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朽ちゆく「近代都市」をリ・デザインする。 人と自然が共創する「食べられる森」 連載「スマートシティとキノコとブッダ」ゲスト:ACTANT FOREST

キラキラと輝く近代都市が朽ち果ててしまったら、我々はそれをいかにリ・デザインし、人間と自然が共創する「スマートシティ」として再生することができるのか? 地に足をつけて一本一本木を植えながら、「Design with Nature」をコンセプトに、人間と自然、都市をつなげる数々の実験的な活動を続けているデザインコレクティブACTANT FORESTのみなさんにお話を伺った。
Photo by Aaron Burden on Unsplash

南部隆一、小田木確郎、岡橋毅(ACTANT FOREST
中西泰人(慶應義塾大学 環境情報学部)
本江正茂(東北大学大学院 工学研究科)
石川初 (慶應義塾大学 環境情報学部)

原体験としての「多摩ニュータウン」


中西:このプロジェクトのトピックの一つであるポスト人間中心主義についていろいろと調べていたときに、ACTANT FORESTのサイトで紹介されていたActant Mapping Canvasを知り[1, 2]、みなさんの活動に関心を持ちました。

南部:私の専門はグラフィックデザインなんですが、9年くらい前に、(株)ACTANTというサービスデザインの会社をつくりました。ACTANTという社名はラトゥールのアクター・ネットワーク・セオリー:Actor-network-theory(ANT)(*1)からとったものですが、ANTやマルチスピシーズ人類学のような考え方をより実践的にデザインにつなげてみようということで、小田木君、岡橋君に声を掛け、2020年にACTANT FORESTを3人でスタートしました。南アルプスのふもとの北杜市に小さな森を購入して、自然とコラボレーションする様々な実験やプロトタイピングを行っています

中西:南部さんは、東京生まれ東京育ちなんですか?

南部:はい、「多摩ニュータウン」生まれ「多摩ニュータウン」育ちです。

中西:あ、うちのかみさんも「多摩センター」生まれ「多摩センター」育ちです(笑)。

南部:ああ、そうなんですか。僕の原体験は「多摩ニュータウン」にあるんです。僕が育ったのは永山周辺の聖ヶ丘で、子どものころは周りにけっこう里山があったんです。そこはニュートラルな遊び場だったんですが、造成地が増えて住宅に変わり、緑の里山は消えていきました。便利な公園や施設ができて、里山は「役割のある空間」になり、自由に遊ぶという体験がどんどんなくなっていく寂しさがありました。
 しかし、今ではその「多摩ニュータウン」は老朽化し、住民は高齢化して、これからどうなっていくんだ?という状態になっています。「まち」が計画的につくられて衰退していくさまを、その中で体験してきたんです。

中西:「多摩ニュータウン」はモダニズムがキラキラと光輝いていたときにつくられたものですね。宮崎駿の「平成狸合戦ぽんぽこ」のストーリーのように、“もののけ“がいた里山や鎮守の森がモダニズムに覆われていって、今また、モダニズムが衰えようとしているさまを目の当たりにできるという。

南部:そうなんですよ。かつて減ったタヌキがまた増え始めているようです(笑)。
 
中西:里山が失われるという「原体験」、あるいは様々なところで出会ったモヤモヤした思いが、今の「森とどうやって付き合ったらいいのか?」という問題意識につながり、実際に森を買っていろいろ実験をしてみようというところにたどり着いたということですか?

南部:はい。小田木君と話していたんですが、今後「多摩ニュータウン」のような郊外都市の衰退が進み、空き家だらけになったとき、仮にそこが人の手の入らない自然や森に再び却っていくとしたら、我々はその自然たちとどうやったら良好な関係を結んでいけるんだろうか? 今、僕たちは、その実験をしているんだよねと。

中西:少し前に戸建てに引っ越したんですが、その前は10年の間に3つのURに住みました。うちのカミさんは、家を探すときに色んなマンションを見ても、URを見ると「ここがいい!」って言うんですよ(笑)。

南部:それ、わかる気がします(笑)。

中西:公園に囲まれた団地っぽい佇まいが安心するみたいで。タヌキがいなくなった自然とモダニズム的な人工物のバランスで生まれ育った彼女のデフォルトの感覚からすると、それが心地いいんだと思うんですね。どういう自然を良いと思うのかは、個人の「原体験」によるのかもしれませんね。

【*註1:アクター・ネットワーク・セオリー(Actor-network-theory):科学人類学者ブルーノ・ラトゥールらが提唱した社会科学における理論的、方法論的アプローチの一つ[3]。社会的、自然的世界のあらゆるもの(アクター)を、絶えず変化する作用(エージェンシー)のネットワークの結節点として扱う。略称:ANT】

人と馬が共創する遠野の森

南部:小田木君は最初から一緒にやっているメンバーです。

小田木:私は、芸大の建築科を出て、アトリエ系の建築事務所で様々な建築プロジェクトに携わってきた建築畑の人間です。ACTANT FORESTのメンバーとして、建築・都市計画領域を担当しています。
 私は周りが田んぼばかりの田舎に育ったんですが、数年前から茨城の水戸の実家で「自然農」の畑を始めたんです。最初は雑草も生えっぱなしで作物が育たなかったんですが、月に1回は帰って土いじりを続けているうちに、だんだん土ができてきて収穫できるようになったんです。田舎で育つだけだと「リテラシー」は身につかないんですよ。そのことを痛感して以来、そういったリテラシーを育てることのできる実践の場が、もっと近場に、都会にもあるべきだという思いを抱き続けてきました。
 自然に興味を持ち始めたのは、2005年頃、(株)プランタゴの田瀬理夫さんが岩手県の遠野市でやっておられた「クイーンズメドウ・プロジェクト」(*2)に参加したのがきっかけです。馬産が盛んだった遠野の馬を復活させて、馬と人が共に暮らす山里をつくろうというプロジェクトで、厩付き宿舎やカラマツを加工する工場をつくったり、馬の堆肥で育てる「馬米(うまい)」というお米をつくったり、いろいろな活動をしていました。

本江:僕もクイーンズメドウに行ったことがあります。いいところでした。単純な農業とか畜産とか林業というのともちょっと角度の違うことをいろいろやっておられておもしろかったです。「森」と言ったときにあの「馬」は一体何なんだろう。野生じゃないけど、家畜とも、観光農業とも違う。なんか名付けがたくて、モヤモヤします。

小田木:「馬」は歩いたり、草を食べたりして、森に道をつくってくれるんです。隣の家につながる道をつくってしまうというようなことが起こる。いつの間にか馬が勝手につくったインフラが森の中にできあがっている。人間が一生懸命道をつくるのではなく、馬がつくってくれた道を人間が利用するという、なんか妙な共創関係があるんですよね。
 今やっているACTANT FORESTの森も、最初は笹藪みたいなところだったんですが、シカやイノシシなどのケモノ道をちょっと広げて、人間が歩ける道にしているところです。
 その後、都市と自然をうまくブリッジするような活動ができないかなと、南部君と一緒に悶々と長い間考えていたんですけれど、東日本大震災があったり、様々な地球環境が脅威として人間の身に持って降りかかってくる状況が増える中、どういう都市活動、生活の仕方があるのかをもう一回考えてみようということでACTANT FORESTを始め、今に至っています。

【*註2 クイーンズメドウ・プロジェクト:馬と人とが共にある暮らしを営んで行くことで、 遠野らしい美しい景観が続いてゆくことを願って1999年に開拓を開始。2000年に水田、畑、放牧地を含む約3万9000平方メートルの敷地の中に、馬付き住宅を中心とする実験的な農場「クイーンズメドウ・カントリーハウス」を作り、2017年より一般の宿泊を開始。 http://www.facebook.com/queensmeadowcountryhouse

オランダのサステナブル系ムーブメント

南部:そして岡橋君。我々がちょうど森を買おうとしている頃、彼が前職をやめて独立し、家族と一緒にオランダに行くというのを聞き、サステナブル先進国であるオランダでいろいろナレッジを深めてもらうリサーチメンバーとして一緒に活動しませんかと声を掛けたんです。

中西:自然をどうとらえるかは、最初の話のように個人の原体験によっても違うし、国や地域によっても違う。オランダでは、海を干しあげて干拓地、いわば、人工大地を作ってきました。そういった半分人工的な自然と付き合うのがデフォルトのオランダの人と、鬱蒼とした森がデフォルトだと思っている日本人とでは、自然に対する感覚がだいぶ違いそうです。岡橋さんがいるオランダと日本の違いが浮かび上がるとおもしろいと思うんですが、オランダはどんな感じですか?(*3)

岡橋:オランダは国土のほとんどが平らな国ですが、シカが出るような森もあります。オランダ人は自然に触れることがすごく好きで、夏休みには2-3週間キャンプに行くのが普通な感じです。メンテナンスされた自然が都市の中にしっかり組み込まれていて、森や公園が生活圏の近くにあります。その「近さ」の感覚は、日本にはないんじゃないかと思います。そして「自転車の文化」もあって、自転車に乗って風を切る、森を眺めるという気持ちよさも味わえます。
 今、僕が住んでいるのはウーストヘースというライデンの郊外の小さい町で、家族と一緒に1年半前に移住してきました。2人が日本で森を開拓しているのを遥か遠くから見つつ、僕も僕なりに、タイニーフォレスト(*4)——「森」というよりも「庭」とのような緑の空間——の活動をしている人たちの間に紛れ込んだりして、いろいろなもののつながりを感覚的に体験しながら知見を広げているところです。
 オランダでは、サステナビリティや有機農法への関心がこの20年くらいの間にかなり高まり、新しい手法を試している人たちが非常にたくさんいます。日本の場合は、一部の人が流派的な活動としてやっているような感じがしますが、オランダでは非常にオーガナイズされた形で取り組まれています。誰でも組織できるよう、活動の仕組みをオープンソースとして公開して、どんどん数を増やしていこうという発想があって、オランダ全土での展開を目指すへーレンブーレン(*5)というコミュニティファームは、今では10箇所以上で展開されています。
 最近、アムステルダムノールドの、サステナビリティをテーマとした運河沿いの先進的スポット—「ドゥ・カーヴェル」(*6)を見てきました。テック(技術)ももちろんちりばめられているのですが、自分たちでできることを最大限の創意工夫でやっていこうという雰囲気に満ちていて、手づくり感に溢れたオープンでウェルカムな場の雰囲気をつくっています。これらの施設は、エネルギー&マテリアル、エコシステム&生物種、文化&経済、健康&幸福というような領域、あるいは相互の関係性をつぶさに検証した上で非常にシステム論的に設計されています。

南部:2人の話を聞いていて思ったのですが、オランダは「近代」「デザイン」を信頼しているんだと思います。自分たちで水を排出してつくった国ですから。新しい領域をつくってやるぜ、と自然をコントロールすることを目指している。対して、日本の場合は、ある特定の領域を掘り下げて、アンコントローラブルな自然に歩み寄っているという感じがします。
 ACTANT FORESTでは、あまり「自然、万歳!」みたいな方向に偏ってしまうとアクター(利害関係者)の少ない広がりのない活動になってしまうので、テクノロジーも信頼しつつ、両者のコラボレーションのバランスはどのあたりが良さそうか?を実験しながら模索しているという感じです。

中西: 南部さんが今おっしゃった、コントローラブルな部分、アンコントローラブルな部分の割合、人工的なものとワイルドなものの割合は、日本とオランダでは異なるんでしょうね。多摩センター、遠野、オランダそれぞれで培われた自然と人工との付き合い方のバランスがテクノロジーと合わさって、南アルプスのふもとの小さな森にブレンドされていくのはすごく興味深いです。

【*註3 インタビュー当日は岡橋さんはオランダからZoomに参加】
【*註4 タイニーフォレスト(Tiny Forest):都市のなかに緑の空間をつくりだそうという活動。空き地や施設の一角といったスペースに苗を植えて、小さな森を立ち上げようというもの。植物生態学者の宮脇昭博士が開発した緑化プロジェクトの手法をベースにインドの起業家が「ミヤワキメソッド」として展開。インドからムーブメントの輪が広がり、現在までに10か国44都市で45万本以上の木を植樹。138箇所もの森をつくりだしている。http://note.com/actant_forest/n/n922d8ba31b16 】
【*註5 ヘーレンブーレン(Herenboeren):ファームの参加メンバーが組織の経営に関わり、ファーマーを雇って野菜やフルーツ、豚・鶏肉、卵などを生産し、メンバーで分け合うという環境再生型農業の協同組合的な組織。ACTANT FORESTでは、これを参考に「コーポラティブフォレスト事業」のプラットフォームづくりに取り組んでいる。http://note.com/actant_forest/n/n4e09366ba62e 】
【*註6 ドゥ・カーヴェル(De Ceuvel):クリエイティブ産業に関わる人々や企業が集まるアムステルダムノールド(アムステルダム北部)にある施設。「クリーンテック・プレイグランド(クリーンテックの遊び場)」をコンセプトに運河沿いの一角を、人々が集まる場所へと転換させることに成功しており、オフィススペースやカフェ、野菜の栽培、リサイクル施設などが入居し、サステナビリティを意識した試みが数多く取り組まれている。 http://note.com/actant_forest/n/ndb537541f625 】

「食べられる森」フードフォレスト

本江:今までに、“林業でも農業でも畜産でもない”とか、“流派的な”とか、“オーガナイズされた”とか、いろいろな形の活動のお話が出てきました。山や森に入ってキャンプをしたり、リラックスするというような「森」との関わり方もありますね。ACTANT FORESTでは、それとは違うどんな独自の方向で「森」をひらいていこうとされているのか、どのようなイノベーションを起こそうとされているのか、その辺りをお話しいただけますか?

南部:今、一番力を入れてやっているのがフードフォレスト(Food Forest)(*7)です。これは何かというと「食べられる森」。果物や野菜などの食べ物が収穫できる森です。手つかずの自然でもなく、近代的な林業でも前近代的な里山というシステムでもない、次に来る「人と森の関わり方」ってなんだろうと考えていたとき、おもしろい記事を見つけたんです。
 カナダのブリティッシュコロンビア州に先住民が手を入れていた森が残っているんですが、先住民が追われて出ていって200年たっているにもかかわらず、未だに生物多様性が維持されていて、いい森が残っている。いろいろな果樹が植わっていて、人が食べられる果実も得られる。ということは、「農業と林業の間、畑と森の間みたいなフードフォレストがあったらいいんじゃないか?」ということになったんです。
 この記事をきっかけに、自分たちの森でもフードフォレストに挑戦してみようということになり、ディテールは小田木君が設計していますけれども、雑木と、中木、低木の果樹を組み合わせてどのような森がつくれるか検討を重ね、一本一本、森の中の荒れた土地に植樹しながら活動を進めています。

小田木:フードフォレストは、土と植物ネットワークの力を利用して果樹を栽培するんです。果樹の下の土の中には、森づくりにとって重要な微生物のネットワークがある。だから、植樹とともに、「土中環境」を整えることが非常に大切なんです。果樹を植えると菌糸が増えて、既存の雑木林がどういう影響を受けるのか、といった実験もしながら、これまでの自然との付き合い方とは違う実験的な森を、手を動かしながらつくっているところです。

【*註7 フードフォレスト:「フードフォレスト:森の多様性で食べ物を育てる」http://note.com/actant_forest/n/n44f643d8766a, 「フードフォレストのつくりかた:雑木と果樹の共生する森へ 地上編 」 http://note.com/actant_forest/n/n188bb0479cca 参照】

「食べ物」は人間と自然をつなぐメディア 

中西:ちょうど昨日、『料理と利他』[4]という本を読んでいたんですが、土井善晴さんがいろいろとおもしろいことを言っているんです。その中でも「『食べ物』は最も身近なところで人間と自然をつなぐメディアである」と。料理は、つくる人と家族をつなげ、さらに自然、地球ともつなげるものだと。人間は食べないと生きていけない。人間と自然の関係を結び直すとき、その間にワンクッション入る「食べ物」は重要なメディアなんだなと思います。
 おもしろいことに彼は近代主義的な都市に苦言を呈したりもしているのですが、技術としての都市が外乱をコントロールして自然のノイズを消そうとしているのに対し、料理は、産地や季節で野菜の状態がその都度違うから、アンコントローラブルであると。野菜にノイズがあって揺れているから、レシピ通りだけでやってもうまくいかない、「味つけもええ加減でええんですわ」と。これは、和食が持っている自然中心主義的な感覚ですね。

本江:土井さんは「料理はおいしくなくていい」って言ってて、すごいですよね。

中西:フランス料理が、粘土で足し算をするのだとすると、和食は、彫刻で引き算をして、野菜が持っているよさをうまく彫刻のように探り当てる作業であると。フランス料理はコントローラブルであることを、和食はアンコントローラブルであることを前提としている。僕らの食べ物との関係は、人間と自然の距離感と同じかもしれません。

本江:土井さんが、「食べられるようにするんだ。おいしいかどうかは二の次だ」と言っているのはラジカルだけど、ほんとうのことですね。「食べられるようにする」ことで関係を結ぶんだという態度がすごく重要なんです。
スマートシティで言うと、この「食べる」に当たることはなんだろう。人間がスマートシティとの関係を結びにくいのはコンピュータは「食べられない」からで、どうすれば「食べられる」ようになるのか。間をつなぐ「料理」のようなこと、あるいはさきほど出てきた「道を切りひらく」というようなことかもしれない。

中西:僕の授業ではスマートシティの「食べ物」が人間だと言ってます。それはデータ資本主義の根本的な問題かもしれませんが、人間の活動が食べ物になっている。

本江:なるほど。スマートシティが成長するとき、食べられているのはあなただ、と。

南部:形がよく整って、艶やかなリンゴを生産するというのはすごく近代的で、これまでのスマートシティ観に似ている感じがするんですよ。いびつだけどリンゴがなっていて、ふらっと森に行ったら食べられて、渋いけれどまあ食べられるな、というくらいのスマートシティってどんなのだろう?って思いますね。

都市の中に「森」をつくる

南部:その他に自然と人間をつなぐメディアということでは、僕たちは「微生物発電」にもチャレンジしています。土の中の微生物がエサを食べたときにつくり出す電気を利用した発電の仕組みで、LEDがポッとつくくらいの電気ができます。「自然とインタラクションする新しいメディア」をつくることが活動の一つのモチベーションとなっています。

中西:新しい関係を結びたいと思ったときに、つくるべきものは新しいメディア、ということなんですね。

南部:そうそう、インターフェースができるんです。

中西:生身の人間の感性や野生のようなものがきっかけになって、テクノロジーを使った新しい自然とのインターフェースはがつくり出されていく。Human-Nature inteactionの研究の重要度が増していきそうです。

南部:ドミニク・チェンさんの「Nukabot」もそうだと思うんですが、微生物と近代的なテクノロジーがつながることでコミュニケーションが可能になり、人間の身体性が変わっていく、というのがすごくおもしろいなと思います。

中西:実際に森の草を刈ったり木を植えたりしながら、身体感覚に何か新しい芽生えみたいなものを感じてらっしゃるんですか?

小田木:それはものすごくありますね。森の中に入って草刈りをしたり、木を植えていると、風の流れがわかるようになったり、食べられる植物やキノコがわかるようになります。

南部:草刈りをしているときに、シカを見つけたり、ヤマヒル(山蛭)に噛まれて血が出る体験は、キャンプ場の安心な場所で自然を楽しもうとか、癒されようというのとは違う体験ですね。小田木君がさっき話していたように、ACTANT FORESTの森は、ケモノ道を広げて人間が歩ける道をつくるところから始めているんですが、直行すれば近いところをケモノたちの道に合わせて、わざわざグルッと迂回しなきゃならない。でもそれが結果的に環境によかったりするんです。
 例えば、家族ぐるみで森に行き、トイレがないので躊躇なく野に放ったりしはじめている子どもを見ると、徐々に野性化しているなと思います。森に長くいると、震災やコロナに対する心持ちや、対峙の仕方が変わるというか意識や体ごと変わってくるなというのを感じます。

本江:うちの娘は虫がいやだからキャンプには行かないって言っていますけど、お話を聞きながら……新しいタイプの知性と付き合うとき、例えば「コンピュータの森」に対峙するときにどういう構えでいったらいいのか?「森」に入っていけるポテンシャルというのは個人の育った環境によって違うのか?「森」なら入れるが、ほかのところじゃだめなのか? というようなことを考えていたんです。水戸育ちの血が蘇るということなんですかね?

小田木:少なからずあるとは思いますが、学べば開く回路なんだと思います。

南部:ACTANT FORESTの最終目標としては、「都市の中の森」——都市の中で自然と付き合うことによって「身体性が変わって、感覚が変わっていく」、例えば今住んでいる世田谷の空き地を森化するような活動——をやりたいなと思っているんです。
 スマートシティにおいても、都市のつくり方やテクノロジー・デザインの設計思想に、「自然」というものが入ってくると「デザイン」の方法が変わる。自然とコラボレーションすることで、今まで想像し得なかったアウトプットが生まれる。そのアウトプットが、環境にとっても、人にとっても、都市にとっても良いものであったらデザイナーとしてすごくおもしろい。

中西:以前僕も世田谷に住んでいたんですが、果樹園や畑が残っていますね。僕も直売の野菜をよく買ったりしていたんですが、その辺になっているリンゴをふらっと食べられるような感覚の森——ドイツは公園のリンゴを普通に食べていいそうですが——タイニーフォレストのムーブメントは、今の都市農業とはちょっと違うベクトルなんでしょうね。

本江:フィンランドも森の中は果物もキノコも採っていいんですよね。

中西:そうみたいですね。うちのカミさんはむかしはベランダの植物にはなぜか水をあげない人だったんですが、今住んでいる家に引っ越したら、庭に植えられていたデコポンの木から楽しそうに収穫するようになって、花も植え始めたりしている。彼女と植物のインタラクションが激変したんでしょうね。デコポンを木から直接もいだり、柿を食べる鳥を見てだいぶ甘くなったんだろうと思うとか……そういう食べ物としての感覚が自然との関係を変えたんだと思います。もし、「食べられる森」が都市に入ってきたら、今の都市緑化とか都市農業とは全然違うものになるんじゃないかなと思います。

「折り合い」をつけて、自然と付き合っていく技術

南部:お話を聞いていて思ったんですが、人と自然が付き合っていく上で必要なのは、「対象と折り合いをつけて、なんとかうまくやっていく技術」なんじゃないかと。コントロールできないことを半分諦めつつ、受け入れつつ、まずいリンゴをいただく。さきほどの、コントロールできない自然の話などに共通すると思うんです。

石川:我々は、「『自然』は自分たちと切り離された良いものだ」というところからなかなか脱却できないんですね。リーブ・ノー・トレース(*8)というアメリカなどで実践されているアウトドアのプログラムは、自然にできるだけダメージを与えないで屋外活動をする技術を勉強するんです。それって、子どもがその辺でオシッコをすることの対極のものじゃないですか。「森」を、人間と自然がお互いに折り合いをつけていく場所なのだと考えれば、その間に線を引かず、自然の「ままならなさ」を受け入れながら少しずつ関係を最適化していくこともできる。
 「森」は一方的にいいものじゃなくて「ままならない」存在でもある。都市に建設プロジェクトとして「森」を導入しようとすると、その「ままならなさ」を持ち込むのが難しいから設計ができない。もし、世田谷に「森」をつくるとしたら、コントロールが難しい森とどう折り合いをつけていくのか。それが、単なる公園やガーデンではなくて「森」になるときのチャレンジなんじゃないかなと思います。
 逆に、我々「人」の側はどうなのか? 人間も自然もお互いさまで、「ままならない」森があれば「ままならない」人もいる。多摩丘陵の森林が人間に臣従して飼い馴らされていったように、激しくままならなかった人が「多摩ニュータウン」に住むことによって、都市的に飼い馴らされていくというようなことが起きているんではないかと思うんです。

南部:「多摩ニュータウン」育ちとしては、人も飼い馴らされているという感じは確かにあります。郊外から東京の都心の大企業に通う家庭の、ある程度世帯収入が同じ子どもたちが青年期までの期間をニュータウンで過ごすと、ある程度近代化した人たちが育つんだろうと思います。対して、おそらく下町、昔からの文化があるところで育った人には 「ままならなさ」がある。都市化によって折り合いをつけて付き合っていく「すべ」が失われていくのだとしたら、それも「都市の中の森」の重要な要素の一つになりますね。

本江:抑圧しているだけだから、心の底から行儀が良くなっているわけではないので、乱暴な下町っ子とあまり違わないかもしれないですけどね。見えないところで「ままならなさ」が出てくる。枝を切ったり花を摘んで、甘くてつやつやで真っ赤で丸いリンゴを無理につくると長くもたないとか。

南部: 「森」が世田谷にできることで、生物多様性とともに人の多様性も受け入れられるようになるというのが理想ですけれど。

本江:そう、リンゴをもいで食べちゃう人を受け入れないと。

石川:世田谷でそれをやると、かなりおもしろいことが起きそうだし、工夫が要りそうですね(笑)。

中西:僕の家の隣は農家さんなんですが、桜とかつつじの花びらや落ち葉が我が家の庭に落ちてくるんですね。その落ち葉を集めて掃除してるんですが、綺麗な花が咲くのを楽しませてもらっているからまあ良いか、と。そうしたままならない何かをイヤだと思う人もいるでしょうけれど、しょうがないなと思える人も増えないといけないということですね。

石川:……さっき、南部さんが「自然」というものが入ってくると「デザイン」の方法が変わるとおっしゃっていたのに符合するなと思うんですが——その桜やつつじの落ち葉や花びらは迷惑なものでもあるけれども、落ちてくるのが石畳の上だと「風情」になるし、土の上だと肥料になっていくというような「逆手にとるアプローチ」もあると思うんです。ひしゃげたリンゴとか、虫の食っているトマトをおいしいと思いはじめるというように、人の側がチューニングされていく、あるいは、改造されていくということもあるのかなと。

【*註8 リーブ・ノー・トレース(Leave No Trace):「足跡を残さない」の意。90年代に米国で発祥した、環境に与えるインパクトを最小限にしてアウトドアを楽しむための環境倫理プログラム】

おじさんも変われるスマートシティ

南部:もう一つ、スマートシティで人が変わらないと言ったときの「人」って、たぶんおじさんが中心なんですよね。計画する側の中心っておじさんが多くて、女性とか(*9)子どもとか、社会的に弱さを持っている人たちが、おじさんがつくったスマートシティで息がしやすいかというと、どうなんだろう? 「森」が介入すると、おじさんじゃない人たちが生きやすい別の仕組みのまちがあらわれるんじゃないかと。

石川:なるほど、それはおもしろいですね。「おじさんが生きにくい森」(笑)。

南部:おじさんには変容してもらって、「おじさんも生きやすい森」。

岡橋:「おじさんが変われる森」(笑)。

本江:さっきの「食」の話で言うと、おじさんの舌に合わせているから他の人にはおいしくないんですよね。スマートシティも「食べられる」ところまででよくて、おいしくするのはそれぞれにやればよろしい。

石川:今、構想されているスマートシティが、いかにおじさんに気持ちよくプランニングされているかということを検証するだけでも相当おもしろそうです(笑)。

【*註8 「『女性の視点』で森を考える:フェミニスト・フォレスト 参照 http://note.com/actant_forest/n/n7a22dead4a07

自分たちが変われば、未来が変わる

中西:人間がテクノロジーや自然と付き合うことによって新しい知性が生まれるんだとしたら、その知性同士でまた「折り合い」をつけていかなければならないということですね。ツイッターが出てくるまでは、ツイッターで人が喧嘩するだろうとは人類は予測していなかったと思うんですが、それと同じようなことがスマートシティにも、フードフォレストにも、タイニーフォレストにも起きるかもしれない。しかし、関係を結んだら産物として何かが生まれるのはしょうがないと諦めながら、それに向き合うしかないという気がします。
 一番最初の南部さんのお話にあったように、かつては輝ける都市であった「多摩ニュータウン」の木々も伸びきって、高齢化が進んでいる——都市計画がうまくいく部分もあるし、うまくいかない部分もあるという「ままならなさ」を、日本中の団地が経験している——ということを肌で感じているゆえに、かつての理想主義が年老いたように今の理想主義もいつかは年老いるだろう、という感覚が僕らの世代にはあると思うんです。今、スマートシティが種々のパーツで描かれるキラキラしたものに見えていても、たぶん40年後、50年後にはくすんでしまうのだろうと。そしてお三方のお話を聞いていると、いい意味で「ユートピア的」な感じがないのがおもしろいというか(笑)。すごく「地に足がついている」というか。ユートピア感がないと言うと、ネガティブに聞こえるかもしれないですけど。

南部:いや、全然いいです(笑)。

本江:ネガティブだと思っていないから。

南部:計画をあまり信じていないからでしょうね。

本江:こっちが変わってもいいと思っている。

中西:ああ、なるほど。

本江:そこに入っていってリテラシーを得たり、野糞しても大丈夫な子どもになるというようにこっちが「変わる」ということに対する恐れがない。「スマートシティを完成させます」というプランニング主義、設計主義とは違う取り組み方ですよね。インタラクティブに関わって、リンゴが食べられそうなら食べる、苦かったら吐く、でも慣れると「食べられる」ようになる。「食べられる」ようになるというのはこっちが変わったのであって、リンゴのほうは何も変わっていない。

石川:勝手にこっちが変わったんですよね。

本江:こっちが「食べられる」ようになることに期待をしているというか。都市づくりのように、我々が変わらずにいられるようにモノをつくるというのとは全然違う。併せて、我々にとってふさわしいように環境を整えるということでもない。森をひらいていくけれども、森を整えて居心地のいい場所にしようと思っているのとはちょっと違う。
 「スマートシティ論」が傲慢に聞こえるのは、つくる側に「変わる」気がないからですよね。環境を整えると最高に楽ができるようになるわけで、俺たちは何もしなくてもいいんだみたいな感じが、なんか……傲慢に聞こえる原因かもしれない。

石川:自分たちは変わらないことが前提になっていますからね。「多摩ニュータウン」って、コントロールされた美しい庭園都市だった時代ってほんの数十年しかなくて、森に戻っていっていますよね。いずれ世田谷もそうなっていくわけで、人が減っていって、至るところにネズミが出現して、森林化していくかもしれない。だから、今そうやって 「ままならない」森とうまく付き合って、人間を森の一部にしていくような、改造というかチューニングをしていく運動をする人たちがいて、やがて森林化する都市であらかじめトレーニングを積んでいるというふうにも考えられる。

南部:おっしゃるとおりだと思います。

中西:フードフォレストとかタイニーフォレストは、その先手を打っているような取り組みなんですね。

南部:はい。我々のほうだけじゃなくて、森にも変わってほしいということですが。テクノロジーも入れていきながら、人間と自然が共創してどうサバイバルできるか、というようなことかもしれません。

未来の森へ残るもの—「オイヌサマ」

南部:以前、共同研究者と一緒に論文を書いて米国のデザインの学会で発表したんですが[5]、「オオカミの護符」と言われるオオカミが描かれた護符が、多摩エリアの昔からある農家の家に行くと貼ってあるんです。毎年、御岳山の神社から御師(祈祷師)が降りてきて祈願した札を配り、地域の人が買うというシステムが「多摩ニュータウン」のエリアで江戸時代から続いているんです。
 現代に生きる昔の慣習をインタビューしたところ、当時は、農家の人たちがコミュニティから選ばれた人が毎年御岳山に登って、この札をもらって帰ってくるという儀礼があったそうです。「オイヌサマ」は、山岳信仰をもととした「多摩川流域をつなぐコミュニティ」づくりのメディアになっていたんです。
 この仕組みをActor-network-theory(ANT)やマルチスピーシーズ人類学的に言うと、縄文時代から多摩にいたオオカミが江戸時代には山の神として “オイヌさま”と呼ばれるようになり、オオカミに対する信仰をもとにしたネットワークがつくられます。そして「多摩ニュータウン」の開発の陰に隠れて残っている護符の慣習がコミュニティづくりのバックボーンになったと考えられるんです。
 「多摩ニュータウン」がかつてキラキラしていたような都市に戻ることはないのだから、すたれて森にかえるという未来も描きつつ、こういう前近代的なテクノロジーとしての別のコミュニティのあり方を探るという方法もあると思うんですね。
 ユートピアを求めるのでもなく、悲観的に考えるというのでもなく、別の取り結び方があるんじゃないか。それは「オオカミ信仰」かもしれないし、森をみんなで育てるという関係で取り結ばれる可能性もある。近代デザインという枠組みから外れると、もっと別の可能性があるんじゃないか。

石川:おもしろいですね。

本江:「オイヌサマ」のレイヤーがあって、その上に「多摩ニュータウン」のレイヤーがつくられたわけですけど、「多摩ニュータウン」が滅びたとしても、レイヤーが取り除かれて再びオオカミの時代に戻るのではなくて、それはそれでクシャッとレイヤーになる。今あるものが残って、その上に新しいまちがつくられて積層していくんじゃないか。
 そのときに、我々が未来に残していく「オオカミ信仰」に当たるネットワークはなんだろう。何かそこに未来に残る「多摩ニュータウン」ネットワークがきっとある。

石川:あるいは、新しい、何か他のもののためにつくられたネットワークのインフラを、「オイヌサマ」がハックするというようなこともあるかもしれない。

南部:ネットワークのつながり方が、「オイヌサマ」があることによって変わるとか…

本江:読み替えられるようなことはありそうです。

石川:例えば、グリーンインフラなどで、「流域」がすごく重要視されはじめているけれども、行政区界よりいにしえの境界のほうが重要になってくるということがありますね。そういうときに、謎のメディアというか、目先の効率と関係ない価値観で動いている「オイヌサマ」のようなもののほうが射程距離が長いかもしれない。実際、「流域」と関係がありそうですけどね。

南部:あります。江戸時代の多摩エリアの農民たちは多摩川の水を大切にしていましたから。源流の山や、流域のコミュニティを大事にした結果、オオカミがかつていた地域が残って、流域の自然保持にもつながった、というようなことがあるんじゃないかなと。

石川:流域の農業がすたれるにつれて「オイヌサマ」の根拠が不明になり、謎化していると思うんですが、むしろ、謎化しているものには理屈で反論できない強さがある。逆に、新しく地域を描き直すときに、その謎がベースになり、気がつかぬ間に「流域」が復活するということが起きるかもしれない。

中西:それは人間中心主義的に近代都市をつくるというのと違う意味で、その神社をコアにしたネットワークが武蔵国に生きていたということだと思うんです。ポスト人間中心主義というか、ノンヒューマンと折り合いを付けて一緒に生きていくということを考えていくと、この時代にスタートポイントを戻した上に、テクノロジーを乗せていく可能性もあるでしょう。

南部:前近代にこれから戻りますよというのは、かなり暴力的な話にも聞こえますが、「オイヌサマ」の農家のコミュニティは、みんなでお金を出し合って蓄えておき、誰か困っている人がいるときには、そのお金で助けてあげるPeer to peerの保険システムにもなっていて、おもしろいんですよ。

中西:なるほど。コミュニティにおいても、ゼロから発明するよりも、「昔のああ、あれだよね」と誰でもわかるネットワークにテクノロジーが乗っかるほうが人間にとってはすごく理解がしやすい。いろいろなヒントが、近代化が行われた以前の場所にいっぱい転がっているんでしょうね。今後、人が動物や植物と同じようにAIやロボットと付き合うアクターネットワーク(Actor Network)を構成していくとすれば、昔の態度のエッセンスはそのままに、何かしらテクノロジーを組み合わせていくというやり方も一つの戦略になっていきそうです。

【2022年1月5日 Zoomによるインタビューにて】
(テキスト・編集=清水修 Academic Groove

[1] 人間中心のデザインでいいんでしたっけ?01:アクタント マッピング キャンバス, https://note.com/actant_forest/n/n0f11dbd80f03 (2021).
[2] Monika Sznel,Tools for environment-centered designers: Actant Mapping Canvas, https://uxdesign.cc/tools-for-environment-centered-designers-actant-mapping-canvas-a495df19750e (2020).
[3] ブリュノ・ラトゥール, 社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門, 法政大学出版局 (2019/01).
[4] 土井善晴, 中島岳志, 料理と利他, ミシマ社 (2020/12).
[5] Tomohide Mizuuchi, Masako Miyata, Ryuichi Nambu, The Development of Modern Design Methods,through an Actor-Network Theory (ANT) Analysis of the Pre-modern Social Customs of Japan, The 7th International Congress of the International Association of Societies of Design Research, Oct, 2017.

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