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ショスタコーヴィチのありのままを -交響曲第5番

本日、本番。
ショスタコーヴィチの5番を演奏。
言わずと知れた、超有名曲。
これまでの取り組みが、充実そのものだった。
本日、その成果が充分に発揮できるか分からない。
それでも精一杯、やってみたい。

ショスタコーヴィチはどちらかというと、好んで聴いてこなかった作曲家だ。サブタイトル好きの日本では「革命」と呼ばれたりもするこの5番や、1番、9番などは好きだ。そう、演奏した7番も若いときは眠くて最後まで聞けなかったが、演奏を契機に好きになった。それ以外は、まだどうも馴染みがない。一通り聞いた中では8番、10番、11番辺りは面白そうだけれど、それでもまだ馴染みがない。

ショスタコーヴィチという、20世紀を代表する作曲家の代表曲を演奏できることは、この上ない悦びだ。とくにこの5番は、「カッコイイ」!聴いてる分には分かりやすいし、心に響く旋律と、音楽の破壊力は相当だ。

しかし、譜ヅラは、意外にもシンプル。最初に見たとき、美味しそうでないと思った。これは木管あるあるなのだが、譜面をもらって美味しそうか美味しそうじゃないかは本能的に分かる。意外とカンタンとも感じた。

とはいえ一筋縄ではいかない。私は今回の演奏会に向けた練習で、その隠された意味までは到達出来なかった。いろんな人がこの曲について語っている。よくいわれる「ソヴィエトの圧政下で粛清の危機を乗り越え、当局を納得させ名誉回復につながった曲」、なのだろう。その隠された意味も、よく取り沙汰される。4番を聴いてこの5番を聴くと、本当に同じ作曲家なのかと疑うくらい、違う。私なりに少し垣間見えたとすれば、「妥協」だろうか。当局との妥協、民衆との妥協、仲間との妥協、自分との妥協、自分の音楽との妥協、、、

やりたいことをやれなかったのに、それが評価されるということは、とてもやり切れないだろう。それでも、ショスタコーヴィチは文句を言わない。「不健全な自尊心は不健全な崇拝の裏返しである。そして同じ一人の人間の心のなかに、自尊心と崇拝が仲良く共存している」(ヴォルコフ「ショスタコーヴィチの証言」)と、本人は言う。そう、妥協して職人的に作れちゃうのだ。決して偉そうにしない。そう、仕事なのだ。

その「仕事」を過度にありがたがる必要性は薄い。だからといってディスることもない。そう、譜面のありのままを受け止めて、自分なりに消化して、本番に臨みたい。

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