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論理的な文章は美しい

でも、美しい文章は必ずしも論理的ではない。

「美しい」の定義は千差万別だ。そんなのは、ギリシアの哲学者たちの時代からかれこれ二千年以上も議論され続けている。答えのないことが答えだと気付いていながら、普遍的なそれを求める衝動が止むことはない。

ぼくは、論理的な文章が美しいと思っている。詩や小説のような文学的な文章と美しさを比べるつもりはないし、比べようもない。美しいものを1つ挙げよと言われたらそう答えようかなぐらいの気持ち。そんな感じ。

論理的な文章は、基礎的な言語能力さえ共有していれば相手に必ず伝わる。相手は受け入れる以外の選択肢を持たない。受け容れないとすれば、それは単に読んでいないか、感情的に拒絶しているかのどちらかだ。

論理という名の水路は、明快な道筋を持つ。途中、曲がったりアップダウンを経たりしながらも、そこを流れる水は淀みなく終点に向かう。この淀みのなさが、美しいと思っている。

論理と感情。ここのところ後者が優勢の風潮にあるが、感情だけで事済むなら苦労しない。感情とは温度だ。熱い水と冷たい水がすぐには混ざらないように、感情は交錯する。淀む。

共感とは感情を共有することだ。今、時代は共感を求めている。温度が近い人をたくさん集められるのが良いとされる。それは時に、周りに温度を合わせることを要求する。いつしか淀みが消えていた。そもそも淀みに気付いてすらいなかった。淀みは、後からじゃ見えない。

社会は淀んでいる。色々な感情がもつれ合っているから。温度を上げるのも下げるのも、エネルギーを要する。エネルギーを使って打ち解けるのはカッコいいし、完全燃焼は美徳だ。でも、一昔前に比べてずっと多くの人と出会えるようになった今、エネルギーを投じ続けることは難しい。温度調節を誤り、かえって淀みを作ってしまうこともある。

論理は淀まない。だから論理は、今もなお社会で幅を利かせている。温度にかかわらず、誰に対しても淀みなく届くから便利なのだ。間違いなく届けるために論理を使う。論理には、温度がない。

これは、社会の一般ルールが敬語なのと似ている。丁寧語と言った方が適切かもしれない。極端な尊敬と謙譲を除けば、敬語には温度がない。誰だって他人と諍いはしたくない。だから初対面の人には敬語を使う。淀まないように。温度を感じさせないように。

論理的な文章は、伝わる。ロラン・バルトの言葉を借りれば、エクリチュールが零度の文章だ。感情が不在の文章。一見すると伝わらなさそうだが、余分なものを捨てたそれは一切の空気抵抗を受けず、軽やかに、ただ伝わるという目的を果たす。そこでは、余白を重んじる俳諧や和歌のような、引き算の美学が体現されているように見える。

伝わることがすべてではない。研ぎ澄まされた分だけ鋭くなった文章は、放り投げられてしまえば止まることなく走り続け、相手を傷つけることもある。淀むことも必要だろう。それに、波紋と波紋が重なってできるような美しさを言葉で紡いでみたいと思うときだってある。残念ながら、それが淀みではなく、さざ波と表現すべき何かなんだろうなということぐらいしか、ぼくにはわからないのだけれど。

論理的な文章は美しい。淀まないその潔さは、日本的な美でもある。
その美しさに、ぼくは惹かれている。

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