の下雨宿りする三人。袖触り合う他生の縁。ここで義姉妹の契りを交わし
若女 杯に林檎酒(シードル)を酌み交わし
泥眼 勝利の美酒に酔うこのひと時
増 月の輪に心を懸けし夕べより
若女 よろずのことを夢と見るかな
泥眼 杯に林檎酒を酌み交わし
増 勝利の美酒に酔うこのひと時
若女 夢と見るかな
増・泥眼 夢と見るかな

 パールライジング・ロード

 運転席に日出子。助手席に月読を乗せたパッカー車は、自由度の高い言海の上をパールライジング・ロードで渡り、ゴミ袋を回収していく。

 春王は言海図書館で毛沢東語録を繙き、余白に感想を記している。
ひとの物語。歴史はつねに主観の中にある。それを信じ、共感し、期待し、行動した。その時代、状況、情勢の真っ只中に否応なしに引きずり込まれていく。客観的な事実などどこにもない。未来のひとが過去の歴史をうんぬんする客観的事実さえ、時代の変遷と共に解釈が移り変わり、歴史的位置づけが変化していく。未来人が今の視点、思想、ものの価値感で過去の意味を歪め撓め、未来臭を歴史にこびり付かせる。過去は神話、伝説、物語にしか残らず、歴史は永遠に微笑んだまま眠り続ける。

歴史は鏡となって未来人、現代の自分自身を映し出している。自然はひとを映す鏡となって、そこに人類自身を見ている。子供は大人の鏡であり、部屋は自分自身の鏡。

 春王の隣りのブースで勉強していた増DOTMAさくらは、大学ノートにこんなことを書き留めている。
嘘の中に生きる動物。見えないものを信じる宗教に慰めと安らぎ、幸福を求める。貨幣経済はその期待値、夢。株はまだまだ上がる、景気はだんだん良くなるというみんなの予感、共感。価値の創出の中に経済は回る。

芸術は見えないものを想像し、創造し、構築する作品。
文字と言葉。記号は見えないものを見えるように表現する道具。
経済。政治。宗教。道徳。芸術。嘘を取り去った世界に残るのは、食べることと繁殖することのみの獣そのもの。

脳を極限まで発達させようとしたひとは嘘の中、想像の中、虚構に生きる動物。現実は想像に呑み込まれ、虚構が現実を支配する。

社会・世界の中に自分を疎外し、仮面を着けて生きる。仮面を外したあるがままの自分はケダモノである。

現生の煩悩。欲望を捨て去り、神に帰依して死を贖った者。悟りを開いた者。彼岸へ渡った者。涅槃(ニルヴァーナ)へと至った者。かれらは想像の中の生を選んだ者たち。死は想像の産物である。

人間世界。社会構造はひとの頭、手によってオブラート(幻想)に包まれた現実。オブラートの溶けた現実はケダモノの生活。

わたし達の見ている現実そのもの。今ここのすべてが嘘と虚構に満たされた幻想の世界。夢の社会構造を持っている。物語に喰らい尽されたひと。

神が死んだ時ひともまた死に、物語(開かれた言語の扉)だけが残る。

現実の見方。ものの捉え方。思考。想像。夢の見方。物語力次第でこの現実、社会生活を天国・パラダイスとすることができないか。

絶対肯定された現実はパラダイスである。

物語は何度でも甦り、開かれた言語の扉の向こうには自由席のある新幹線がすべり込んできて、窓側の席には自由度の高い言海が広がる。

 春王は増さくらにノートを見せてもらい、世界の環(ヘイムスクリングラ)を理解した。

 消失点Point de fuite

下座音楽 タマゴ俱楽部 雁鳴く秋の十六夜の 便りは帰るあてもなし
待てど暮らせど十六夜の 月冴え渡る故郷には 遠い昔の物語
(蕪村)月天心貧しき町を通りけり 通りけり

侍従長エウトロピウスの家に身を寄せた春王とその他ふたりは、月を眺めて酒酌み交わす。四月道化あしびは影と共に踊り、保育官子規は異国の地で見る変わらぬ月にひとり涙し、袖衣の色が変わる。
楽の音もいつしか絶えて、虫の音寂しき丑三つ。

タマゴ俱楽部 ボォォォンと寺の鐘物凄く
(蕪村)月今宵あるじの翁舞い出でよ 舞い出でよ

官房長官ルフィヌス、復讐の鬼となってエウトロピウスの家に忍び入り、主人と誤って春王を殺害。見ていたのは真如の月 まさらに青いささら愛壮士。ルフィヌスは間違えに気づかず、月影のワルツを歌いながら遠回りして帰る。

タマゴ俱楽部 てにをはの 言の葉散る 言の葉守の杜の神
散る散る満ちる 十六夜の 月影のワルツを翁舞い出でる 舞い出でる

春王殺しのルフィヌス。家の床下で泥眼工作員さくらと鉢合わせる。ルフィヌスは鼠になって逃げ、泥眼さくらは鉄扇で丁と搏つ。鼠は切穴に飛び込んで硝煙がぱっと立つ。姿はない。

タマゴ倶楽部 てにをはの たらちねの 言の葉散る
散り散り舞い 散り散り舞い 月今宵あるじの翁舞い出でよ 舞い出でよ

花道すっぽんからセリ上がったルフィヌスが仮面を取る。ニッキー団長の眉間に疵がひとつ。笑いながら揚幕に入る。

 春王の舟葬

 四月道化あしびが春王の遺体に取りすがって泣く。本物の死はこのように悲しいものかと慟哭する。子規は春王を舟に乗せ、楫を操り海に出る。増DOTMAさくらが舟の見えなくなるまで見送る。
(蕪村)目前をむかしに見する時雨哉
(芭蕉)いざ行かん雪見にころぶところまで

 第四曲ノーザン・オーロラ・ミュージック

春の花紅にほふ桃の花 下照る道に出で立つ娘子 大伴家持

 北瞿盧州に来た桃子はフレデグンドと名を変え、王妃付きの召使いから身を起こして王の愛人となり、最初の王妃を離縁させ、次の王妃を暗殺。自らその後釜に座る。最後に王自身に謎の死を遂げさせて、権力を我が手にする。唯一の敵対勢力だった大司教を祭壇前で暗殺、国内外に工作員を放つ。
西牛貨州に渡った兄の事もいい加減鼻について、どうしようかと迷っている。

 陸亀の化石

 ゴミひとつない砂漠の上を、エボニーとアイボリーの乗ったパッカー車はひた走っている。丘陵を越えて、風化した奇岩(ヤルダン)の間に陸亀を見る。近づいていくとタマリスクのそばに引っくり返った舟と、布に包まれた遺体を守る女、せむしの男が座っている。ボンネットの上に乗せた遺体のそばに付き添う女、せむしの男はシートカバーを下ろした投入口に立って、しあわせの歌を唄う。エボニーの運転するパッカー車は夢の島へ、パンクしないように慎重に走らせる。

 パジャマ会談

 泥眼工作員さくらは冬の女王への報告のため、帰国を急いでいた。とある大衆食堂で日替わり定食のカキフライを食べながら見ていたテレビジョンに、春王暗殺の国際的な非難に対してポラリスの国、冬の女王フレデグンドが公式声明を発表していた。
「泥眼さくらという女性はポラリス国に存在しない。」
密かに食堂を出た泥眼さくらは、電気街の闇市で中古の携帯電話を購入し、地方のビジネスホテルに宿泊。ロビーのジコジコピンク電話から増DOTMAに、携帯で若女リオに掛け、それぞれ左右の耳に当てて待つ。椿説弓張月を読みながら眠れぬ夜を過ごしていた増さくらは、バイヴする携帯を取ると、泥眼さくらから「今すぐに家の固定電話から若女リオに掛けて」と言ってきた。警察犬ピクルスを撒こうと、ペット不可の喫茶店に入りナポリタンとモンブランを頼んだ若女さくらは、携帯が鳴ると同時にカウンターのそばで受話器を取っている店員に呼び出される。
泥眼工作員 何がどうなってるのか。
増DOTMA 落ち着いて。
若女リオ わたしにもよく分からないんだけど。
三位一体(トリニティ)三つ巴ざくらとなって繋がる。
北瞿盧州の湖マナサロワールのほとり、実の成らぬ柿の木の下で会うことにする。

 泥眼工作員さくら、真実を知る

 泥眼さくらは女王様絶対の思想の下で教育を受けた。ポラリス国。フレデグンド様のためならどんなことでも正しい。美しい。真実だと確信していた。ひとの命を殺めること。己れの命を犠牲にすることでも。お国のため、フレデグンド様のためなら名誉ある、誇り高き美しき生、そして死。冬の国は美しき神の御国であり、フレデグンド様は神の御使い。侵すべからざるもの。絶対肯定される者。それを犯そうとする者は何人たりとも排除されねばならない。美しき神の御島を守るため、われわれは最後のひとりとなるまで戦い続けなければいけない。生きて恥を残さず、死して国の誉れとなれと教育された泥眼さくらは、真実を知る。
工作員は国の道具であり、その命の存在さえ許されないこと。厳しい訓練に耐え、危険な任務を果たす意味も、すべては無いものにされてしまうこと。暗殺しようとしていた春王に、増DOTMAが恋していたこと。ポラリスの他にも美しい国があること。それぞれの国が各自の思想と文化、風土と道徳、叡智と観念を持ち、互いに違いを認識し合いながら、補い合って生きていること。排除しようとする者は、排除されてしまうこと。ひとの命を粗末にする国家は、滅びざるを得ないこと。すべてを増DOTMAは話してくれた。泥眼さくらは泣いた。声を上げて。若女リオはジュール・リメ杯に泥眼の涙を受け、それを飲み干した。
 ポラリス国。冬の女王フレデグンドは工作員の存在を抹殺するため刺客を放ち、西牛貨州の侍従長エウトロピウスはルフィヌスの娘、増DOTMAを父親殺しとして告発。若女リオは警察犬ピクルスにひたひたと追われた。

 三人ざくらのワルキューレたちは湖上を渡り、カイラス山を目指した。三千大千世界の中心にある万年雪を頂く聖なる山だ。湖上には東から一列に並んだ鰐の上を、因幡の白兎が数えて渡る。南西から猿王ハヌーマット率いる猿たちが、ラーマーヤナを渡そうと橋を作る。西から一言神が岩橋を架けようと夜だけ働く。北から鵲(かささぎ)が織女と彦星のために橋を作る。
七色のカーテンが夜空を動き、霧が晴れて野守の鏡の湖面に雪を頂くカイラス山がくっきりと映り込む。

 夢の島

 夢の島行きのパッカー車に遺体を乗せて、子規とあしびはしあわせの歌を唄う。そこは記憶の城ヴァルハラ。ごみ塵屑芥は宇宙へと記憶を返還し、永劫の歓喜を歌う。夢の島は言葉に満ち、物語が歌われはじめる。

 無窮カノン 惑星ポラリス

下座音楽 ヒヨコ俱楽部 四季折々の音色を奏で 東西南北、島を見立てて
湖面を渡る月はさやけく 澄み澄み渡る
住吉(すみのえ)の 死出の山路にふりさけ見れば真白にぞ 来た村里に春雨や降る 春雨や

三人さくらは刺客に追われ、指名手配され、ピクルスに嗅ぎつけられて雪山を登る。

ヒヨコ倶楽部 (小町)面影の変わらで年の積もれかし たとひ命は限りありとも 限りありとも
言の葉の 手にを葉集め 散り散りの
一言主の神は神直毘(かむなび) 八千鉾の 八十島の 八十の衢の三常処女

夢の島の埋め立て地に到着したパッカー車から春王の遺体を降ろし、ゴミの山に設えた祭壇の上で荼毘に付す。

ヒヨコ倶楽部 金春や 金春 目醒めませ 金春
金春王の世界の環 目醒めませ 金春

霏霏と降る雪の山に犬の遠吠え、呼び子の笛が鳴り渡り、山裾に御用提灯の火が見える。

ヒヨコ倶楽部 (定家)春の夜の夢の浮橋とだえして 峰に別るる横雲の空
横雲の 空に降る雪絶えずして
三千大千世界の頂き 常世の長鳴き鶏が鳴く
金春王に春が来る 夏来にけらし白妙の富士 紅葉に染まる夕月夜
燃ゆる思ひに胸を痛めて 胸痛めて
コルコヴァ―ド丘 カピトリーノ丘の鐘が鳴る 鐘が鳴る

泥眼工作員さくら。増DOTMAさくら。若女リオさくら。三人ざくらのワルキューレはカイラス山の頂き。ポラリス輝くヴァルハラの宮殿に辿り着き、ジュール・リメ杯に雪を溶かして酌み交わし 酌み交わし
三人ざくらの花吹き散らし、三人刺し違える。

常世の長鳴き鶏 目醒めませ 金春 金春
金春王のヘイムスクリングラ ここに環を閉じて終わる
目醒めませ 金春 金春


須弥山頂善見城で眠る帝釈天、制多迦童子に足腰を叩かせ見る夢に、魂が口から出そうになって、慌てて捕え口へ押し込む。咽や胸の辺りが切り裂くように苦しく、吉祥天女が大騒ぎして湯など与え、スジャータ妃が「どうなされたのですか」と訊く。
「いやな夢を見た。制多迦はどうしたのだ。主人がこんなに苦しんでいるのに」
童子は次の間で泣いていた。訳を訊ねると
「帝釈天様が眠ってしまわれましたので、矜羯羅(こんがら)童子からもらった南京鼠を取り出して遊んでいましたところ、天使様の枕元へ鼠が行ったかと思うと、旦那様は無慈悲にも捕え呑み込んでしまいましたので、泣いているのです。」

                             完




 

 


 

 

 


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