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真夜中のトマトベーコン巻き

フロアに見える人影もまばらな金曜22時。今週もやり切ったという虚ろな達成感と重たい疲れが入り混じる。ため息とともにパソコンを閉じ天井を見上げていたら、誰にともなく後輩の呟く声が聞こえた。

「あの店なら、ラストオーダーまだいけると思いますよ」

スマホで調べながら、彼は別の同僚に声を掛けた。彼女は来週の水曜から休暇に入るから、人一倍慌ただしい週を過ごしたようだった。週明けも忙しくなるのは目に見えている。でも今日この時間に会社にいるとは、つまりそういうことなのだった。小さなランナーズハイはもう、始まっていた。

昼間に漂っていた初夏の気配はどこへやら、信号待ちの背中に吹き付けるビル風は手厳しい。横断歩道を足早に渡る。居酒屋街から出てくる二次会帰りのサラリーマンたちが、淀んだ足取りで駅へ向かっていく。

ひときわ陽気な集団と擦れ違ったとき、後輩がとっさに「○○さん!」と声を掛けた。いつもならこの時間まで会社に残っているもう一人の後輩だった。気づいた彼は「ぼくはここで失礼します!」と意気揚々に踵を返し、すこぶるなめらかな動きでぼくらと合流を果たした。

同期との三次会終わり一人と、素面の三人。足して四で割るとちょうどよさそうだなと思いつつ、明け方までやっているチェーン店に入った。この晩この街で何百回目かわからない中ジョッキでの乾杯は、呆れるほどありふれているのに、どこか特別な音がした。


お通しの小鉢をかっこみ、何口か続けてビールを煽った。そういえばお昼から何も食べていない。後輩がQRコードを読み取って手早くオーダーをする。新年度が始まって数週間。思い悩むことも多いからか、食事が運ばれてくるよりも早く仕事の話になった。

今やっている業務のこと。新しくなった組織のこと。空のジョッキが増えるごとに語り口は熱くなる。みんなで、あの先輩が言ってた言葉よかったよねと反芻し、もっとこんなふうにしたいよなと理想を描いた。

noteのアカウントは後輩たちにも伝えているから、交わした言葉の詳細は書かない。というのは建前で、本当は大して記憶がない。飲み会の話はオフレコというが、レコーディングするなんてどだい無理な話だ。食べたものだって、プチトマトをベーコンで巻いた串焼きしか覚えていない。

それでもあの夜後輩たちから受け取ったものは、ちゃんと心に残っている。汲み取られた僅かなそれは消えた記憶の分だけ澄みきって、違う音色を響かせる。どういうわけか木霊するのだ。テキストよりもずっと深く。画面越しの声よりもっと長く。

出社して顔を合わせる機会は増えても、テキストコミュニケーションの比重は、ひと昔前と比べればずっと高くなった。チャットにメール。どうすれば相手に受け取ってもらえるかを考え毎日必死に生きているけれど、目を合わせて耳に届けたひと言には、どうしたって敵わないときがある。

声になった言葉が空気を揺り動かし伝わるように、心に伝わる言葉があるとしたら、それは心を動かす言葉なのだろう。言葉は、言の葉ことのは。人の心を種として生い茂ったよろずの言の葉は、木漏れ日の中でささやかな揺らめきとなって届く。書き言葉だって、きっと。


あの夜、誰もが前を向いて話していた。未来を見ていた。現状に不満があるのは、もっと良いチームをつくりたいからだ。自分ひとりの力でできることなんて限られている。だから二の足を踏んでは、迷い、悩み、挫けてばかりいる。

だからこういう時間が必要なのだった。焦点が近くなりがちなデスクから身を引き離し、一人ひとりの思いは違っても、遠くから自分たちを一緒に見つめ直せる時間が。焦がれてはいない。でも、ずっと待っていた。

このご時世、別に飲み会である必要もない。だけどお酒を酌み交わしながらだとやっぱり違う。大切な上澄みだけが残るといえば酔いも言いようだが、トマトベーコン巻きの記憶と同じくらい残っていれば、十分なのだ。

気づけば終電を逃していた。タクシーで帰れば怒られるとわかっていながら話し込んだ割に、ろくに覚えていないのだから始末がわるい。

後輩たちと話せば、たぶん、あの夜の会話はたくさん蘇ってくる。思い出したい気もするし、このままでいい気もしている。思い出すのは別れ際。このnoteを書くと手を振り別れた宵は、まだ肌寒く、とても静かな春だった。

一人だけ四次会終わりで、歩いて帰った後輩からタクシーの中に届いたグループLINEが忘れられない。

迷子になったのでついでに言いますが、私、やっぱこのチームが結構好きみたいです。

一年前、失ったものをちゃんと数えようと気づかせてくれた彼らに、またひとつ大切なことを教えてもらった。きっとまた良い一年になる。緑深めた葉の揺れ動く季節はもう、すぐそこに来ている。


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