神やどる山を視る
【記録◆2024年4月2日】
4ヶ月前に見つけられなかった場所を、探しに行きました。
「まだ命が続くのなら、いま居る所の向こう側で見つけたい。新緑の季節が再び巡ってきたときに」と記していたけれど、芽吹きの時を待たずに。
冬の前に探したのは、19年前に、かろうじて辿り着いた坂道の果て。
子どもたちが向かいの山へ駈けていくのを見送るしかできなくて、
「まだ、いっしょに駈けたい。脚の治療をしよう」と決めた場所でした。
記憶にあるのは、自分が立っている小さな丘。そこだけ樹がなく、土には枕木が打ちつけられています。右に柵があったはず(そこに両手で摑まり、前へ出なくなった脚を右へ出して、一歩ずつ丘から下りたのでした)。
丘の左から、谷に架かる橋のように、尾根伝いの細い道が続いています。
その先では山が、こちら側の斜面の全てで真昼の光を受けているのです。
子どもたちの姿が小さくなっていく。
山に行き着くと、そのまま左側を巡るようにして向こう側へ消えました。
わたしは、光を含んだ風に取り巻かれて丘に立っています。
あの子たちと同じ年の頃には誰よりも速く走れたのに、いまはいっしょに走れない。
そのことを19年前には、諦めてしまえなかったのでした。
(数えきれない障害を負った経緯は、以下の記事に書いています。)
上記の記事を書いた後(昨夏)、きれいに治っていた手の甲から肘までが再び樹皮のようになりました。前回は13年前です。「医療過誤で入れられた毒の排出が加速した」と考え、「一昨年からの別の病変」とともに放置。
脚の皮膚が壊死して溶岩のように流れ去る、という症状はなかったので、「同様の事が今回は体内でも起きて、一連の病状になっているのだろう」と推測し、過去の経験から、「身体に任せれば治る」と判断したのでした。
「病状は、病気ではなく、治る過程」と、経験から学んだのです。
後天的な不具合は、「医学的には不治」とされていても治ります。再生が妨げられないで破壊を上回れば。
2年近い年月を、自己治癒力だけで超えてきました。
昨年12月には、こぶし大の腫瘍が壊死融解を終えたらしく、その抜け殻が繊維状になって排出されると、不意に病勢は減速。
臨死状態に慣れているため命が消えることは怖くなく、病状が頭や身体を停止させていくことに対しては備えを済ませたけれど、それは無駄や徒労に終わらないで、生活の質をより良くしてくれました。
生前整理を済ませると、暮らしが続いても家は散らからなくなるのです。
整理整頓は得意ですが、肢体不自由なので、時間を充てなくても済むと、体力や気力を他の作業に回せます。
2年前の記事で、以下のように書いていました。この翌週に病変が生じると予感していたかのような内容だから、自分でも少し驚きます。
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【過去の記録◆2022年5月23日①】
「行けるうち」は何十年も前に終わったと、「COGY(足こぎ車いす)」を使う前にはおもっていて、再び取り戻せるとは考えもしませんでした。
まるで、この美しい世界に別れを告げて回っているような気もします。
「おもいがけず、別れを告げる時間が与えられた」と感じるのです。
もちろん、瀧の傍を歩き回るごとに強くなっていく身体は、これから先も出逢い続けていくのですが、再会を考えないでいると、この世界の美しさがいっそう愛おしく感じられます。
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今年は幾つも、「再会を考えなかった場所」を再訪しました。
帰り際には、「また来ます」と、美しい風景に伝えて。
勾玉池の向こうから来て鳥居をくぐり、鳥見神社に参拝したところです。
前回の帰り道は、ここに続いていました。
なだらかな道だったので、今回は、こちらから上ります。
前回には、紅葉に遮られて見えなかった風景です。
麓では桜が咲いているけれど、ここはまだ冬枯れのまま。
前回は、曇りの日の午後でした。今回は、晴れた日の午前です。
晴れていれば風景が鮮やかになるわけではない、と分かりました。
盆地に浮かぶ大和三山は、左から「天香久山」「畝傍山」「耳成山」。
西の果ては、「葛城山(左に少し金剛山)」「岩橋山」「二上山」。
二上山の手前は、「巻向山」。
そして、いま居る所は、「鳥見山」。
「三輪山遙拝の聖地」なのに、ここからは三輪山が見えないのです。
「西峠北方の丘」と伝えられる霊畤(まつりのにわ)が鳥見山のどこなのか分かりません。知るかぎりでは、現在、最も視界が開けているのはここ。
前回には、「三輪山ではなく巻向山中にある聖地を遙拝する場所なのか」「高天山(たかまやま)という名であった金剛山で高天原(たかあまはら)と呼ばれていた聖地を遙拝する場所なのか」と想像を巡らせていました。
巻向山がなだらかな「ふたかみ」を描く所に「二上山」が見えています。
その方向に「三輪山」はありますが、山頂は少し左であるはず。
たぶん、「巻向山の左半分」の向こうが、三輪山の山頂。
(巻向山は、標高567メートル。三輪山は、標高467.1メートル。)
そして、「見えない三輪山」との間にあるのが、「大和の出雲」の聖地。わたしの脚では辿り着けない『ダンノダイラ』です。
さて、西から東へと視点を移していきましょう。
案内板に書かれた山名は盆地に近いほうから、音羽山、熊ヶ岳、竜門岳、稲村岳、山上ヶ岳、大台ヶ原山、国見山、明神平、伊那佐山。
前回は、人工物や街が入らないように撮ったけれど、今回は気にせず。
見晴台から下りて、鳥見山の山頂を目指します。
行き着けないのは判っているから、行ける所まで。
両腕の力だけで登るため、写真は撮れません。
細い登山道は、水路のような形です。
実際、大雨の後は水が流れるのでしょう。落ち葉は流れ去っています。
水のように通っていくと、何週も居座っていた激痛が消えました。
土の壁に斜め下から押され、抜けかけていた両脚を差し込んでもらえて。
舗装された道だと脚の角度が合わないため、痛くて前へ進めません。
登山道は、わたしの脚には楽なのです(使えるのは左脚だけですが)。
それに、神体山でなくても山は神域。「神気」が入ってきて、障害のある身体を軽やかに動かしてくれます。さして息切れや動悸もしません。
骨折をした友人も言っていました。「神社では痛みなしに歩ける」と。
それでも、戻ることを考えながら進まなくてはなりません。
どこで引き返すか、分刻みで考えます。
行く手に空が見えた時点で、「この頂点まで」と決めました。
そこからも長かったけれど、合図のように、低い門が現れたのです。
下り坂となる手前で立ち止まり、写真を撮りました。
記憶にある地形と似ているのに、見える風景が違います。
樹々が無かったら、向かいの山が見えそうだけれど。
傍らに目を落とすと三角点(上面に「+」が刻まれている四角い標石)が埋まっていました。『宮山』と彫られています。
地図にはない山名だけれど、低いほうの山頂にも名があるのでしょう。
「大和の日巫女(ヒミコ)」の宮があったのは勾玉池あたりでしょうから、その後ろが「宮山」なのは納得がいきます。
若い杉に取り囲まれて、「19年前、風に吹かれて立っていた小さな丘は、植林されたのか」と考えました。
「山中では嵐があると人工物は壊れる。樹と草の根元には跡があるのかも」
そう考えました。
「子どもたちが駈け抜けた風景も、記憶にしか存在しなくなった」と。
帰宅後に地図を最大まで拡大してみると、鳥見山山頂の手前に「等高線が閉じている所」がありました。そこが「宮山」でしょう。
あ、でも、いったん下った先に「登山道の線」で隠れるほどの小さい丸があります。そこが、わたしの探していた所なのでしょうか。
先が見通せなかったため、直線で30メートル先だと判りませんでした。
どこへ行っても2回目なら驚くほど近く感じるから、いつか確かめます。
補装具の数を増やせば、上り下りがあっても、そこへ行けるはず。
でも、もう、その先へ駈けていきたいと願いません。障害が進行しても、20年近く前に歩いた距離を腕の力だけで進んでこられたのだから。あのとき連れてきてやった子どもたちがそこから先へ駈けていったのだから。
いま居る鳥見山(734.4m)から見える「最初の鳥見山(245m)」では、三輪山を視界におさめて遙拝できますが、「奪われても新たに創り続ける」という在り方を選んで、命は古代の大和から繋がってきたのでした。
見えなくても、視ることはできます。
見たことがあるのなら、行けなくなっても。
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