芸能と私。(#010)

観る、出る、作る。いろんな形で私の人生と共にあったのが、舞台・芸能です。これまでの辿ってきた道のりと、これからの話を少し、書きます。


幼少期 ~観客としての原体験~

作品鑑賞を趣味としていた母の影響で、幼少期から多くの舞台・映画に連れられて行った。人形劇や、ファミリー劇場のようないわゆる〈演劇〉にも触れてきたが、特に強く印象に残っているのは、ミュージカル系だ。劇団四季や宝塚歌劇団の公演を、浴びるほど観た。

初めて『CATS』を観た時は、客席の壁にまで施された装飾に、とても楽しい気持ちになった。買ってもらったロゴ入りのオペラグラスを、ずっと大事に持っていて、劇場に足を運ぶたびカバンに入れていた。そして何度目かの『CATS』で、面白い出来事が起こる。

猫たちの集会が、人間の登場によって離散させられるシーンがある。曖昧な記憶だが、それまでの公演では、大きな物音が音だけ流れ、猫たちがビクッとして散会する、という表現だった気がする。ところがこの公演では、舞台の真ん中に、どでかい靴がドーン!と落ちてきたのだ。「これは確かに逃げなあかんなぁ」と思った。猫たちは必死に離散した。

幼少期の私は、靴の大きさにも驚いたが、それ以上に「これ前なかったやつや!舞台って変わっていくんか!」という衝撃的発見をした。後からこれが、「演出」と呼ばれるものだと気が付く。10年以上後のことだ。

ともかく、観客側として数多くの鑑賞経験を積ませてもらった。後になって、演者側としての引き出しにもなってくれている。私にとって、舞台の原体験のようなものだ。


幼少期 ~演者としての原体験~

母と外出していると、よく知らない人に声を掛けられた。当時この言葉を聞いても意味は分からなかったが、どうやら「スカウト」というものらしかった。どちらかというと女性的な顔立ちで、中性的な服装だったため、「お嬢ちゃん可愛いねぇ」から始まったと、何年か後になって母から聞いたことがある。「なんか四角い紙(名刺)を渡されて、なんか大人同士で話し込んでるなー」ぐらいで、話が終わるまで暇そうに待っていた。

子どもの習い事について、我が家の方針は明確だった。本人がやりたがるか、やりたがらないか。やりたがれば、一定期間はとりあえずやらせてもらえた。

だからスカウトされた日には、帰宅後、母から「こんなお誘いがあったけど、どうする?」と説明を受けた。当時は、特に興味もないし、そもそも何の話かもよくわからない。すべて、お断りすることになった。


同じ頃、駅前の写真館に、よく足を運んでいた。
ベビーフォトやら七五三やら、折々機会があったのだ。
個人経営だったが、人柄や腕前に立地もあって、駅に大きな広告を出すぐらいには繁盛していた。
ここのおっちゃんに気に入ってもらえて、モデルをやることになった

写真館に行くと、見本の写真が天井近くにズラっと並んでいる様子が目に浮かぶだろう。あれになった。広告にも写真が掲載された。駅構内の大きなパネルにドーン!と着物姿の私が写り、「○○写真館」と添えられた。嬉しいことにお客さんが増えたらしく、おっちゃんに益々気に入られて、何度か広告に起用してもらった。

地元の駅だったから、通りすがりの人から「あの写真館の子やんね」と声を掛けられることも増えた。周囲の大人たちからも「モデルさんやん!」と言われたが、特に何を感じることもなかった。関西人だからだろうか。「可愛いねぇ」「賢いねぇ」など、子どもに掛ける褒め言葉の類と同じ感覚で「モデルさんやん!」も捉えていて、特に「自分がモデルをやっている」という認識をしたことがなかった。強いて言えば、自分の姿を街中で目にするのは、不思議な感じがして、「ほぇ~」と思っていたぐらいだ。

報酬を貰っていたか私は知らないが、きっと無償だったろう。
だから「仕事」とは言えないが、初めて自分の姿形が世に出たという意味では、「初仕事」となった体験だ。

今でもたまに冗談めかして「一応、元モデルです」と言うことがある。「めっちゃ小っちゃい時やし、雑誌じゃなくて写真館ですけど」とお茶を濁すが、それは以上の真相である。
(※相手の想像とは違うよと言うためであって、写真館モデルが劣るとは全く思わない。むしろ「店の顔になった」という事実は、今の自分にかなり自信を与えてくれている)


さて、幼少期にあった演者としての出会いが、もう1つある。Labo Party への入会だ。

似たものが世の中にないので、正確な説明は難しい。かなり端折って言うと、Labo は全国に展開している「言語教育団体」だ。日本語と英語を使って、歌ったり踊ったりゲームをしたり、楽しむ中で、言葉の扱いを身につけよう、言葉と結びつきの深い文化や情緒を知っていこう、という教育をしている。乳幼児から大学生まで、「子ども」と言ってもかなりの多年代と活動を共にする。キャンプや、海外へのホームステイにも、希望があれば参加できる。YMCAやボーイスカウトあたりをイメージすれば、近いだろう。

Labo の活動の1つに、〈テーマ活動〉があった。
〈演劇〉とは似て非なる、舞台表現活動だ。詳しくは後述するとして、4歳の私は英語の歌・踊り・ゲームと並んで、〈テーマ活動〉を始めた。〈演劇〉と同じく、題材は物語。「大きなお兄ちゃんお姉ちゃんとする、ごっこ遊び」感覚だった。Labo Party に在籍できるのは大学生までだが、それまでの間、約20年近い年月〈テーマ活動〉を続けることになる。

〈テーマ活動〉で初めて舞台を踏んだのが、5歳。ジャンルを無視して、過ぎた年月だけを数えれば、今年で芸歴22年になる。


小学生低学年期

小学校低学年の頃、久々に1件だけスカウトがあった。きっかけは憶えていないが、「なんか面白そうだ」と思ったんだろう。ついに受けてみることにして、神戸のタレント養成所に通い始めた。(※そういえば幼少期のスカウトは何系だったんだろうかと、この時初めて気になった)

新しい世界へ足を踏み入れる感覚に、半分ワクワク、半分ドキドキで通ったが、続かなかった。
他に水泳・書道・Labo をやっていた中でわざわざ通う面倒くささも、正直あった。決定的なのは、通っている他の子どもたちとの温度差だ。本人の意思か、親の執念か、彼らは今で言う「ガチ勢」だった。対して私は「誘われて面白そうやから、行ってみるか」程度。温度差があるのは当然だ。「なんでこの人らギスギスしてるんやろ」「なんでこっち睨んでくるんやろ」と、居心地の悪さしかなかった。

某製菓会社のCMに、1本だけ出演させてもらった。といっても「○○養成所のみなさん」のヒキ画の1人(※イナバ物置の1人みたいなイメージ)で、誰が出ても同じだ。「これでもういいや」と思い、結局、半年足らずで退所した。


小学生高学年期

6つ下の妹が、ミュージカルを習い始めた

先述の写真館の近くに、劇団四季OBOG夫妻が開いているミュージカルスクールがあった。ミュージカルだけでなく、歌・バレエ・ジャズダンス・ヒップホップ・タップなど、基礎から応用まで幅広くチャレンジでき、劇団四季合格者や『アニー』主演など、何人も輩出しているスクールだ。

時々送迎に付き添っているうちに、「お兄ちゃんも通わない?」と誘われた。私は何度も辞退した。当時は正直「バレエ男子」なるものに気恥ずかしさがあったし、ミュージカルを観るのは好きだが、自分でやろうと思ったことがなかった

妹は受講クラスをどんどん増やしていき、充実したミュージカル生活を送り始めた。一方、スクールからオーディションの話を持ち掛けられても、「受かっちゃったら東京に引っ越しせなあかんやん」と、受けなかった。子どもらしい理由だが、私も似たような感覚だったので、妹の味方をした。流れ弾でオーディションの話を持ち掛けられても、私も受けたいと思わなかった。


一方で私は、お能を始めた。今思えば、能は Japanese Musical とも言えるもので、兄妹のタイミングって面白いなと思う。

きっかけは市のカルチャースクール「阪神こども舞囃子教室」(後に「阪神こども能楽教室」に改称)だ。
母は多趣味な人で、自分が次に通う教室(フラワーアレンジメントとか、パッチワークとか、着付けとか)を見繕っている時に、目に入ったんだろう。「やってみない?」と持ち掛けられた。本物の能楽師が教えてくれるとか、滅多にない経験できるよとか色々アピールがあったが、特に響かず。でも「なんか面白そう」と思って、参加してみることにした。

能楽師と小鼓奏者のタッグで、能楽に触れてもらおうと立ち上がった企画らしかった。それぞれの性別・年齢・身体能力に応じて課題曲が与えられ、1回の稽古で仕舞い・小鼓それぞれの指導を受けた。順番を待つ間、お喋りするうちに友達もできた。成果発表には、能楽堂で発表会をさせてもらった。貴重な経験だ。初めての場所・初めての世界に足を踏み入れるワクワク感は好きなので、当時は「貴重」とか「体験価値」とかは思わないまでも、楽しく取り組んでいた。今でも小鼓は叩ける。

1年間の教室には、4年通った。同じ学校の1学年上にいるめちゃくちゃ美人なお姉さんがたまたま一緒に習っていたが、高校受験に向けて来なくなったのも、白状すると理由の一つ。ある程度、未知の芸能への興味が満たせたし、楽しかったが、この先本格的にやりたいとは思わなかった。

そもそも父方の祖母が日本舞踊をやっており、母もかつては巫女として、神楽を舞っていた。そのためか、どんな芸能ジャンルにも抵抗が無く、「舞台に立つ」こともごく自然に受け入れられた。そこに、意思とか志望とかは特にない。医者の子が「なんとなくおれも医者になるんだと思っていた」みたいなのに似ている。特殊な家系なのかもしれない。

そういう環境だから、良くも悪くも、闘争心や出世欲のないまま、私も妹も舞台に立ち続けた。あくまで趣味で、娯楽の域を出なかった。


〈テーマ活動〉の方では、セリフのある役をやることが増えていった。年長者たちが若い者にやらせようとするので半強制的だったが、「まぁやれと言うならやるか、別に嫌じゃないし」ぐらいで色々やった。自分から「この役やりたい!」と思えるものもあって、子どもらしく駄々をこねても、それは通した。どちらにせよセリフを覚えるのが苦手で、時には泣きながら特訓させられた。


中学生期 ~興行主としての原体験~

中2の冬の4ヵ月、不登校を経験した。これについては別 note を書くので割愛するが、学校と同時に、習い事の一切を辞めた。水泳、サッカー、ピアノ、書道、能。ずっと長く続けてきた Labo も、例外ではない。

はじめは Labo だけでも続けようと思っていたが、この時期の私にとって〈テーマ活動〉は「作業」だった。マンネリもあった、やらされることも多かった、断った時「中学生なんだから」と言われることも増えた。顔を出してもストレスになることはわかっていた。でも「今は無理でも、どこかで〈テーマ活動〉をまだやりたい」気持ちがあって、結局「休会」という形で距離を置くことにした

中3になって学校に復帰し、「学年総務」という役職に立候補して、周囲を驚かせた。ジェットコースターな落差である。2009年は、新型インフルエンザが猛威を振るっていた最中。学級閉鎖も相次ぎ、学校側から「文化祭中止」の通達が出た。

反発した私は、一派を率いて、文化祭を強行した。村上龍か宗田理に出てきそうな話である。

背景を説明しておこう。
私が通っていた学校は、大学附属で、かなり自由な校風だった。修学旅行先の選定も、中1から自分たちで準備委員会を作り、候補を挙げてプレゼンし、投票を経て決定するような、民主的で自主的な活動が当たり前だった。文化祭の合唱コンクールは、体育祭の応援合戦と並ぶ全校規模の目玉行事。めちゃくちゃ盛り上がる。文化系部活の晴れの日だし、バンドや漫才を1年掛けて準備してきた人たちの発表の場だって、文化祭の有志ステージしかない。ましてや、小中一貫で9年過ごした同級生の最後の行事だ。「中止、はいそうですか」と黙ってはいられなかった。

でも「文化祭は中止」だから、自主的でも許可が下りる訳がない。規模を変え形を変え「お楽しみ会」としてなら、可能性はあるだろうか。文化祭を管掌する生徒会とも掛け合ったが、動かないらしい。各クラスの委員長と申し合わせ、合唱コンクールと有志ステージのみ、3年生だけの「お楽しみ会」として企画した。全校行事は生徒会管掌だが、学年行事は学年総務の管掌。私が取りまとめることができたのだ。

ここまでで先生に掛け合ってみたところ、「私は学校組織の人間だから、上の決定には逆らえない。でもやらせてあげたい。君たちで是非やってくれ!」と固く手を握られる予想外の展開。こっそりと援護を受け、定期的に会議室も確保してもらい、何人かで自作したチラシも印刷してもらい、PTAへの説明もしてもらって、なんとか開催に漕ぎ着けた。お客さんも入れることができた。怒った人はいたけれど、感謝してくれる人がたくさんいた。かくして、「文化祭強行作戦」は成功した。ウソのようなホントの話である。

新型コロナの世になった今、思い返せば、かなり大人をヒヤヒヤさせる活動家だったことだろう。状況も違うし、正しいことだったかはわからないが、多くのことを学ぶことができた。

アイデアがあっても、理解が得られなければ話は進まない。筋も通さなきゃいけない。誰を味方に引き入れればいいか、見定めなければならない。時には大胆に形を変える、柔軟性も必要だ。それに、役職がなく他人頼みであれば、きっと実現しなかったろう。この note を書きながら初めて気付いたことだが、「当事者にならないとできないことがある」という気付きも、この一件での大きな収穫だ。

とにもかくにも、これが「興行を作る」立場で動いた初めての経験だった。


高校生期

高校生期は、私にとって苦悩の時期だった。進路にも悩む。人間関係にも悩む。自分は何者で、何をしたいのか、誰といたいのか、何もかもわからなくて、ただずっと悩んでいた。だから、明朗健全な高校時代というものを私は送っていない。

趣味で読書はしていたけれど、舞台も映画もドラマも触れず、テレビもアニメかニュースのみ。芸能が身体からデトックスされた時期だった。

高校演劇で〈演劇〉に出会う若者が多いらしいけれども、私にはそんな経験はない。

全日制高校を中退して、通信制高校に通い始めた。ここで人生上重大な出会いと気づきをいくつか得るのだが、それは別 note に書こうと思う。


大学生期 ~テーマ活動での覚醒~

大学進学を機に、Labo へ復帰した。ここからの4年間は私の芸能自分史において、革命的時間だ。

〈テーマ活動〉はどんなものか、いよいよ説明しよう。これも独特なものだから、かなり端折った説明になることをご容赦頂きたい。

まず、普通の〈演劇〉の光景を想像してほしい。
〈テーマ活動〉では、「衣裳」はない。全員がTシャツ・ジーパンなど、同じ格好で揃えやすいカジュアルな服装をしている。「小道具」もない。コップから水を飲む表現では、コップ自体も架空のもの。「無対象演劇」的要素だ。「美術」もない。動植物も、建造物も、神様や精霊も、海や山や風も、すべて自分達の立ち居振る舞いだけで表現する。身体性がかなり重要で、〈演劇〉と〈創作ダンス〉と〈パントマイム〉の間にあるようなイメージだ。

「台本」は、あるにはある。プロの俳優・声優が吹き込んだ、ドラマCDのような形式で、紙に書き起こしたものも添えられている。CDには音楽も収録されているので、いわゆる「音響」もない。音楽だけを抜粋した「音楽CD」があり、会場設備に繋がせてもらって、後は自分たちでトラック操作をする。

題材は、世界中の物語だ。絵本や童話、昔話、小説、戯曲、神話・民族伝承に至るまで。これらを、自分たちで解釈し、表現を形作っていく。つまり「演出家」もいない。全員が役者で、美術で、演出家なのだ。

「このセリフはこういう意味じゃないか」「ここで登場人物がこういう行動を取ったのはなぜだ」「この物語で最も伝えたいことはどこか」と意見交換をしながら、伝わるように、表現に落とし込んでいく。20年近く続けていれば、同じ題材に何度も取り組むことになるが、一度として同じ表現にはならなかった。小学生の自分と大学生の自分では、同じ物語でも感じ方が違う。座組みのメンバーが変れば、出てくるアイデアも変わる。「演出家」も自ら担う分、料理の仕方は如何様にでも広がるのだ。

小学生の頃は「ごっこ遊び」だったし、中学生の頃は「作業」にも感じた。けれど、自分で物語を解釈したり、議論したり、身体能力が上がったり、できることが広がってから、私にとって〈テーマ活動〉は「創造的営み」になった。幼少期から言われ続けた「自分に引き寄せて考えてごらん」も、理解できるようになった。恋をした経験があれば、恋をする登場人物に共感できるようになった。どんどん、自分と物語との距離が縮んでいって、自己表現の場としても、他者理解の場としても、読書会的意見交換の場としても、夢中になっていった。「波の表現と言えばこの形」と、多くの人が陥るマンネリを打破するのも楽しかったし、独自の切り口から物語を解釈し、作品作りの方針に採用される嬉しさは、何事にも代え難かった。

小中学生の頃、嫌々半分にやらされた量的経験値は、自信と、守備範囲の広さに変わっていった。駄々で通した希望の役も、いつしか「この役は彼でしょ」とお決まりになっていって、同じ役を長年味わう、質的経験に繋がった。

『ピーター・パン』をやる時は、ジョン役。『ドン・キホーテ』では、サンチョ・パンサ役。『ふしぎの国のアリス』の帽子屋に至っては、15年間演じ続けた。(※毎年『アリス』をやる訳ではないけれど、『アリス』上演に立ち会う時には、必ず)7歳でやった帽子屋と、22歳で挑む帽子屋は、やはり違う。理解も違うし、表現の引き出しも格段に増えている。ちびっ子と一緒に隣で演じる時には、「この子の方が素直に捉えているな、頭でっかちになりすぎたか」と自分をフラットに戻しながら、役を楽しんだ。年代に関係なく吸収し合えるのも、Labo の良さだ。

距離を置きつつも続けてきたからこそ、〈テーマ活動〉は私にとって価値あるものになっていった。やりたいと思った時に、やる力がついていた。なるほど、「継続は力なり」とはこのことか。

一方で、これまでやらなかったことにもチャレンジした。
例えば『ドン・キホーテ』で、ドン・キホーテ役をやってみる。すると、物語や役が新鮮に見えてくるし、サンチョ・パンサについても新たな発見がある。何度も同じ物語に挑戦できる〈テーマ活動〉だからこそ、これができる。オーディションやオファーで役が固定され、チャンスは1回きりの〈演劇〉じゃ、こんなことはできない。そのことに気づいたのだ。〈テーマ活動〉を利用して、自分に実験を仕掛けるようになっていった。

なんとなく敬遠していた、難解そうな物語もとりあえず聴いてみた。気になったことをネットや図書館で調べてみると、まぁ世界が、広がる広がる。案外共感できたりもする。「色眼鏡」が次々外れていくのが、心地よかった。

苦手だったキャンプにも多く参加した。3泊4日ただ宿営するだけじゃなく、全国から集まった人たちと〈テーマ活動〉に取り組む。初対面の人たちといかに打ち解けるか。異なるカルチャーを持った人たちと、どう作品を作っていくか。キャンプ運営に回った時には、物語への入口として、またより深く理解するために、どんなワークショップを仕掛ければよいか。普段はできないアプローチに、キャンプでは挑戦できた。

次世代育成にも着手した。素直に物語を感じる分、子どもは鋭い。『アリババと40人の盗賊』をやった時は、「アリババ、盗賊が隠してた財宝勝手に持って行ってるやん!アリババも泥棒やん!」と見抜いたし、『アリス』では「なんで帽子屋が有罪になんの?」と疑問を呈される。実はね、種も仕掛けもあるんですよそれ、とニヤニヤしながら、わかりやすく話す努力、興味を持ってもらう努力、何をするにも楽しかった。暴れ回る少年たちに、手は焼いたけれど。

実は先日、演劇仲間から「共演者への投げ掛け力が高い」とお褒め頂いた。このあたりの経験が活きているのかもしれない。

〈テーマ活動〉は、多年代が基本だが、支部内の各地から大学生だけで集まって、よりハイレベルな〈テーマ活動〉に挑むこともある。私は4年間これに参加した。広域から集まることで、多様なバックグラウンド表現観、方法論、読解能力、身体能力、その他諸々に触れ、切磋琢磨し合いながら、〈テーマ活動〉を作り上げていった。過程から学ぶことも多くあり、知れば知るほど「私だったらこうするのに」というビジョンができてきて、「ヘッド」と呼ばれる代表者(座長的なポジションに近いのだろうか?)も大3で務めた。メンバーそれぞれに主体的なままでいてもらいながらも、〈テーマ活動〉へのアプローチをリードし、集団をまとめ、風土を形作っていく。表現者としても、表現の場を作る者としても、各段に力を付けられた

この大学生団体は全国各地にあり、毎年2月、一堂に会してお互いの発表を観せ合う。その後、合宿に突入し、普段の活動や、方法論、表現観、物語観から、ニュースや恋バナに至るまで、同じ釜の飯を食いながら、ざっくばらんに語り明かす。「わかものフェスティバル・わかもの合宿」と呼ばれるイベントだ。
この「わかもの」も実は、自主的に運営している。オリンピックのように各支部で招致し、獲得し、予算を立て、会場を押さえ、企画を練り、開催・運営に漕ぎ着ける。1回の開催にだいたい700万円前後掛かる。さながら起業である。すべて自分たちで動かすのだ。
関西支部主催を勝ち取った大4の時、私も実行委員会入りし、バリバリ実務をぶん回した。大学時代にこんな経験をできた人は、滅多にいない。「文化祭強行作戦」ぶり、制作者・興行主としての経験と言える。実際のお金も絡み、規模も大きく、多くの人を巻き込む分、かなり濃い経験だった。

通算何回の公演と相成ったか、数えられない。記憶にあるもので言えば、座組みとしては最少4人、最大120人。観客規模は最少2人、最大1,400人。劇場での公演から、子どもたちのいる場所へ出張するキャラバン活動まで、幅広い経験をさせてもらった。続けてきた〈テーマ活動〉を、相当多角的に、相当深く鋭く、取り組んだ。これはかなり、自信になっている。ジャンルと勝手が違うとはいえ、1,400人のホールで主役を張った人も、20年以上舞台に立ってきた人も、〈演劇〉の若手役者には、そうそういないだろう。

幼少期から蒔いてきた、あるいは人に蒔かれてきた種が一気に芽吹き、「創作組織を運営するにはどうしたらいいか」「作品を創るとはどういうことか」「観客に生で舞台を観せるとはどういうことか」など、自分なりの表現観、公演観、持論や矜持を築くことができた4年間だった。


会社員期

〈テーマ活動〉は間違いなく、人生で最ものめり込んだものだ。だが、もう戻れない。大学卒業とともに巣立つのが、Labo Party の決まりなのだ。

「役者として生きる」道も考えはした。けれど即、没にした。十分なお金が得られる訳がない。そもそも「役者」の仕事をまだ知らない。〈テーマ活動〉と〈演劇〉は違う。未経験だ。何より「仕事」にしたいかどうか、わからなかった。不安定な道には覚悟がいる。それほどの覚悟を、「役者として生きる」道に持てなかった。

紆余曲折の末、内定をもらった企業に入社した。不本意だったが、待遇は良かった。名の知れた一部上場企業の正社員だ。同世代比ではかなり高い収入と、多くはないがある程度の時間を程度確保でき、映画も舞台も月2ぐらいの頻度で観た。仕事は楽しくなかったが、趣味に注ぎ込める生活は、それなりに充実していた。

けれど後輩たちの〈テーマ活動〉公演を観ると、むず痒い気持ちになった。私ならもっと良い作品にできるのにという不満感、私はなぜ客席側にいるんだという焦燥感に似たものを感じた。その気持ちで〈演劇〉の舞台を観ると、つい観客以上の見方をしたし、会社員としての日常に戻れば、居ても立っても居られない。「私のいたい場所はビルの中じゃない、舞台の上だ」と強く思った。

収入はどうするのか。どこで活動するのか。演劇という業界にいたいのか、役者という職種をしたいのか。自分でもわからないことは多々あったけれど、これは人生の一大事だと直観して、2年勤めた会社を辞めた。

同時に自立を目指して、ひとり暮らしを始めた。


ピッコロ演劇学校

〈テーマ活動〉に近くて、世の中に既にあるものだと、〈演劇〉だろう。観客として観ては来たが、出る側・作る側として〈演劇〉は全く知らない。どのポジションでやりたいとか、わかりようもない。何か、全体像を知る術はないか。会社を辞める前、そう思っていた頃に出会ったのが、「ピッコロ演劇学校」だった。

ピッコロの特色は、劇場・劇団・学校が三位一体となっていること。実際の劇場が教室、すぐ隣の建物で活動しているプロの劇団員が先生となり、地元に根差している。「ガチ勢」も未経験者も受け入れる入門編「本科」とステップアップした「研究科」があり、「音響」「照明」「美術」3コースからなる「舞台技術学校」も併設されている。演劇学校在籍者は、舞台技術学校の授業も一部聴講できる。県立のため、学費も安い。無理なく〈演劇〉を概観できそうだ。とりあえず通ってみて、自分が〈演劇〉のどのポジションに興味があるのか見てみよう、とカタログ的に位置付けて、通学を決めた。

いよいよ入学という時期になって、コロナ禍に突入。長期閉講や短縮授業、カリキュラムの大幅な変更を経て、何とか開講された。本科は本来1年のみだが、2020年度は後期しか開講されなかったため、特例として2021年度まで2年間通うことに。同じ授業内容を受けることもあったが、反復することで得られるものもあった。

身体の使い方の基礎を身につけた。演劇用語を知った。劇場の構造を知った。〈演劇〉公演の作り方も知った。初めて演出を受けた。初めて衣裳や小道具を使った。初めてスタッフワークをした。初めて技術スタッフと接した。自ら挑戦しないだろう歌唱やダンスも授業で受け、苦手意識克服に近づいた。プロの演出家の指導も受けられた。広く浅くだが技術学校も聴講し、全体像が見え始めた。オペラ、ダンス、コンテンポラリー、剣舞、手話通訳、テーマパーク、その他様々なバックグラウンドを持つ表現者たちと出会えた。キャストとしてもスタッフとしても、〈テーマ活動〉でやってきたことのどれが活かせるのか、試すことができた。〈演劇〉の場に身を置いていることで、〈演劇〉の情報が格段に多く入ってきた。

入学を決めて、正解だった。

この note を書いている2022年3月現在、私はピッコロ演劇学校での2年間を終えたばかり。ここで上演した3作が、私の〈演劇〉出演作のすべてだ。


そして、〈演劇〉へ

幼少期:テーマ活動、モデル
小学生:テーマ活動、能、小鼓、タレント養成所
中学生:テーマ活動、能、小鼓、制作・興行
高校生:なし
大学生:テーマ活動、ヘッド、制作・興行
会社員:観劇のみ
フリーター:ピッコロ演劇学校

と歩みを重ねてきて、次なる軸足を〈演劇〉に置くことに決めた。

〈演劇〉というフィールドで、自分に何ができるかわからない。役者になりたいのか、スタッフになりたいのか、場を作りたいのか、まだわからない。けれど、積み重ねてきたことは必ずどこかで活きるはずだし、こうして人生を省みると、すべての出来事が伏線のように繋がってきている。

自分の意思を尊重しすぎて、後々チャンスとなるかもしれぬ芽を摘んでしまうのは、私の悪い癖だ。これを克服するために、「私は本当は何をやりたいんだろう」なんて考え過ぎずに、思い切って飛び込んでみることを、ここ数年心掛けている。飛び込んでみれば案外、次にやりたいことが見えてくる。「計画性を持たない」というプランだって、アリじゃないか。

そりゃあ、別ジャンルを20年やって、会社員も経てきた身からすれば、〈演劇〉のフィールドの特殊性には、色々違和感もある。順応しなきゃと思う違和感もあれば、なんでこんな非合理的なことしてるんだろう早く改善すりゃいいのにと思う違和感だって、正直ある。

けれども同じぐらい、好きなところも見つかっていく。
創作の場、〈演劇〉に携わる人たちの空気感が好きだ。チャレンジを許容する環境が好きだ。新しい自分に出会う感覚が好きだ。物語を通して、自分や他者を理解していく過程が好きだ。このクリエイティブな環境は、水が合う。素の自分でいられる気がして、居心地が良い。

生活の安定を求めて会社員に戻ったところで、また舞台に引き戻されるだろう。ほぼ確信できる。だったら、経済的に最小限でも、今やりたいことを追いかけてみたい。経済性の方が自分の中で大きくなったら、その時はその時だ。後悔はしても、経験には代えられない

ともかく、しばらくは、〈演劇〉をやることに決めた

この note は、これまで歩んできた自分の芸能史の振り返りと、ここからの決意表明である。


今、観たいもの。

歌舞伎が観たい。大方の伝統芸能に触れてきたが、歌舞伎はまだ未履修だ。ピッコロのクラスメイトの影響もある。

能・狂言を久々に観たい。授業ではなく、匿名の一観客として、他の匿名の一観客たちと、能楽堂で観る。この体験を今することで、何か発見がある気がする。

ミュージカルが観たい。幼少期に浴びてきた分、私の深部に息づいている。観ていてただただ楽しいし、〈演劇〉を経由した目でなら、発見もあるはずだ。

知人が作った舞台が観たい。出る側の話も作る側の話も、より近い距離で聴きたい。


今、やりたいこと。

〈マイム〉に挑戦してみたい。〈テーマ活動〉に近いもので、まだ〈マイム〉を知らない。第一人者と接点もあったので、これを機に挑戦してみるつもりだ。

劇団の舞台に出演してみたい。プロの劇団に外部出演でも身を置くことで、掴めることがあると思う。

演出を務めてみたい。〈テーマ活動〉では、演出的なポジションに楽しさを感じていた。その欲求が今のところ満たせていない。

舞台監督を務めてみたい。〈演劇〉の場に身を置いてみて、「舞台監督」というポジションを初めて知った。ライブハウスや劇場など、ハコフェチで、仕組みフリークの私としては、強く興味を惹かれる職種になった。

これらを通して〈演劇〉について、もっと多角的に知りたい。そうすれば次に進みたい先も、見えてくるように思う。


以上が、2022年3月時点で語りうる、
「私と芸能」のすべてである。


セルフリンク集

本文中に「別の note に書く」と述べたものが、いくつもある。それらの note を書き次第、ここにリンク先記事No.を掲載予定。

・不登校の話:

・就職活動の話:

・テーマ活動とは何ぞやの話:

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