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実録:COVID-19流行下での妊娠・出産(産科通院編)

COVID-19が国内で流行しはじめて、早や半年以上。それまでの日常は形を変えたり姿を消したりして、誰もがさまざまな場面でそれまでとは異なる振舞いをせざるを得なくなっている。妊産婦とてその例外ではない。私は2020年7月に出産した。COVID-19下の妊産婦生活が、実際にどのようなものだったか、記録のためにここに書いておきたいと思う。

私の妊産婦生活は、妊娠中期をほぼ緊急事態宣言下で過ごし、妊娠35週で妊娠高血圧症候群となり管理入院、妊娠37週で緊急帝王切開で出産、生まれた子どもは先天性の病気で1ヵ月NICU/GCUに入院するという経過をたどった。長くなるので、この実録は、子どもを授かってから産科に入院するまでの「産科通院編」、入院してから出産するまでの「産科入院編」、子どもがNICU/GCUに入院していた頃の「NICU編」の3部に分けることにしたい。

本編に入る前に、何にもさきがけて、病院でお世話になった産婦人科・小児科の先生方、そして看護師・助産師をはじめとしたスタッフの皆さんへの感謝の気持ちについて書いておきたい。子どもと私の2人が互いに生きて顔を見ることができ、家へ帰ることができたのは、ひとえに医療者の皆さんのおかげです。感染症流行のなか、丁寧に対応していただいて本当に助かりました。ありがとうございました。感謝の気持ちでいっぱいです。

同じような状況のなか、現場で頑張ってこられた全国の医療者の皆さんにも、尊敬の念を禁じ得ません。どうぞお体大切に、ご自愛くださいますように。

2019年末から2020年の年明け:流行の兆し

子どもを授かったことが確定したのは昨年12月だった。いつも通っている婦人科のクリニックではお産を扱っていなかったので、私はどこでお産をするかを考えねばならず、いろいろ検討した結果、某大学病院で出産しようと決めた。主な理由は、20代の頃にその病院で婦人科疾患の手術を受けたことがあり、当時の電子カルテが丸ごと残っているからだった。私はその時点では38歳という年齢以外にはとくに問題のない妊婦だったので、わざわざ大学病院にお世話になっていいものだろうか、とも思ったのだが、クリニックの先生に「それは構わないんですよ」と言って頂いたこともあり、紹介状を書いてもらったのだった(結果的には、私自身は妊娠高血圧症候群、子どもは先天性高インスリン血症でそれぞれ入院となったので、大学病院を選択したことは幸か不幸か功を奏した)。12月末あたりに母子手帳をもらったあと、紹介状を持って、年明けに大学病院に診察を受けに行った。

最初に中国で肺炎が流行っていることを耳にしたのは、この年末年始ごろだったと思う。自分が妊婦だったこと、夫が中国をフィールドとした研究をしてきたことなどもあり、疾病関係のニュースや中国関係のニュースにはいつも注目していた。年明けには、中国武漢での新型肺炎関連報道(当時はまだそういう言い方をしていた)を注視していた記憶がある。世間よりも一足早い注目だったかもしれない。

1月末には、中国貴州省に住む夫の友人から「マスクを送ってほしい」という依頼がきた。当時マスクはもはや中国国内ではまったく手に入らなくなっていたからだった。私と夫は協力してマスクを買い求め、貴州に送った。この頃、日本国内にはまだ海外からの旅行者がいて、とくに中国人旅行者たちは日本の薬局でマスクを求めて列をなし、そのせいもあってかマスクや消毒薬はだんだんと品薄になりつつあった。このとき、われわれは自分たちのためにもマスクと手指消毒薬を買い求めた。2月になるとマスクも消毒薬もほとんど手に入らなくなったので、このときの買い物には後でとても助けられた。

2020年2月:高まる緊張感

妊婦向けの母親教室・両親教室やイベントは、だいたい安定期に入った頃から参加しはじめるようなスケジュールで組まれている。私が案内された各種イベントは、いちばん早いもので2月開催だった。市や病院、NPOなどが主催する両親教室やイベントは、2月半ばまではそれまで通り開催されていた。私は、2月中旬に開催された子どもの事故防止関連の講習会に参加した。参加人数は5人ほどのこじんまりしたもので、手指消毒剤が置かれ、全員がマスクしていたけれども、それ以外は通常通りの開催だった記憶がある。私が参加した妊婦向けのイベントは、結局これが最初で最後になった。

妊娠中期に入った2月半ば頃からCOVID-19が国内で拡大しはじめて緊張感が高まり、2月末には小中高校が全国休校となった。そうして、ありとあらゆる妊婦向けのイベントがすべて中止となった。両親教室は、出産に至るまでついに一度も開催されなかった。COVID-19流行下では、人が集まること自体がリスクであり、妊婦を集めるのは論外という判断だったのだろうと思う。ジムやヨガ教室などもほぼ全てが営業を自粛していて、マタニティヨガなどにも一度も参加することはなかった。確かに両親教室は不要とはいわないものの不急だったし、ジムやヨガは相対的に不要不急だった。妊婦向け雑誌やウェブサイトには、安定期に入ったら今のうちにお出かけを楽しみましょうとか、小旅行に行きました!という体験談とか、夫と外食に行くとか、友達に会うとか、色々と楽しげなエピソードが踊っていたけれども、そういったことは一切何もできなかった。ただし、こういったことが「できない」状況なのは全国(全世界)の人も同じで、自分たちだけではなかった。諦めもつくというものだった。それよりも、COVID-19にかかって重症化し、おなかの子どもに何事かが起こったらどうしよう、と思うほうが怖かった。

3月~5月:流行の拡大

3月半ばに受けた妊娠21週での妊婦検診の頃には、お世話になっていた大学病院でマスクが不足していることが全国的に報道された。しかし、この頃にはまだ雰囲気は落ち着いていた。医療スタッフはもちろん、患者も付添者も皆マスクを着用していたが、付添者が診察室に入ることはできた。しかし、3月30日の週からは、診察室への付き添いが一切禁止になった。夫は妊婦検診に付き添って、おなかの子どもの超音波画像を実際に見るのを楽しみにしていたが、付き添いが禁止になったので、医師の話を聞くことも、子どもの画像を直接見ることもできなくなった。4Dエコーをとってくれた医師が「世知辛いですが」と何度も仰っていたのを記憶している。夫が妊婦検診に付き添ったのは、1月に受けた検診と2月に受けた検診の2回きりとなった。 

私は妊娠前からフラメンコを習っていて、自宅から徒歩で行ける距離のスタジオに通っていた。3月一杯までは、出来る範囲で体を動かしたくて、妊婦ながら可能なかぎりレッスンに行っていた。比較的少人数のクラスだったし、この頃には来る人が少なくて、結果的に個人レッスンになってしまったときも何度もあったほどだったので。それは日用品の買い物を除く、数少ない外出機会だった。しかし、4月になって緊急事態宣言が発令されてからはレッスンもなくなり、いよいよ外出しなくなった。もともと車は持っていなかったし、妊娠してからは自転車に乗ることも控えていたうえ、感染機会を減らすため公共交通機関すら使わないようにしたため、行動は徒歩で行ける範囲だけになった。通勤もなくなった。担当している大学の授業がすべて遠隔になったからだ。実家にも一切帰らず、高齢の祖父母に会いに行くことはもちろんせず、人との接触を考えうるかぎり減らした。体を動かすことといえば、家から行ける範囲内での散歩と、室内での筋トレだけ。あまりにも運動量が減り、このまま体力が落ちてしまうと出産に耐えられないのではないかと不安になり、体力を落とさないことに必死だった。できるだけ人の少ない道を選んで、マスクをして、人に会わないように歩いた。良かったことといえば、基本的にずっと家にいるので、体が少しでも疲れたらすぐに横になれることだったかもしれない。

4月以降は、妊婦検診が間引きになった。妊婦検診は本来、妊娠23週までは4週間に一度、それ以降は妊娠35週まで2週間に一度の頻度で行われる。しかし、この頃から、それまでの経過に問題のなかった妊婦については検診を間引き、2週間に1度のところを3週間に1度程度にするようになった。病院に来る頻度を減らすためである。妊娠糖尿病検査のための経口ブドウ糖負荷試験も無しになった。この試験では、病院で待機する時間が1時間を超える。病院で長時間過ごすことを避けるため、それまでの検診で血糖値に問題のなかった妊婦に試験は行わないということになったのだった。妊婦検診の受診券の何枚かは、使われずに溜まっていった。

私の住んでいる京都は、この頃には観光客が激減して空っぽになっていた。溢れかえる外国人観光客は皆無となり、国内観光客も消え、住んでいる人も外出自粛をしているので、通りには本当に人影がなく、がらんどうだった。

時折、夫と一緒に長めの散歩に出た。5月上旬の某日には、自宅から清水坂まで歩いて往復した。清水坂で店をあけていた土産物屋は1軒だけだった。産寧坂も、清水寺の山門も空っぽで静かだった。

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清水寺では、それでも拝観を受け付けていたので、拝観料を払って中に入ってみた。ほとんど誰もいなかった。カエデの新緑の盛り、午前11時の風景。

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無人の舞台。これはもう一生見られないのではないかというような、ある意味では絶景だった。境内ではほとんど誰の声も聞こえず、鳥が鳴いていて、さやさやと爽やかな風が吹いていた。

これが妊娠中期の終わりごろ。いわゆる安定期をほとんどまるまる外出自粛の中で過ごしたことになる。母親教室・両親教室・イベントが一切なく、検診も間引きになって、お産のことや産後の生活のことを誰かに直接尋ねる機会がほとんどないまま、自宅で過ごす妊婦生活だった。情報源はインターネットや育児本だけ。産休に入るまであと数週間だった。

「産科入院編」に続く

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