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ぼくらは今日も「スキ」を押し、世界を気軽に分断する。

ハートやサムズアップのマークを押す生活に慣れたのはいつからだろう。

ぼくがインターネットを始めたのは2000年代の初め。テキストサイト最盛期と思しき時代に小さな自分のサイトを作り、くだらない文章を細々と書いていた。HTMLやCSSは最後までようわからんかったけど。

サイトのコンテンツはHOME、READ ME、DIARY、TEXT、BBS、LINKといういわゆるベーシックな構成。画面左をメニューバー(当時はフレームとか呼んでた)にする2カラム型で、FlashもMIDIも使わないけど、キリ番を用意しながら、バナーは直リン禁止で相互リンクを歓迎するやつだった。

という回顧録はさておき、この頃から日記や掲示板へのコメントをしてくださる奇特な方々と、ちょっとした交流を楽しんでいた。自分の書いた作品に寄せてくれる感想だったり、他愛もない日々の会話だったり。

それはどれも、文章だった。

あの頃はまだSNSもなかったから、当然「スキ」「いいね」といったものはなかった。誰かの創作にリアクションするためにはコメントを書き込むしかなかった。「カキコ」(書き込み)という言葉が普通に使われていたことを今思い出した。みんな、自分の創作へのカキコを待っていた。

当時そういうことを楽しんでいた人の数と、現代のSNSのユーザー数には天と地の差がある。情報が増えればあらゆる場面で効率化が求められる。タップするだけで他者へ反応を伝える手段が広まるのは必然だった。

コメントが「スキ」「いいね」に代替されてしまったとまでは思っていない。ハートやサムズアップを押すだけで好意を伝えられるのだから、コメントを書くのを躊躇っていた人にとっては朗報である。総量からいっても、世界の好意は確実に増えたはずだ。

ただ、塗られるハートの色や上げられた親指の角度は常に一定である。ちょっといいなと思った文章も、息を呑むほど美しい文章も、タップに委ねてしまえばその好意は1という数値に還元されてしまう。

色を塗らない「スキ」や指を上げない「いいね」は0である。それは好意の伝達手段がカキコしかなかった時代から同じ話であって、取り立てて悪者扱いする必要はない。

でも、「スキ」「いいね」がインフラと化したことによって、それらのない状態が「スキではない」「よくない」に近いメッセージ性をもってしまったような気がして。

「スキ」「いいね」という言葉は強い。その強さが、これらの言葉の対極を否応なしに浮き立たせる。本来ならグラデーションであるはずの反応の多くが、白と赤に画されてしまっているという事実が確かに存在する。

何も反応しないことは0のはずなのに、それを-1と感じてしまうときがたまにある。無関心が無関心ではなくなってしまったとも言える。無関心、すなわち好意の非表示が関係の断絶と受け取られることを怖れ、とりあえず色を塗り、指を上げるようになる。空虚な好意が増殖する。

日々メディアが世界をわかりやすく二項対立の構造に還元しようとしているように、相対性や脱中心化が謳われる現代においても、二元論は根強く残っている。SNSが促進ないし助長してきた好意の単純化によって、息を吹き返しているともいえる。

コメントは、文章は、中間色を塗ることができる。親指の角度も自由自在だ。グラデーションがあると叫んでも届かない声を、届けることができる。その声は、分断された世界のどちら側に立つかという迷いとは無縁である。

noteはよくコメント欄で「よかった記事には感想を送ってみませんか」と声を掛けてくる。今や揺るがすことのできない「スキ」というインフラを整備する一方で、なおそうした好意の単純化に抗っているように見える。

「スキ」「いいね」が多くの人の創作意欲を後押ししていることに疑いの余地はないんだろう。だけど、その反射的効果がどこかで創作の足枷にもなってしまっているのではないかということに、どうしても疑いの目を向けてしまうのだ。創作者としてだけではなく、鑑賞者としても。

あの頃のカキコはみんな違う色をしていた。今日もぼくらは「スキ」を押して世界を気軽に分断するんだろうけど、もっと言葉で伝えることを大切にしたい。言葉にしてしまえば好意は枠に収まってしまうけど、靄のまま見えないよりはきっと、いい。

そう思ってしまうのは、単なる懐古趣味を伴った言語化の賞賛だろうか。

グラデーションある自分の気持ちを単純な数値に還元させないための矜持すら、揺らいでしまうようで。

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