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モヤッとしながらも日本社会の本質的理解に近づいているようなー「迷走王ボーダー」評

先に断っておくが、結論らしい結論には辿り着けないと思う。タイトル通り、近づいてはいるようではあるが。なので期待せずに読み進めて欲しい。

迷走王ボーダー」という漫画を読んだ。Kindle Unlimitedで読み放題だったので、一気に読んだ。1986年初出ということで、まさにバブル絶頂期、昭和真っ盛りの本だ。とても面白い。まだガキだった頃の憧れる大人感があって、ノスタルジックに眩しい漫画。全編通して、感傷に浸り放しだった。

Newspicksの亀っちの部屋2で、オタキングこと岡田斗司夫が本書について語っているのを聞いて、早速読み始めてみた。分かりそうで分からない、日本社会の本質。「あちら側」と「こちら側」の分断。空気。同調圧力。世間と社会。そう、併せて山本七平の「空気の研究」も読み進めている。こちらも読み応えあり。日本社会のこの同調圧力という空気について理解を深めたいと思い、またそれを打破し次に進むためにモヤモヤを吹き飛ばしたく、いろいろ手にとっている中での、本書との出会い。

主人公の蜂須賀が少し変わっている。世間とは程遠い、家賃3000円の元便所の部屋に住む、独身無職の中年おじさん、という設定。本人の素性は途中で概ね明らかになるが、それはある意味どうでも良い。主人公の蜂須賀を通じて、日本社会の激動期を写す鏡のように、時代の変化を捉えている。

先見性が、すごい。というのも、本書でいう「あちら側」の支配と、「あちら側」レールの上でしか生きることを許されない社会が、まさに今だ。お酒、音楽、お金、セックス、大学、サラリーマン、整形、マイホーム、など。たしかに古い。男根主義も垣間見える。本書では「情報なんてーのは常識バカどもの健康な麻薬に過ぎねえのさ」と、言い切る。さて、2021年の現在、情報という麻薬がないと生きていけない社会に、もうすっかりなっているではないか。

生き様のカッコよさとか、メッセージ性の強さとか、惹かれる部分が多い、不思議な漫画。何より一番良かったのは、私の大好きな「ピアノの森」や「Blue Giant」のような、漫画から音が聴こえるような描写。歌だから、歌詞があるからより伝わりやすい。「BECK」も近いものがある。これが、響く。ボブ・マーリーを聴き始めた。歌詞も、ちょっとずつ知っていきたい。

乗り遅れることを容赦しない、そんな空気がまだ80年代にはあったのかも。今はそうではない。「あちら側」様がハードルを下げてくれているからだ。軽薄短小はさらにスーパー軽薄短小になっているのだ。ルールは守って。劇中に裸足で町中を走る描写がある。今なら、絶対にNGだ。後ろ指は刺されるとはいえ、まだ社会の寛容があったともいえる。社会のスピードが落ち、乗り遅れないようなセフティネットは増えたけれど、本質的には変わっていないということか。スーパー軽薄短小は許されるけれど、裸足で町中を走っちゃいけない。

そういえば今、ヘンな人が、以前よりも減った気がする。私がガキの頃は、もっとヘンな人がいっぱいいた。剃りこみサングラスの兄ちゃんとか、ヘンな服着たおばさんとか(この類は緊急事態宣言のときに見た気がする)、乞食もたくさんいた。ファッションセンスでいうと今でも私は自身がないけれど、もっと変わったセンスの人が多かった気がする。劇中に出てくる、白いダボダボのブリーフも見なくなった。ユニクロには売っていない、はず。ヘンであることを受け付けない社会。裸足で町中を走っちゃいけないのだ。

日本社会の特殊性に気づいて、そのことを語ると、変人扱いされる。そう、ヘンな人は、駄目な事なのだ。私は音楽をするのでよく聞く話だが、音楽では個性があって、当たり前なのに、個性的な演奏は合わないと言われ、疎まれる。ヘンだと、日本社会の音楽シーンでは、同じく駄目な事なのだ。例えばコロナ禍での演奏会開催についても、同じことが起こった。私は主張を変えていない。少し風向きが変わってきている中で、演奏会も従来のようにやれる日がくるであろう。その時、「あのときは、ああせざるを得なかった」という意味不明な理由で、当時の空気に乗っていなかったことは水に流されるのだ。そこには論理はない。世間であり、空気であり、同調圧力であり、裸で町中を走っちゃいけないのだ。

そんな思考を巡らせているときに、NewspicksのWEEKLY OCHIAIを観た。黒川清さんという方が、言っていた。記者クラブに支配された官報メディア、原発の責任を取ろうとしない当事者(彼は原発事故調査委員会の元委員長だそうだ)、コロナで格段に増えた国債でもしかすると個人資産を全部持っていかれるかもしれない現実に何も言わないこと、など。原発については語るほどの知識も経験もないが、コロナについては同じことを思っていた。まさに。

これぞ、日本社会の本質的「あちら側」思考。責任を取らなくてもよい社会。ぬるま湯。それでいいよねぇ、だってみんなの責任とも言えるじゃん。社長も代わり番こでいいじゃん。あ、給料はちょっと欧米並みより少なめにしといてよ、みたいな。貧乏くじは引きたくないけど、まあ、何とか穏便に。いやいや、あれは誰々さんがそう言ってるらしいよ。しょうがないよねぇ。まあ、何とかなるっしょ。

フレームワークや手法なんかを輸入しても、この本質的課題を解決しないと、日本は進まないのではないのかな。いや、もはや進んでないのか。後退している業界・会社が多い中、何とか進んでいる業界・会社もあるから、成長率も微増ぐらいになっているのか。日本ってすげーって言っているうちに、とっくにアジアに置いていかれてないか。技術立国も昔の話になるのも、近いのではないか。

理解が進んだような、進んでないような。ハッキリしていることは、このモヤモヤ感は歴史的な日本の伝統芸能のようなものだということだ。このモヤモヤと付き合っていくことは必然なのだから、必然の中で、未来につながる動きをしていきたいと、思う。




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