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価値ある情報とは

パブリックな環境で文章を書くたび、ふと脳裏をよぎる観点。この点に関して、下記書籍の気になる一節を思い出したので書いてみる。

キュレーションは「価値」か

まずは気になった書籍の引用から。

(デジタルネイティブの世代は)下手に自分で「独創」するよりも、世界中の知のクラウドから、ほどほどに適切な答えを短時間で導きだせることの方が、いやそのスキルそのものが、「知である」という「実感」を持っていると推察されるのである。…(中略)…経済は希少なものに価値を許す。「今何に注目すべきか」という情報にこそ意味があるのであって、生のデータ自体は、どうしても価値を下げていく運命にあるのではないか。

上記引用は、筆者が音楽の創作活動について解説した上で、大学のレポート・学術論文の「オリジナリティ」(裏を返せば剽窃)を問う文脈における一節である。筆者は、デジタルネイティブの世代が知の「消費者」にとどまり、本当の意味での「生産者」になり損ねかねない点を危惧する。

ぼくが大学に入ったのは10年ほど前。いわゆるガラケー最盛期を高校生として過ごした世代なので、デジタルネイティブと呼ばれる世代ではない。しかし、筆者の述べる「知に対する感覚」は、今やデジタルネイティブに限らず共感できるところではないかと思う。筆者は、あらゆる分野で「ポインタ」の重要性が高まっていることを指摘するが、これは、現代社会におけるキュレーションメディアの価値の高まりに同義と考えられる。

キュレーション(curation)の意味については、下記サイトの説明がわかりやすいので、その定義を述べた部分を引用しておく。

キュレーションとは、Web界隈では特定の切り口でインターネット上にある情報を選定し、公開するという意味の言葉です。
元は博物館や美術館などの展覧会などを企画する「キュレーター」から派生した言葉です。キュレーターは様々な美術品などから、展示テーマに合わせて内容をキュレーションする職業の人を指します。

キュレーションメディアは、NAVERのようないわゆる「まとめサイト」に端を発し、スマートニュースに代表されるニュースアプリも、様々な分野に特化したものが現れてきている。しかし、いずれも2次・3次情報であり、数年前に医療系まとめサイト「WELQ」が告発されたように、その情報の信頼性等に対しては警鐘を鳴らす声が止まない。

筆者は「『今何に注目すべきか』という情報」の価値が高まっていると述べる。しかし、キュレーションとは「情報を選定し、公開する」という「機能」にすぎず、生データ(1次情報)と並列されるべき「価値」と呼べるのかどうか、ぼくは疑問に感じる。メディアとしての価値であれば理解できるが、それは「情報」の価値とは異なる。

誰もがキュレーションメディアの時代

キュレーションメディアは何もサイトやアプリに限らず、ネット上で情報発信する全ての人がその機能を有している。

これだけ情報の溢れかえる社会において、1次情報の発信だけで価値を生み続けることのできる人は少ない。量産される情報発信者の数の方が圧倒的に多いのだから、2次・3次情報の発信により価値を生み出そうとする人が多いのは必然。SNSの「シェア」という機能はその最たる手段であり、フォロワー数というわかりやすい指標が、その人の発信する情報の信憑性を担保している。冒頭の書籍の筆者の表現に倣えば、フォロワー数が価値を担保しているとも言い換えられる。

情報をシェアするにあたって、どの程度自分の見解を付与すれば「1次情報」としての価値を有することになるのかはわからない。やや余談ながら、この点に関しては、昨年9月に出た下記の裁判例が印象的だった。地裁判決ではあるが、コメントを付さずに単に情報を拡散するシェアは、当該情報への賛同を示す可能性があることが示された。2次・3次情報の量産に歯止めをかけるきっかけになるかもしれない。

フォロワー数に加えてもう一つ分かりやすい価値の指標が、「いいね」や「スキ」が示す「共感」の数である。「イマイチだね」「微妙」といったボタンがないので、これらが必ずしも「共感」を意味しているとは限らないが、概ねそのように理解して差し支えないと考えられる。

その人が発する情報に共感できるからフォローするのであり、自分の世界観と相対立する人をフォローする人が例外的だという前提に立てば、フォロワー数も「共感」の数に相当する。言葉に対する「共感」の威力は、対面コミュニケーションが減っている現代において、今や絶大な力を持っている。

「信頼ある知の証明書」じゃつまらない

冒頭の書籍の筆者は、次のようにも述べている。

「信頼ある知の証明書」を提供するような仕組みにこそ、人はお金を払うだろう。その意味で、知のアクセスの仕方を深く教える大学や、優れた書籍、有力なメディアなどは、「ポータル・メディア」としての価値をむしろ高めていくようにも思う。そしてそれは、「情報」というよりも「知識」の拠点でなければ評価されないはずだ。

ぼくは日本酒や法律に人一倍の興味はあるが、その道の専門家ではない。もちろん、専門家でなければ知の証明書を発行できないというわけではないが、準専門家的な人は世の中にごまんと存在している。

準専門家たちが生み出しているものの多くは、生データという「情報」としての価値ではなく、キュレーションという「機能」としての価値のように見える。この記事も、ぼく自身の考えるところを書いているつもりだが、キュレーションの「機能」でしかないと言われると具合が悪い。コロナの話題が巷を席巻する中で、そもそも何をもってして専門家と捉えるべきなのか、ぼくらはわからなくなっているようにも感じる。

先に書いた疑問の繰り返しになるが、どの程度自分の見解を付与すれば「1次情報」としての価値を有するのか。学術論文もその大半が既存の情報のパッチワークであり、オリジナルとは所詮既存の組合せにすぎないのだから、キュレーションの「方法」に価値があることは疑いようのない事実だ。

しかし、世の中の情報発信者の多くが、少なくともこの「note」という場で文章を書く人が求めているのは、「機能」としての価値ではなく「情報」としての価値を発信することだろう。noteが「クリエイターとユーザをつなぐ」プラットフォームである以上、当然かもしれない。

「共感」という指標は、自分の発揮している価値が「機能」と「情報」のいずれであるかを往々にして混同させる。「信頼ある知の証明書」に対して多くの共感がなされるということは、何よりもその機能が「求められている」ということにほかならず、価値があることの証左だ。そうした証明書となるための審美眼を身に付けることはとても難しく、そこには目指すべきやりがいもある。

それでもなお、「情報」としての価値を発信したいとさせる理由は何なのか。「共感」という他者との関係を前提とした指標では測り得ない何かがそこにあるのだとしたら、それは自分自身の中にしかないはずだ。となるとそれはやはり、「そんなんじゃつまらない」というシンプルな内発的動機なのかもしれない。

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