オルシーという、確かに私の内面から生まれたはずの少女に思う。――長編小説「フィリ・ディーアが触れる世界」を完結させて。

 賽の河原の石積みってありますよね。幼い子どもが亡くなると、三途の川のほとりでいつまでも石を積み上げることになるという話ですが。私はあの話が嫌いでして。
 だって、早死にした子どもの罪を、どうして子供が背負わなくてはいけないのか。どう考えても早死にした子どもにその罪を背負わせるのはおかしい、その責め苦は親が背負うべきじゃないのかと、そう思うわけです。

――ですが、こうも思うのです。

 人生には理不尽がつきもので、こんなのは数ある理不尽の一つにすぎないよね、と。

  ◇

 私は先日、二年間にわたって執筆していた「フィリ・ディーアが触れる世界」という長編小説を完結させました。

 実は、どう物語を締めるのかはっきりとしたイメージがないままに書き始めた作品だったのですが。ちょっとね、構想を練っている途中に思いついたオープニングを、どうしても書きたくなってしまいまして。我慢できずに書き始めてしまったと、そんな感じでしょうか。うん、見事なまでの見切り発車ですね(笑)

 実は、アンチヒーローな主人公の物語を書こうとしてたんだけど、考えているうちに別の話になってしまったという側面もあったりしまして。その名残りでしょうか、主役さんたちよりも悪役さんの方がカッコいいと感じるような、そんな物語になってたりするのですが。
 うん、本当に見切り発車ですね。よく完結できたと自分でも思います。

 そんな、ちょっと無計画なままに書き始めてしまった作品ですが。一つだけ、はっきりと決めていたことがありまして。

――「生きるとは何か」を問いかけるようなを物語を書こうと、それだけは最初から心に決めていました。


  ◇

 子供のうちに亡くなると天国でも地獄でもない、別のところに行くという話は、賽の河原だけではありません。キリスト教にも「幼児の辺獄」という考え方があるそうです。
 多分、探せば他にも出てくるのでしょうね。少しネットで調べてみた感じでは、民間伝承のような、信仰の本流から少し離れたところにこういった話は多く見られるのかなと、そんな風に感じました。

  ◇

 ずいぶん昔に読んで、心に残っていた本があります。「麻意ね、死ぬのがこわいの」という題名の、あまり知られていない一冊の本。1993年に刊行された本で、五歳で白血病を発病し、七歳半ばを過ぎた頃に命を落とした一人の少女のことを書き綴った本です。

 もうずいぶん前に読んだきりで、内容もあまりよく覚えていないのですが。それでも、「生きること」をテーマに書こうと思ったとき、この本が私に訴えかけてきたものを盛り込もうと、そう思いまして。

 今、少しインターネットで検索してみたら、こんなキャッチコピーが出てきました。

「お祈りするけど、やっぱりこわいの」白血病とその苛酷な治療と闘う少女の声は、終末において医療現場と宗教とそして家族が何をなしうるか、何をなすべきかを問う。感動のノンフィクション。

 そうですね。確かにこのキャッチコピーにふさわしいような本だったと、そんな風に記憶しています。

 幼いながらも自分の行く先に「何か」が待っていることを感じている少女に、病院の中にある小さな教会の神父さまが「お祈りすれば天国に行ける」という話を通して「死」とは何かを説明する、そんな記述があったことだけは強く覚えています。

――私はこの本を読んで、小さな子どもは「死」とは何かを理解していないということに、初めて気付きました。

  ◇

 生きることをテーマに物語を綴ろうと決めて。そして、この本に書かれていたことを盛り込もう、そう考えて。そして生まれたのが、新教という名の宗教とダーラという敬虔で現実的なシスターと。
 そして、隔離病棟という特殊な病院の中で「近い未来に訪れるであろう死」を抱えた、オルシーという十四歳の少女でした。

  ◇

 物語の中盤、オルシーという子を登場させて間もない頃、彼女は自分の信仰する「新教」という宗教やその教えを説くダーラに、絶望的な怒りを抱きます。

(祈るしか無い。本当にタチが悪い。何せ、祈らなくては、他の人が救われないのだから)

――絶望しても良い。諦めたって良い。命をなくしたって良い。誰にも迷惑をかけない。昔はそうだった。いまの、このダーラを始めとした聖職者サマたちは、それすら許してくれない。

 この人たちがしたこと。祈りに、「今を幸福に生きる」という意味を持たせたこと。その祈りは、私のような、先のない人間にまで意味を持たせることになる。――だから、今を生きる私たちのために祈る。感謝の心が、他の誰でもない、自分たちに力を与えるのだから。

 オルシーは祈りを捧げる。その祈りが、自身の運命を変えないと知りつつも。祈ることで、家族に、親しい人間に、今も自分が一生懸命に生きていることを伝えることになるのだから。そして、ケイシーも、真摯に祈り続ける。例え、オルシーがこの先に待ち受けるであろう、避けえることのない運命に気付いていたとしても。自身の祈りが、オルシーに元気を与えることになるのだから。

(本当に、なんて悪質な)

 生きている間、「もう嫌だ、なんでこんなことをしなくてはいけないのか、先なんか無いのに」と、そう言うことすら出来ない。私のために祈ってくれている人を傷つけるから。諦めることなんてもってのほか。だから私は、今を必死に生きなくてはいけない。

――この人たちのせいで! この人たちの「教え」のせいで! この人たちが、そんなことを全部わかった上で、それでも「教え」を広めようとしているせいで!

 それでも。周りだけではない、きっと、私も救われている。そんな、普段通りのことを思い。そして、いつもの結論に至る。

 死後、どこか別のところに行くだなんて信じられない。それでも、出来ることなら、祈りを捧げてくれたケイシーのためにも、天国に行ってあげたいな、と。

――きっと今も、全てをわかったような、全てを受け止めるような、そんな笑顔を浮かべているであろうダーラに車椅子を押されながら、オルシーはそんなことを考えていた。

 この場面は、かなり自由にキャラを動かしていい場面でした。ダーラやオルシーに自由に行動をさせても良い、そんな場面です。それと同時に、オルシーが抱えていたテーマ、「麻意ね、死ぬのがこわいの」を読んで感じたことを表現するための場面でもありました。
 私はこの場面で、ダーラやオルシーにどんな行動を取らせようか、事前に決めませんでした。その時に最も自然な行動を取らせればいい、そう思っていたのです。

――だから、この場面でオルシーが「怒り」という感情を抱くことを、私自身がその時に初めて知ることになりました。

 やっぱりうろ覚えで申し訳ないのですが。その感情は、彼女たちの元になった「麻意ね、死ぬのがこわいの」という本には無かった要素だったと思います。

  ◇

 そうして、物語を書き進めて。再び自由に書くことができる場面で私は、新教という宗教を興した一人の聖職者に焦点を当てた場面を書くことになります。

 今日、僕は一人の悲しい子供を看取った。――きっと僕は、今日の日のことを、一生忘れることは無いだろう。

 その女の子は、まだ五、六才くらいだろうか。もともと生まれたときから身体が弱く、少し動いては寝込んでいたような子だったらしい。
 それでも、少しでも動けている頃はまだ良かったのだろう。少しづつ、動く時間は減り、寝込む時間は増えていき。やがて、動けぬままに苦痛に苛まれる時間が増え、安らかに過ごす時間が減っていき。
 そして、最近ではもう、動くこともかなわず、寝たきりの生活を送っているらしい。

「少し話をしてあげるだけでいいんです。お願いできませんか?」

 そう頼み込んできた両親から事情を聞く。その子は一年ほど前に、一度だけ別の神父に教えを説かれたことがあるらしいと。その神父に「いい子にしていれば天国に行ける」と教わったことを。

 その話を聞いてからずっとその子は寝たきりで。「いい子でいられなかった」ことを心残りにしていて。――そして、自分は近いうちに天国に行くことになると、その子はすでに悟っているらしいことを。

 その子に残された僅かな時間を、安らかに過ごせる助けになるのならと、その依頼を快諾し。

――翌日、その子は医師に鎮痛薬を投与されて。僕と子供以外の人は部屋から出て。その子供が落ち着くまでの間、静かに待ち続けた。



「神父さま?」
「ああ、そうだよ」

 やがて、痛みから解放されて。薬のせいだろうか、女の子は、少し眠そうな顔をしたまま、おとなしそうな声で話しかけてきて。

 その声に、できるだけ優しく答える。

「いい子にしていれば天国にいけるって、ほんとう?」
「ああ、そうだよ」

 女の子の素朴な問いかけに。どこまでも優しく答える。一切の疑問を持たないように。僕に心を預けられるように。

「ずっとお手伝い、できなかったけど」
「大丈夫。君はずっといい子だったって、お父さんもお母さんも言ってた。だから、君は天国に行けるよ」

 子供らしいかわいい言葉に、にこりと笑う。大丈夫、そんなことで誰も気にしないよと、自信をもって伝える。

「ほんとうはね、なんで外に出られないのかって、ずっと思ってたんだ。お父さんも、お母さんも、神さまも、なんで外に出してくれないんだろうって」
「大丈夫。君がそう思うことも、みんな知ってて、それでもいい子だって思ってるよ。お父さんも、お母さんも、神さまも」

 初めて出てきたかわいらしい懺悔の声に、大丈夫、その位で嫌いにならないし、神様だって認めてくれる。そう答えて。その声にようやく安心した顔を見せ。――僕の心のどこかに、チクリとなにかが刺さる。

「お父さんやお母さんを呼んでもいいかい?」

 自分で、心のチクリに気付かないふりをして。話している間に目もさめたのだろう、笑顔で頷く女の子に声をかけて。両親や見舞いに来た子供たちを呼びに、部屋の扉を開け。廊下で待っていた両親に声をかける。

 そうして、部屋の中に、女の子の大切な人たちが集まって。女の子は、集まった人たちと少しづつ話をして。やがて疲れたのだろう、すこしぐったりとしたところで、両親や医師を除いた、女の子と親しかった人たちは帰路について。

――やがて、再び眠る前に、両親に声をかける。

「ずっとお手伝いができなくて、ごめんなさい」

 そんな謝りの声に、大丈夫、気にしていないから、ずっとここにいるから安心して眠りなさいと両親が声をかけて。そんな両親に向かって、全幅の信頼を込めて、女の子があいさつをする。

――おやすみなさい、と。

 その言葉を聞いて、僕は、初めて気づく。この子は、「死ぬ」ということが何か、今まで知らないままだったということに。今も知らないままだということに。

 そして、この時以降、女の子が目を覚ますことは無く。この言葉が、その女の子の最後の言葉になった。

――こうして、一人の女の子が、まるで眠るように安らかに、天国へと旅立っていった。

 その後、この子のことを思い出すたびに思う。――こんな馬鹿な話があるだろうかと。あの子はお手伝いをするために生まれてきた訳でもなければ、苦しむために生まれてきた訳でもないのにと。

 あの子はただ、自分が満足に動けなくなって、必死になって愛情を確かめただけなのだ。生きるために。生きていくために。生きていていい、そう認められていると信じるために。

 誰一人として、あの女の子の不幸を願った者はいない。誰もが心を痛め、誰もが治ることを願った。その女の子も、誰も恨まずに、ほんの少しだけ、ささやかな、愚痴のような言葉だけを残して。ただ「いい子」のまま、そして、子供のまま、天国へと旅立っていったのだ。自身に襲い掛かった理不尽に怒ることすらできないままに。

 その生のあり方に、僕はどうしても納得が出来ずにいて。

――あの女の子が「この世に生を受け、生きる」ためにはどうすれば良かったのだろう。その問いの答えは、未だに見出せないままでいる。

――きっと、この神父の想いこそが、私が「麻意ね、死ぬのがこわいの」という一冊の本を読んで、知らずに抱えていた感想なのだろうと、そう思うのです。

 治療のできない病に侵された子どもがいて。その子どもは、命を散らす前に宗教によって「天国に行く」という一つの死の形を理解して。素朴な祈りで死を受け入れることができて。それは確かに、「救い」と呼べるものだと思います。
 きっとその子にとって最良の形で命を終えることができた、そう思いながら、それでもきっと、私はどこかで納得できていなかったのでしょう。そんな感情が、生きることをテーマとした小説を執筆している最中に「怒り」という感情となって漏れ出したのだと思います。

――それでもね、やっぱりこの子は宗教によって救われたのだと、そうも思うのです。

 賽の河原も幼児の辺獄も、子供に向けた話じゃないですよね。あの逸話を考えた人は、大人に向けて、その話をしたと思います。それはきっと、子どもを救うための仕組みだと思うのです。
 それを説いた聖職者たちはきっと、子どもを救うために自分のところに連れてきてほしいと、そんな願いのこめてこの話を説いたのだと、そんな風に思うのです。
 そしてきっと、そのあとに子どもを失った親も救おうと、そんな願いも込められた話だと思うのです。

――地蔵菩薩に救われるのは、賽の河原で石を積み上げる子どもではなくて、子どもを救うために地蔵菩薩に祈りを捧げる親なのかなと。

 賽の河原や幼児の辺獄というのがどれだけ理不尽な話だとしても、幼くして命を散らす子どもがいるという現実がある。不幸な子どものいない世界が一番なのだけど、今生きている世界はそんな世界じゃない。
 だから、「今」命を散らしていく子どものために、たとえ納得ができなくても出来うる限りの救いを与える。宗教家というのはきっとそういう人たちで。それでも、やっぱりその話は理不尽で。

――人生には理不尽がつきもので、これもきっと、数ある理不尽の一つにすぎないのかな、と。

 そして、理不尽な世の中だから宗教はあって、理不尽な世の中だからこそ宗教による救いは必要なのかなと、そんな風に思うのです。

  ◇

 賽の河原も辺獄も、罰を受ける場所ではない。生きることを知らずに生を終えた魂が行き着く場所だと思うのです。

 きっと、賽の河原で石を積み上げている子供は、そのことをつらいだなんて思っていないと思うのです。石を積み上げれば親のためになると思っていて、ずっとそうしている。石を積み上げて何かを作るのが目的ではなくて、ただ親のために石を積み上げたいだけなのかなと。

 そりゃあ、生活してればね、子どもが子憎たらしいと思うこともあるし、だだをこねるしわがままも言う、本当に子育ては大変だと思います。……それでもね、親は自分の子どもを好くものだと思うし、そんな自分を好いてくれる親のために、親が喜んでくれることを、子どもだってやりたいと思うのです。
 だからきっと、親のためになると信じて石を積み上げている子供はつらくなんてない、むしろ楽しいんじゃないか、なんて思います。

――でも、それを見る大人はつらい思いをする、これはそんな話なのかなと。

……実は生活も豊かになった上に兄弟の数も少なくなった現代においては、子どもたちも親の束縛から解放されたと、賽の河原で石も積み上げずに伸び伸びとだらけて過ごし始めてるのかもしれませんが。
 で、それを見た鬼が「まったく、これだから最近の子供は」とか「親の顔がみてみたいわ」と嘆いたりしているのではないかと、そんな可能性もあるのかなと。

――そんなアホなことを考えたりもするのですが、どうなんでしょうね。もしかすると、今は違う話が必要なのかもしれませんね(笑)

  ◇

 作中で、十代で尽きるはずだったオルシーの寿命は少しだけ伸びて、彼女がやりたいと思うことができるだけの時間を与えられます。そして、彼女の命が散る前に物語は幕を閉じます。
 その与えられた時間をオルシーは生き抜いて、終幕の先で、彼女はこの世に生を受けた意味も手にすることになると思います。

――それでもきっと、彼女は怒りを、最期まで抱き続けると思うのです。

 その怒りは、生きることの理不尽に対する怒りで、その理不尽と戦うために別の理不尽を選択した人たちへの怒りでもあって。何より、その理不尽を理解し受け入れた自分自身への怒りでもあるのかなと。

――これはきっと、彼女が正しく生きるために必要な怒りなのかなと、そんな気がするのです。

  ◇

 作中でオルシーは、先の神父さまについて、こんな言葉を漏らします。

「私にはね、フィリ、この人の怒りが良くわかる。同じような状況だったら、私だってきっと怒る。でもね、それでも、――私はこの人たちが作った『新教』というのが、大嫌いなのよ」

――このオルシーの言葉はきっと、私の感情が元になった言葉だと思います。ですが、この言葉はオルシー自身の言葉だと、そんな風にも思うのです。

  ◇

 私はこの物語を書ききって。きっと書き始めるときには気付いていなかった「怒り」を、彼女や新教の人たちに乗せることになりました。

 私はこの物語の作者です。この物語は私自身が生み出したのだと、胸を張って言えます。

――それでもきっと、オルシーの抱いた感情や言葉は、私ではない、オルシー自身が抱いた感情や言葉だったのかなと、そんな風に思います。

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