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パリで観た名コレクション ベスト5 第4位 THOM BROWNE

恩師であり、その背中を追い続けて来た。

私が勤めていたセレクトショップの代表/男性は、会社の社長であり、全店舗の方向性やお取引きのブランド、ショップデザイン等を決める、いわばクリエイティブディレクター的な存在でもありました。
とは言ってもファッションを通して「お洒落したい」とか「自己表現したい」というタイプでは全くなく、お気に入りのアートピースを世界中から収集するかのように、洋服のバイイングを楽しんでいる人でした。

そのこだわりは尋常ではなく、モードに軸足を置きながらもストリートカルチャーや古着、トラディショナルにも精通し、現代美術、インテリア、建築、飲食などにも造詣がありました。レディースの方が詳しかったりもします。物の良さや本質を見極める能力と同時に、とにかく先見性がズバ抜けており、才能あるデザイナーを誰も知らないような時代からいち早くフューチャーしていました。また、トレンドになりそうな着こなしやアイテムの見極めにも長けていました。本人は着道楽ではないので、お店にある大好きなマルタンマルジェラの服をシーズンに数着買う程度。展示会に行っても自分ではほとんど試着もしない。それなのに何故そんなに先が読めるのか全く不思議で、どこを取っても自分には勝ち目はありませんでした。

口数も少なく、経営方針やディレクションを熱く語るということもほとんどなかったので、直接何かを教わったという記憶はあまりありません。
代表の考えや構想を少しでも理解するため、私達は自ら学び、コーディネートを追求し、それをお客様にもお店の想いとして伝えてきました。今回ご紹介するトムブラウンも、代表が早くから注目していたデザイナーのひとりです。

第4位 THOM BROWNE(トムブラウン) 2011SS

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アメリカントラディショナルを蘇らせ、スーツを着る事の格好良さを再定案したトムブラウン。自らの存在感をパリでアピールした、演出も見事な名コレクション。

1.トムブラウンとの出会い

2001年にカスタムメイドの服作りをはじめ、2004年から既製服の世界に進出したトムブラウン。
彼がRTWに進出する直前くらいだったと思います。代表が「凄い奴がニューヨークにいる」と少し興奮気味で繊研新聞の記事を見せてくれたのが始まりでした。
この頃はもちろん国内で取り扱っているお店はなく(確か伊勢丹やユナイテッドアローズが2004年からお取り扱いをしていました)、超高額な上、知名度も全然なかったと思います。

トムブラウンが当時どんな事をやっていたかというと、こだわりまくったテーラード/スーツを武器に、いわゆる東海岸のアイビールックを独自のバランスに変化させ、現代的で若々しく生まれ変わらせたもの。洗いざらしのオックスフォードシャツに、グレーカラーを中心とした極端に丈が短いジャケットと、くるぶしがさらけ出されたパンツの組み合わせ。つまり、今とスタイル的にはほとんど変わりありません。
このトムブラウンを今日まで象徴するスタイルが、このとき代表の目にとても鮮烈に映ったようでした。ちなみに初期の頃のスーツは米国最高峰のテーラー、マーティングリーンフィールド製だったりと、クオリティの面でも申し分ないものでした。

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2.アイビールック、そして日本との関係

アイビールックは、1950年代アメリカ東海岸にある名門私立大学の通称「アイビー・リーグ」の学生やOBの間で広まっていたファッションを基に生まれたもの。
日本でも60年代に独自の感覚で着崩したアイビールックが大流行し、「みゆき族」と呼ばれるムーブメントも生まれました。オックスフォードのボタンダウンシャツに、体型に合わせ細く絞られた段返り3つボタンジャケットを羽織り、くるぶしが見えるパンツを穿く。
「トムブラウンのスタイルって、何となく60年代のみゆき族ぽいんだよね」と当時代表が言っていました。かつてのアイビールックへの憧憬とトムブラウンの登場を重ね合わせた時、新しいメンズファッションの隆盛をこの時に察知していたのかも知れません。
スーツを着る事の格好良さを再提案した以外にも、トラディショナルへの回帰、シティボーイの復活、クロップドパンツの大流行など、その後トムブラウンがもたらした影響力はとても大きかったです。

ちなみに日本でも2017年発売となり話題になった、米国生まれ東京在中のファッションジャーナリスト=デーヴィッド・マークス の著書「AMETORA(アメトラ) 」の中で、トムブラウンがもともと日本のファッションに影響を受けたのではないかという興味深い説が展開されており、代表の言葉の意味を改めて理解する良い機会になりました。
「アメリカに影響を受けた日本のファッションが、本国より精度の高いアメリカンスタイルを生み出した」という主張を、鋭い洞察力で導き出している良書です。

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日本のマスコミでは「ライトスタッフ」ヘアカットと丈の短い灰色のウールスーツで知られるニューヨークのデザイナー、トムブラウンが、アメリカーナのニューウェイブを代表する存在としてもてはやされた。だがいかに新奇さを打ち出していようと、ブラウンのスタイルは、日本人の読者に馴染みやすいものだった。ほとんどかつての『メンズクラブ』誌さながらに、彼は自分の服を着用する顧客達に厳格なルールを課した。「ジャケットの袖口の最後のボタンは、決して留めないように/洗濯をしたあとで、オックスフォードシャツにはアイロンをかけないでください」。そしてくるぶしをむき出しにした、丈の短い彼のパンツは、みゆき族のつんつるてんのズボンに不気味なほど酷似していた。
トムブラウンとの初対面を振り返って、エンジニアドガーメンツの鈴木大器は、『ニューヨークタイムズ』紙に「ここまで日本人的な格好をしているアメリカ人を見たのは初めてです」と語っている。ブラウンは日本を直接的な手本にしたことはないと主張するが、彼のビジネスはつねにこの国と強固な繋がりを持ってきた。ブラウンが破産の危機に瀕した2009年、67パーセントの株式を取得して彼の会社を救ったのも、岡山に本拠地を置くクロスカンパニー(現在はストライプインターナショナルに改名)だった。

3.ディオールオムとトムブラウン

そんなこんなでかなり早い時期からトムブラウンをマークしておりましたが、お取引き開始までには少し時間がかかりました。というのも00年代前半から中盤はディオールオムの影響力が絶大で、パリ発エレガントでシャープなテーラードスタイルがモード〜ストリートの大きなトレンドになっていたからです。
黒いタイトフィットのジャケットをスキニージーンズやTシャツで着崩すスタイルが大流行し、ディオールオムを意識したスタイリング、サイジングのブランドが増えていました。
ディオールオムのお取り扱いもしておりましたが、エディスリマンのヴィジョンに魅力された熱狂的なお客様が多く、毎日のように店内では熱い議論が繰り広げられていました。
誰もが認めるメンズファッションの絶対的トレンドセッターだったので、自分もコレクションの内容や背景など徹底的に研究し、全体のバイイングの指針にもしていました。

一方のトムブラウンは、当時目の肥えたお客様でもアイビー?アメトラ?みたいな感じで、全くピンと来ていない方が多く、商品自体も高額だったため取り扱うのは難しい状況が続いていました。しかし2006年にCFDAファッションアワードの「メンズウェア・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞したのを皮切りに、07年にはブルックスブラザーズの新ライン、ブラックフリースのデザイナーに就任、08年にはモンクレールに新設された最高級メンズライン、モンクレールガムブルーのデザイナーに就任するなど破竹の勢いを見せ、注目度もうなぎのぼりでした。この頃アメリカでは3000ドル前後するスーツが、富裕層を中心に飛ぶように売れていたそうです。

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そこに拍車を掛けるように、ファッション界へ衝撃のニュースが流れます。「エディスリマンがディオールオムのデザイナーを退任」。お店の大きな柱だったブランドが消滅する衝撃は大きく(もちろんクリスヴァンアッシュのディオールオムも継続しましたが)、エディスリマンに変わるスターの存在と、新しいトレンドスタイルへの舵取りがお店としても必要でした。08年代表はここぞとばかりにニューヨークに飛び、トムブラウンとの商談を成立させ、いよいよお取引きがスタートしました。

4.トムブラウン、パリコレへ

しかし2009年になり、トムブラウンが破綻するのではないかという噂が業界に広まりました。
原因はウォール街の金融危機の下、あまりにも高い仕立て屋に依頼してきたスーツ(この頃はロッコ・チッカレッリ製)と、過度に豪華なランウェイショーが資金難を招いている、というものでした。そんな状況下で資本・業務提携に名乗りを上げたのが、色々な意味で驚いた日本のアパレル企業クロスカンパニー。これを機にトムブラウンジャパンが設立。エントリープライスの発売やアジアでの出店強化、生産オペレーションの構築など、さまざまな取り組みを推進して、数年で黒字化を達成。この頃日本でも爆発的に知名度が上がりました。
その経営戦略の一環として、10年6月にコレクション発表の場所をニューヨークからパリに変更。これが私が観たトムブラウンの初ランウェイであり、とても印象に残っている名コレクションです。

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パリコレ最終日のラスト、夕方になってもかなり暑い1日でした。ショー会場はパリ19区にある、オスカーニーマイヤー設計のフランス共産党本部。白いドーム型の外観と緑色の絨毯が印象的な建物で、ドリスヴァンノッテン、マルタンマルジェラ、最近だとナマチェコもショー会場として選んでいる場所。トムブラウン本人が「どうしてもここでショーをしたい」と願い、場所ありきで内容を構成したというエピソードがあります。有機的な曲線美を活かした、近未来を想像させるような建物。中に入った瞬間、異世界に足を踏み入れたような不思議な感覚を覚えました。

演出の巧みさは以前から話題になっていましたが、このショーはまさに「2001年宇宙の旅」。この場所にぴったりのテーマ。「美しき青きドナウ」のBGMとともに出てきたのは、宇宙服を着たモデルたち。宇宙服を着たまま観客が待つ円形の会議場を行進した後、廊下に整列して一斉に宇宙服を脱いでいきます。そして新作に身を包んだモデルが現れてキャットウォーク。
「これがトムブラウンだ」と言わんばかりに、全ルックをジャケット×ショートパンツ×ハイソックスで統一する潔さ。チェックやストライプ、刺繍など鮮やかな色柄バリエーションで魅せ、その華やかさは60年代に宇宙をデザインしたピエールカルダンを見ているかのようでした。トムブラウンらしいアイビールックと飛び抜けた芸術性、ついニヤリとしてしまうユーモアを高い次元で融合させた素晴らしいコレクションでした。

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その後もファッションショーをまるで演劇に見立て、斬新な演出と芸術品のようなショーピースで、ファンタジックなエンターテインメントを届けてくれています。「服作りにジョークは一切ない」という言葉のもと、どんなに奇をてらったデザインであっても細部まで丁寧かつ完璧に仕上げられ、服作りへの徹底した美学と情熱を貫いています。全身全霊を込めたシアトリカルなコレクションが、彼の本質である揺るぎないテーラードスタイルに華を添え、常に鮮度のあるものとして保たれています。

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5.自分の信念を貫き通す

よく知られている話ですが、トムブラウンはファッションデザイナーになるための訓練を受けていません。もともと俳優志望でしたが軌道に乗らず直ぐに諦めます。1997年にニューヨークに移り住んだ後、偶然にもファッション界に入り、ジョルジオ・アルマーニのショールームで働きます。その後、自身が仕立てたスーツを着ているところを見たラルフローレンが、彼をラルフローレン傘下のブランドであるクラブモナコのデザイナーとして採用した経緯があります。

ヴィンテージのスーツを改良するなどし、有名になる前からあの個性的な着こなしだったので、周囲からするとちょっとした「変わり者」だったのかもしれません。しかし回りに流される事なく、自分のスタイルと強い信念を持ち、あのラルフローレンの目に留まった。分かる人には分かる、共感してくれる人は必ずいる。そういうものなのでしょうか。スーツを着る機会が減っていた時代にスーツを提案し、その揺るぎない美意識と情熱が多くの人の心を動かした。

そしてトムブラウンは21世紀に名を残すファッションデザイナーになりました。

トム ブラウン ニューヨークのスーツの“ルール”は以下のとおりである。ジャケットは、短めの着丈で、ラペルは細身で、袖口にはトリコロールのグログランテープを配して、本切羽で1つ目のボタンを外す。パンツは、くるぶしの見える九分丈のダブルで着用し、折り返し幅は6.5cm。文字にするとエキセントリックさは伝わらないかもしれないが、中学1年生の時に買ったスーツを着た中学3年生みたいな“つんつるてん”なシルエットは、これまでの紳士服の常識から大きく外れたものだった。しかしそのスーツは、たんに丈を短く仕立てて新しさを演出した表面的なものではなく、「私が美しいと思うスーツのシルエットはこれである」という確固たる主張と美学を内包していた。トム・ブラウンは、スーツの基本的な構造やディテールをいじることなく、シルエットに自らの美意識を反映させることで、アルマーニの80年代の“脱構築”以来のスーツにおける革命を成し遂げたのだ。
かつては俳優志望だったというトムの人生を一変させたのは、紳士服のテーラー、ロッコ・チッカレッリ(Rocco Ciccarelli)との出会いだった。トムが抱いていたファッションの夢を現実のものにする手助けをしてくれたのがロッコだったという。
「私に最高の教育を施してくれたのがロッコでした。ある時生地を買いながら、テーラーを知らないかと聞いたところ、ロッコを紹介してくれました。それである時ロッコの家を訪ねたんです。彼は突然の来客を「またか」というような目で見ましたが、私の強い思いが奏功して、最終的には説得に応じてくれました」

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6.終わりに

代表は5年程前、自身が総合監修するウィメンズのブランドを立ち上げました。
私が在籍していた後年は商品の仕入れにはあまり口を出さなくなり、独学で始めた「もの作り」の方に注力するようになっていました。
バイヤーとして数多くのトップメゾンの商品を見極めてきた人が、自分の商品にこだわらない訳はありません。ショップオリジナルという位置付けからスタートし、理想のプロダクトを形にするため数年間の試行錯誤。
協力してくれる国内の工場や機屋さんを自力で探し、ようやくフルコレクションを展開するブランドの立ち上げにごきつけました。

全てをメイドインジャパンに拘り、ラグジュアリーブランドに並ぶクオリティを追求する。
ラグジュアリーブランドが使うような日本の素材をオリジナルで企画し、高い技術を誇る国内の縫製工場と協業し生産。トラディショナルなアイテムに独自のアイデアとこだわりを加え、ベーシックウエアの新しい価値と魅力を引き出しています。
外見の派手さや豪華さの先に見えた「本当の贅沢(ラグジュアリー)とは何か」という代表なりの答えが詰まった、時流に流されない上質なブランドです。
プロダクトの完成度を最優先しながらも、ファクトリーブランドのような価格とクオリティのバランスを実現し、大手セレクトの主要店舗や地域のセレクトショップを中心に卸先を広げ、シーズンを追うごと着実にお客様を増やしています。

退職してからも年に2、3回はお会いして食事をしていますが、従業員だった頃に比べ気を使わなくて済むので、以前より踏み込んだ質問もできるようになりました。
ある時、もの作りやブランドを運営するに当たり、1番大事にしていることは何かと聞いた事がありました。
代表の口から(商品やデザインではなく)精神論を聞いたのはこれが初めてでした。昔から思っていたけど口に出さなかったのか、何かあって考え方が変わったのか。

やっぱり突き抜けること。自分がこれだと思う自信のあることを徹底的にやる。沢山の人に気に入ってもらいたいなんて思っちゃ駄目なんだよね。大抵そういうものに限って誰にも見向きされなかったりする。もしそこに本当に自分の表現したいこと、内から出るオリジナリティ、強い思いがあれば、必ず誰かの胸に刺さる。心の底からカッコいいなと思ってくれる人が必ずいる。それが1人とか2人でもいいと思う。むしろ大きなムーブメントは、その小さな感動の積み重ねから生まれるものだと思うから。

8月に展示会を開いていたので、そのタイミングでお会いしました。

フランスを代表する某ビックメゾンがその技術を称賛し、アイコンでもあるシルクスカーフの製作を依頼した京都の染色職人と、日本のアパレルブランドで初めてコラボレーションしたという。熟練の職人技が為せる躍動感溢れるマーブルプリントが、まるで抽象画のような輝きを放ち、コレクション全体の美しさを際立たせます。

この状況下、色々大変なことは察しついておりました。

しかし、完成した商品について嬉しそうに語るその眼差しは、こちらが逆に嫉妬してしまうくらい、ただひたすらに前だけしか向いていませんでした。

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画像出典:
•THOMBROWNE.COM
https://www.thombrowne.com/jp
•VOGUE JAPAN
https://www.vogue.co.jp
•pen online
https://www.pen-online.jp
•SAMSUNG.COM
https://news.samsung.com/us/
•HOUYHNHNM.JP
https://www.houyhnhnm.jp
•SOCIETAS
http://societas.blog.jp/
•THE NEW YORK TIMES
https://www.nytimes.com/
•TATRAS CONCEPT STORE
https://tatrasconceptstore.com

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