見出し画像

天香久山(冬至)

【記録◆2023年12月22日】

「大和三山」の『畝傍山』が初めて目に入ったのは10代の終わり。
 南へ向かう電車の窓ごしに、「山が名告る」という体験をしたのです。

 そこに山があるのを知らず、山の形も知らなかったのに、
「きっと、この山が畝傍」と感じたのでした。

『三輪山』のほうから大和盆地へ車で走ると、「大和三山」の『耳成山』と『畝傍山』が重なって「二上(ふたかみ)」のように見える所もあります。
 耳成山はどこから見ても形が変わらないけれど、畝傍山は変化するので、山が名告らない時には耳成山を探し、「あちらが畝傍」と確かめるのです。

「大和三山」の『天香久山』には、名告られたことがありません。
 竜門山地の先端に連なるため、丘なのか山なのか見分けるのが難しく。

 大和盆地を走る時や平野部に立つ時には、耳成山と畝傍山の位置から、「あのあたり」と見当をつけます。
「高円山」や「龍王山」といった東の山々から大和盆地を見渡すときも。

『高円山』からは、歩けなくても見ることができます。立てなくても、車の窓から見ることができるとおもいます。
『龍王山』は、車を止めた所から少し歩かないと、盆地を見渡せません。

『藤原宮跡』には、車椅子で移動できる道があります。
「COGY(足こぎ車いす)」で、わたしは天香久山の近くまで行きました。

 これまでは、「天香具山」と記していましたが、今回は、「天香久山」と記します。
 国の名勝に指定されたのが平成17年7月14日(2005年)で、名勝の場合は「天香具山」と表記されるそうなので。

 先々週、『鳥見山(宇陀市ではなく桜井市のほう)』の100mあたりまで腕の力で行けたから、天香久山の山頂(152.4m)を目指してみました。

 駐車場から登山口まで、舗装された道を進むほうが、わたしの脚には苦行(いつものことながら)。
 また、舗装されているためか、わたしには登山口までの道のほうが急坂に感じられました。

登山口の手前で

 勢いよく水の流れる所が好きだから、瀧や清流の傍らへ行けない冬期には(流れる水は足を置く地面を凍らせますし、飛沫は体温を奪うでしょう)、家にこもっていようと考えたのですが、座る姿勢を保持できない身なので、体勢や全身の動かし方を変えたほうが痛みは分散するのです。

「医師たちが予告した両脚機能全廃」になっていないのは、「ダンスはどの種類もダメ」と禁止されても踊り続けてきたためだとおもうけれど、まさか登山が可能になるとは考えもしませんでした。進行性の障害なので。

 車椅子ユーザーの登山は、登山道入り口付近を腕の力で巡るだけですが、以下のような風景も見られます。

 ダンスを禁止されたときに、野を歩くことも禁じられています。
 当時は(17年前です)全身を使って踊ることができるだけで、座ること、立つこと、歩くこと、寝るため横になることも困難でしたから、あらためて禁止される必要はありませんでした。できなくなっていたので。

「障害は進行していくのではなく変化していくのだ」と、考えています。
 この1年半、少なくはない量の出血が1日も止まらず、安静にしていれば治まるかと考えた日もあったけれど、寝たきりで生きたいのではないから、望む形の生活を続け、それに合わせて身体が再構築されるのを待ちました。
 
 医療過誤で奪われたままになっていた筋肉も再生するのではないかと。

「治らない傷の周辺に生じるという病変」が命を終わりに導いても、すでに多くを成した後だから心残りはないとおもえました。
 それで、「身体に任せる」と決めて、検査も治療も受けなかったのです。先天性なのか、医療の後遺症なのか、混ざり合って分けようもない不具合を治せるとはおもえなかったので。

 今月上旬、想像もしなかった経過を辿って「自然治癒」が終了しました。一段落であったとしても、命にかかわる症状が無くなったのはありがたく、「頭か身体が動きづらくなったら子どもたちに知らせよう」という考えは、実行されないままとなったのでした。
 秋には「生前整理」をおおかた終えていたのに。

 瀧を巡り、龍の神さまに手を合わせるとき、「国土をお守りくださって、ありがとうございます。わたしにできることがあれば、それができる身体でいさせてください」と祈り続けてきたので、この先にも働けるのでしょう。

 右脚は動きづらいままですが、右より障害の進行していた左脚が、なぜか体重を支え、衝撃を吸収してくれるようになりました。
 左脚と両腕で、「天から降ってきたという伝承のある神聖な山」へ入っていきます。

天香久山の登山口

 登山口の歌碑に刻まれているのは万葉歌。
『大和には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま)大和の国は』

[大和には多くの山があるけれど 特に良い天香具山 その頂に登り立って見渡せば 平野部には炊煙が盛んに立ち 水面には水鳥が飛び交っている ほんとうに美しい国だ この蜻蛉島大和の国は]
(「とりよろふ」を「精霊のとりわけ神々しく依りつく」とする現代語訳もありました。)

 平野部は『鍵・唐古遺跡』のあたりまで大きな湖だったのかもしれないと想像もするけれど、「水の豊かな美しい国」と言祝ぐために詠まれたのかもしれません。その豊かさを国土に繋ぐよう「言葉」を使って。
(山頂には現在も、雨乞いの神事に使われたという壺が埋まっています。)

山頂へ続く道

 枕木の間隔や段差は、わたしには上りやすく感じられました。
 ところどころ段差が大きいため、「帰りに下りられるだろうか」と考えもしたけれど、自然と「これまでとは違う二本杖の使い方」ができて、麓まで戻れたのでした(あとで書きます)。

畝傍山

 天香久山の山頂から、西に畝傍山が見えます。
 その後ろは岩橋山と葛城山。

耳成山

 天香久山の山頂から、北西に耳成山が見えます。
 その後ろは矢田丘陵で、さらに向こうは生駒山。

葛城山

 天香久山の山頂から、西南西に葛城山。
 歌に詠まれた「国原(くにはら)」は街になっているため、稜線ばかりを撮っています。

二上山

 天香久山の山頂から、西北西に二上山(左が雌岳、右が雄岳)。

 例年より気温がかなり低く(盆地中央部で年内に初雪が舞うのを見たのは初めてかも)外出は避けたほうがいいような日でしたが、国見をしたときに見えない山はありませんでした。

 いきなり山を撮りはじめたのではなく、まず神社を参拝しています。

 山頂に「國常立(くにとこたち)神社」があり、小さな祠が正面に並んでいました。
 左に國常立命が、右に高靇神が祀られています。
 ここの鈴緒も、山頂の雨風で色褪せてはいても、川下神社の鈴緒のような五色の布でした。

 山頂を目指したのは、龍神(高龗神)が祀られていると知ったため。
 瀧へ行けない季節にも、龍の神さまの傍に行きたかったのです。

『鳥見山(桜井市)』にも、黒龍の社がありました。
『龍王山』にも、龍神の社があります。
 
 山は、地に水が行き渡るよう、天に祈りを捧げる場所だったのでしょう。

 丘のような山頂を吹き渡る風の音も録りたかったけれど、顔が凍りそうになったから急いで下りました。途端に周囲が静かになり、山や樹が強い風を防いでくれていると分かったのでした。

風が静かになった

 肢体不自由だと無意識に、装具まで含めた最も良い動きを選んでいます。段差の大きい所では二本の杖を斜め後方に突いて身体を押し出している、と気づきました。生きている土に突く杖は、斜めにしても使えるのです。
 真下に突いたのでは、脚の可動域が足らなくて下の段に足が届きません。それで、上ったときには「横向きで下りなくては」と考えていたのでした。

 家の中で考えつく工夫はすぐ形にするけれど、戸外では、形になってから「工夫をしていた」と気づくのでした。

冬至の太陽
見送ってくださっているよう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?