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趣味とは、生活の美学化である

今まで出会ってきた趣味の定義で、一番しっくりきたのがこれ。趣味について悩んだことのあるすべての人と分かち合いたい。

出典は下記の本。無理かもしれないけど、平日だし軽めに書きたい。ちなみにぼくは陽光の降り注ぐ芝生の上でヨガはしません。


趣味は人を自由にする

本書の最終章は、記事タイトルの前後の文脈で次のように述べている。

表現も生活も、現在において、そしてそれに続く直近の未来において、みずからの手によって組織されプロデュースされる趣味の作品になるのです。そこでは、大衆ひとりひとりの「わたしだけの人生」という究極的な「アウラ」が存在しているのです。人類にとっての近代(モデルニテ)とは、人間存在の本質的なあり方が「労働」から「趣味」へと移動するそのプロセスにあったとすら言うべきなのかもしれません。(P.320)

「アウラ」はラテン語。スペルで綴ると「aura」で、英語の「オーラ」に相当する。そのものが放つ特別な雰囲気のことらしいけど、ひとまず自分だけの特別な世界ぐらいに思っておけばよさそう。

趣味が、人間を労働から解放するとも読める。働き方改革の進展に合わせて、自己実現を全面に出すリクルート広告がやたらと目につく今日この頃。よく自己啓発書にもあるように、「働く」とは傍(はた)を楽(らく)にさせることで、本質的に自分以外の誰かのために行うものだと思っている。過剰に自己実現を煽る風潮には若干の疑問を覚えるのが正直なところだけど、あらゆるものが多様化している今の世の中、好きなことに夢中になるのはとてもカッコいいことだと思っている。

趣味は、ある意味では個人の存在の感覚的な全体性の表現です。それは、個人がみずからの生活存在を、単に経済的合理性や社会的に強制された規範にしたがってではなく、――いくらかの自由とともに――創造的に自己組織することを意味します。しかし、その組織の根底にある判断は根本的には「好き」、「嫌い」です。あるいは、そのあまりに強い主観性を少し緩和するなら、「おもしろい」、「つまらない」です。(P.320-321)

単に経済的合理性や社会的に強制された規範にしたがってではなく」という一節が、趣味の本質を突いていると思う。まるで永久機関を目指すかのように、成長をやめると息絶えてしまうかのように迫ってくる"社会"を前に、未だ多くの人が五里霧中でいる。

趣味は、人をそんな世界から自由にする。

この判断は、本質的にその判断主体を係争の場に置くことはありません。ある個人が「好き・嫌い」と判断するときに、原則的に他者はそれに異議申し立てをすることができません。…ただ、「わたしも同じようにそれが好きだ」という言明しか求めていません。コミュニケーションは趣味の確認的共有になり、そこに小共同体が成立することになります。(P.321)

趣味の世界に係争(争い)は存在しない。あるのは「私はこれが好き」という尺度だけで、「価値」は、交換価値の呪縛から解き放たれる。それが経済合理性という名の暴力から逃れるための唯一の手段であるかのように、人は、縋るようにして趣味の世界を求める。


趣味を「芸術」に昇華していこう

しかし、そんな趣味の世界における価値判断は、現代社会にあってはもはやシステムとして機能してしまっている。好悪の判断はシンプルで、誰の批判にも晒されないがゆえに、人と人とを容易かつ強力に結びつける。これに気付いた社会は、その力を惜しみなく活用し、好悪判断という一見すると心地良い世界へ人を無意識のうちに沈ませようとしてくる。

だけど、世界とは本来、そんなに単純な、感覚的なものじゃない。本書は、高度な資本主義社会で芸術にどのような居場所があるかを危惧しつつ、そんな当たり前の事実を教えてくれるものこそ、芸術だという。芸術は、安易に趣味判断が行われることを拒絶する倫理的次元に人を連れ出してくれる。

真正な意味での芸術はけっしてなくなるということはありえません。われわれがみずからつくりあげる感覚世界が、しかし単に「快」や「好悪」の判断に供されるのではなく、われわれにそうした二者択一的な判断を許さない、根源的な「他」の関係を開示する――そのような真正さは、けっしてなくなることはないのです。(P.324)

自分以外の他者、すなわち世界との対峙の仕方は自由だ。何を好きになってもいい。その意味で、今や「趣味」という言葉の支持率は絶大になっている。夢中になれることはカッコいい。夢中になるものを見つけたい。

だけど、趣味をもっともっと自由な世界の話として理解することで、本書の言い方を借りれば「個人の自由の権能として美学化」することで、生活はもっと豊かになる気がする。芸術はそこらじゅうにある。生活のすべてが、解像度を高めることで自分だけの芸術になり得る。それはもう、好悪なんて安易な物差しでは測れない、感覚の世界を超えた美学として。

趣味を安易な形で押し付けてくる社会に飲まれないよう、自分が興味を持ったことは、好きとかそういう次元を超えたぐらい自由なところで謳歌したいなと思っている。

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