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お返しの心

こないだある友人が「自分はいつも、受け取ってばかりで」と零していた。たまたま、ぼくがちょっとした言葉をかけたときのことだった。

振り返ると、仕事でも似たような言葉を掛けてくる人に出会うことが少なくない。友人も同僚も、自分が相手から受け取った分、同じだけ誰かに手を差し伸べたくて自然と溢れた言葉だったように思う。

受け取ることと、与えること。

先週、初めて会った取引先の方から「今のお仕事は何年ほどされているんですか」と聞かれた。5年くらいですと答えたら、「長いですね」と仰っていた。世間的な会社という組織で働く人間にしては、一つの仕事に長く従事しているほうなのだろう。

長くいる分、他の人が知らないことを知っていたりする。単に重ねた時間の差でしかないのに、知っていることを伝えただけで御礼を言われてしまうと、何だか居たたまれない気持ちになる。いや、そんなかしこまらないで。もっと詳しい人いるし。こっちが申し訳なくなってしまいます。

なんたって、ぼく自身にもまだ知らない、わからないことが山ほどある。毎日頭を抱え、上司や同僚に助けてもらいながら何とか仕事をしている。新しく始まった案件はスケールも大きく、とてもじゃないが一人では全体像を描くのも覚束ない。

仕事は一人ではできない。だからみんなで知恵を出し合う。とはいえ、誰かに助けてもらうと恐縮し、自分も誰かの役に立たなければと背筋を伸ばす。自分だから手渡せる価値は何だろうと模索しながら。



冒頭の友人からそんな言葉を聞いたとき、まず思ったのは「ぼくもきみからたくさん受け取っている」だった。事実、アドバイスをしてもらったことが何度もあったし、きっと、ぼく以外の誰かにもたくさん与えている人なんだろうなと思っている。

友人は、繊細な感性の持ち主だ。人の機微や日常の些細な変化を捉えるのが上手で、見逃してしまいそうな何気ない瞬間にもそっと言葉を添えてくれる。傍目で見ていて、自分もこうありたいと感じる場面が多い。

仕事は一人ではできない。同じように、普段当たり前みたいに回っている日常も、知らない誰かの支えがあって成り立っている。

すべてのコミュニケーションは交換である。対話をすれば、言葉が返ってくる。沈黙には沈黙のメッセージが存在する。どんな取引も、対価を支払った自分に商品・サービスを享受する権利があるというより、受け取ったものに対するお返しを、広く融通の利くお金という形でしたにすぎない。

お返しは、日本独特の文化だとよく聞く。英語にも "in return"(お返しとして)という表現はあるが、 引き出物、内祝い、香典返しといった豊かな日本語を眺めていると、受け取ることに特別な想いを馳せてきた風土が窺える。

何を返すか以上に、何を受け取っているかに重きを置く。形式的な儀礼と揶揄されることもあるが、本来お返しは、届けてもらったものを慈しみ、感謝するからこそ自然としたくなるものだ。そしてその一歩目はいつだって、受け取っていると気付けることから始まる。



友人も同僚も、たくさん受け取れる人なのだと思う。些細な出来事も見過ごすことなく、込められたメッセージを読み取っては、ちゃんと両手で確かめている。気付けるだけ、受け取ってばかりと思ってしまうのかもしれない。

noteでの創作然り、生み出すことは一昔前と比べてずっと容易になった。今日も至るところで新しい何かが芽吹いている。意欲の源泉は人それぞれであっても、生み出すからには、何らかの価値を提供したい。どうすれば生み出せるのか、与えられるのかと頭を悩ませているうち、周りから差し伸べられる手の美しさに怖気づきそうになる。

だが、受け取ってくれる人がいるからこそ生み出せるのだとすれば、受け取った時点で手渡せているものがあるんじゃないだろうか。

日々、溢れるほど生み出される「与えたい」の多くがただ消費され、あるいは見過ごされている。繊細な感性が捉えた小さな揺れ動きは、誰かが必死に振り絞った声かもしれない。受け取ってもらえるだけで心安らぐ人は、思っている以上にたくさんいる。

受け取ってばかりと零していた友人も同僚も、本当は誰よりも与えられる人なのだろう。彼らが人一倍たくさん受け取って、気付かないうちにそっと手渡してきたものがきっといくつもある。それはどれも他ならぬ「お返し」であり、真摯に受け取るからこそ手渡せたもののはずだ。

お返しは、give でも take でもなければ gift でもない。受け取ることも与えることも忘れない気持ちが、やわらかくまとまって一つになっている。自分も、そんな素直でやさしい心を持って、生きていきたいと思った。


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