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文章にはまだ、丁寧が許されている

リモートワークの普及に伴い、テキストコミュニケーションの機会が増えた。チャットでのやり取りが多いがメールを送らない日はないし、隙のない説明を求められることが多いから、必然的にある程度の分量の文章を書いている。書くのが好きでよかったなと、つくづく思う。

この4月で、今の部署の生活は6年目を迎える。在籍年数が伸びるにつれて質問を受ける機会も増えてきた。リモートワークで接点も限られているから、できるかぎりそのタイミングで相手の力になりたいと思うのだが、往々にして回答の文章が長くなってしまう。

そんなぼくの文章に対して、「丁寧にありがとうございます」と返事をくださる方がいる。素直にうれしい。一方で、本当に丁寧な対応ができていたのかなと省みることも少なくない。冗長な回答だったのではないか、無駄な情報を添えて逆に混乱させてしまったのではないか、といった具合に。



「タイムパフォーマンス」という言葉がある。玉石混交な情報の洪水に流されそうな日々を過ごしていると、誰だって、求めている情報だけを効率よく吸収したくなる。映画を早送りで観たい人がいても、何ら不思議ではない。

かつて、相手のために時間を割くことは紛れもない「丁寧」だった。今も一般的にはそのように受け取られる。相談時間が一人10分と決まっているのに自分だけ30分も話せたら、丁寧な対応をしてもらえたと感じるはずだ。

だが、タイムパフォーマンスを重視する観点では、30分を10分に凝縮できる方が望ましい。そこでは伝える内容の密度の高さより、相手が求めている情報だけを過不足なく的確に伝えられることが求められる。関係ないものは一切不要。相手の欲しいものだけをノーミスで渡せるかが問われている。

この点、口頭のコミュニケーションは難易度が高い。こちらがボールを投げ続ける間、相手にはずっとキャッチの姿勢を取ってもらわなければいけないからだ。手元がくるってあらぬ方向にボールが転がっていこうものなら自分が取りに走らねばならず、その間、相手は立ち尽くすしかない。相手がボールを取りに行ってくれるかもしれないが、労力を使わせることになる。いずれにしても、時間的コストが嵩むのを避けられない。

文章の場合、相手はミットを構えていない。どれだけボールを投げても、「大切なのはこのボールです。あのボールは、必要であれば拾ってください」と伝えれば、相手は好きなようにできる。似たようなボールだらけではうんざりするかもしれないが、大切なボールがどれか一見してわかるようにさえしておけば、その懸念を小さくすることはできる。



文章は、よく言えば丁寧が、わるく言えば冗長がまだかろうじて許されている世界なのではないか。

文章は相手を時間的に拘束しない。書き方によっては拘束してしまうこともあるが、常に相手に離脱の余地を与えている。今や高度な「検索」という手段も与えられている。そこには、音声メディアがたとえアーカイブ配信になったとしても未だ越えられない壁が存在する。

タイムパフォーマンスが随所で幅を利かせている今、拘束性の高い口頭コミュニケーションに求められる質は以前より高まっている。それとの対照性もあってか、文章は多少まどろっこしくても、時間をかけて書かれたという点で「丁寧」の評価を得られやすい。要らないものは視界にすら入れてくれるなと言われたりもするだろうが、どうやら世界は、そこまで当たりの強い風ばかりが吹いているわけではないらしい。

本心を言えば、話し言葉と書き言葉のどちらでも、遊びを大切にしたい。余白を、無駄を極めたい。noteという場所は、それを許してくれる。どんな文章も受け入れてくれる懐の広さに勇気づけられている。

ただ生憎、生きているとそうも言ってばかりいられない場面が多いのだ。気付くといつも言葉を削ろうとしている。言葉を、言葉ではなく時間のために削っている。だからか、幾分粗削りであっても許してもらえる文章に頼ってしまう。文章の世界は、少しだけやさしい気がする。

甘えかもしれない。もっと研ぎ澄まされ、本質を突く短い文章を書ける人はいるのだから。フランスの哲学者パスカルが友人へ宛てた手紙に「今日は時間が無いから、長い手紙になったことをお許しください」と書いたという逸話を思い出しては、自分の未熟さを省みてばかりいる。

だが、もしどれだけ自在に書けるようになったとしても、ぼくはとりとめのない文章をたくさん、たくさん書くと思う。言葉の限りを尽くすように長々と。もとい、だらだらと。それを冗長ではなく、丁寧と呼び続けてくれる人がいるかぎりは。



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