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マリアの記憶

高校二年生の冬に、オランダのアムステルダムを訪れたことがあった。サッカー部のOBがオランダのプロサッカーチームでトレーナーをしていたのがきっかけで、研修という名目で在校生を呼んでもらえる幸運に恵まれたのだった。

両親と一緒に海外旅行をしたことはあったが、欧州の地を踏むのは初めてだった。木々の映る運河に囲まれた美しい街並み、初めて耳にする言語、異国で仲間と過ごす時間。多感な17歳には有り余るほどたくさんの刺激に満ちた一週間を過ごした。

練習の合間、グループに分かれてアムステルダムの街を観光した日があった。仲間数人と広場で時間を持て余した挙句、ぶらりと立ち寄ったのは何故か石鹸屋だった。高校男児にショッピングの当てなんてなかったのかもしれないし、軒先に漂う甘い香りに誘われたのかもしれなかった。

ここでぼくは、世界一美しい女性に会った。

名をマリアと言った。褐色の髪を後ろで結え、すらりと背の高い身に赤いエプロンを纏っていたのをよく覚えている。店に入るなり揃って袖を捲るよう言われたかと思うと、小さな噴水をあしらった水場を囲むようにして立たされた。噴水を囲んだぼくらを一瞥してから、好きな石鹸を試してみてと彼女は笑顔で言った。

そんな記憶があるのだから、マリアは英語を話してくれたのだろう。言われるがまま、普段は汗と土にまみれている高校男児たちはこぞってお気に入りの石鹸を探し、意味もなく一所懸命に、ゆっくりと手を洗った。誰も何も話さなかったのは、きっと誰もが恋に落ちていたからだった。

貸してごらんとマリアが言ったのかどうか、彼女は寡黙な部長が使っていた石鹸を手に取り、彼の頬にやさしく泡を乗せた。部長の威厳は、世界一の美女によってあっさり奪われたのだった。綻びを隠せない彼の笑顔を誰かのガラケーが収めたはずだが、あの写真はどこにいっただろう。

いったい何種類の石鹸を試したのか、さっぱり覚えていない。取っ替え引っ替え、色とりどりの石鹸で泡を作り、ぼくらはうろうろ、ふわふわ、そしてへらへらしていた。気づけば午後の自由散策時間が終わりに近づいていたが、この店の思い出だけでいいと、ぼくらは無言の約束を取り交わしていたに違いなかった。

出際には、全員が大きな紙袋を抱えていた。カモと呼ばれようが何と言われようが構わなかった。マリアに会えただけでこの旅は確かな青春の1ページとなり、オランダは世界一の都市になった。

会計を終えたとき、仲間の一人がマリアと一緒に写真を取りたいと申し出た。Can I take a picture with you? のひと言は、彼を勇者にした。

勇者に続けて、マリアは何枚もツーショットに付き合ってくれた。にもかかわらず、「思い出は記憶の中だけがいいんだ」と言って夜にみんなで一斉に写真を消したのは気の迷いとしか言いようがないのだが、そんな生涯最大の過ちと引き換えに、マリアの美しさは永遠となったのだった。

日本でも見かけるようになったあの石鹸屋の名は「SABON」。街を歩いていると目が留まって振り向くのだけれど、赤いエプロンはまだ、一度も見かけていない。


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