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映画「ヘルドッグス」から読み解く、ホモソーシャルな欲望について

 映画「ヘルドッグス」は、主演・岡田准一、監督・原田眞人の3度目のタッグによるやくざ映画です。
 暴力と死と隣あわせに生きる男たちが主人公ということで、昨今のハートフルなヒューマンドラマや高校生の恋愛、地方都市の日常などを描きがちな日本映画には珍しく、濃厚な人間ドラマと暴力シーン多めの激しい展開が予測されます。調べてみるとアクションの振り付けを主演の岡田准一が兼任しているそうなので、痛快な本格アクションを軸に裏社会を生きる男たちによって繰り広げられる壮絶なバトルロワイヤルといった内容が期待できそうです。
 が、いざ鑑賞してみると途中から違和感を覚えはじめました。なぜなら、表面的には男同士の汗臭い絆を描きながら、アクションシーンが妙に色っぽいからです。
 事前に知った情報からは全く想像できない展開に戸惑いつつ、なぜこんなにホモエロティックなんだろうと考えていると一つの仮説が頭をよぎります。
 もしかしたらこの映画で描かれているのは、やくざの世界で繰り広げられる暴力や男同士の熱い絆などではなく、むしろ男らしさの不可能性やホモソーシャルな欲望なのではないか。
 そう考えると、これまで違和感を覚えていたシーンにも合点がいきます。
 
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 例えば映画冒頭のシーン。
 岡田准一演じる兼高昭吾と坂口健太郎演じる室岡秀喜は、建物の見物に来る別組織の大物を殺すため、廃墟に潜り込み待ち伏せをします。敵の到着を待つまでの間、二人は格闘の練習をして時間を潰すのですが、この取っ組み合いが仲睦まじい男女のイチャイチャにしか見えないのです。
 映画の中で「相性98%」という説明があったので仲睦まじいのは承知していますが、冒頭シーンから何やら妖しい匂いが漂ってきます。
 
 また大竹しのぶ演じる衣笠典子は、酒匂芳演じる阿内将に対して、「東鞘会にあるのは男同士の絆」だけだと話します。一方で兼高を「中世の男」と称し、その理由を「自らの美意識のために生きる」からだと説明します。東鞘会がホモソーシャリティによって成り立つ組織だということが観客に暗示されると同時に、兼高をそんな東鞘会のメンバーとは一線を画す存在として評価していることがわかります。
 
 さらに、室岡が幼馴染とベッドで絡むシーンでは、行為の後「中に出したの?」と問われると「玉がないから射精できない」と告げます。このシーン、室岡がオスとしての生殖能力を保持していないことを告白することで、男性性の不可能性について言及していることが伺えます。
 
 加えて映画のクライマックス、兼高とMIYAVI演じる十朱義孝が一騎打ちで対峙する銃撃シーンでは、二人とも防弾チョッキによって守られた上半身だけに狙いを定めて打ち合います。どうして無防備なはずの頭を狙わないのかあまりに不自然に思っていると、弾切れになった二人は顔を隣り合わせにして倒れこみます。非常に官能的でエロチックな時間が流れはじめ妖しさが増したところで、十朱が「なぜ頭を狙わない?」と問うと、兼高は「お互い様だろ」と答え、相思相愛の好意を確認したところで十朱にとどめを刺します。
 
 そもそも暴力による勢力争いや血で血を洗う抗争を繰り広げながら、戦争のきっかけは常に組員同士の私情のもつれによって引き起こされていたので、登場人物たちの間で疑似的な恋愛感情が流れていると理解するのはごく自然な解釈と言わないまでも、そんなに無理のない解釈といえるのではないでしょうか。
 いずれにせよ、この映画の作中では、男らしさの不可能性やホモソーシャルな関係性を示唆するシーンが随所にちりばめられており、映画が抱えているテーマが痛快なアクションや熱い友情にはとどまらないことが伺えます。
 
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 これまでちゃんと研究した人がいないので一般的にはあまり知られていませんが、実は日本映画は知る人ぞ知るホモソーシャリティ映画の宝庫なのです。映画評論家の四方田犬彦は著書の中で、戦後の日本映画は図らずもホモソーシャリティを常に描いてきたと述べていました。つまり男同士による疑似恋愛関係を描いてきたと言うのです。
 あくまで個人の所感として言及していましたが、非常に興味深い指摘といえます。
 
 たしかにそういった視点で戦後の日本映画を観てみると、実に様々な作品からホモソーシャリティの要素を読み解くことが出来る気がします。
 
 例えば、深作欣二監督による「仁義なき戦い」もそうです。
 「ヘルドッグス」と同様にやくざの世界を舞台にしたこの映画では、様々な暴力や抗争が描かれます。しかし映画が放つ強烈な男くささとは矛盾するような、ホモエロティックなシーンもあるのです。
 それは菅原文太演じる広能昌三と梅宮辰夫演じる若杉寛が義兄弟の盃を交わすシーンです。
 山守組のために殺人を犯し服役していた広能は、牢獄の中で若杉と義兄弟の盃を交わすのですが、当然服役中なので清酒など用意できません。そこで二人はどこぞで仕入れた剃刀で互いの手首を切り、流れ出る血を嘗めあうことで契りを交わします。
 二人はもはや比喩でもシンボルでもなく、文字通り肉体行為に及ぶことで契りを交わし、強い絆を結びます。
 
 また大島渚監督による「御法度」では、幕末の新選組という常に死と隣り合わせの集団を題材に、ソーシャリティを乗り越え、セクシャリティにたどり着いた男同士の性愛の様子が描かれています。


 もちろん、海外映画にもホモソーシャリティの文脈で解読可能な作品はいくつかあります。
 例えばアン・リー監督による「ビリー・リンの永遠の一日」がそうです。台湾で生まれアメリカで映画を学んだ監督によって撮られたこの作品は、イラク戦争から帰還してきたアメリカ軍の小隊が舞台です。
 イラク戦争の戦闘中に負傷した仲間を助ける主人公ビリー・リンの様子が偶然テレビニュースで取り上げられると、アメリカでその映像が話題になり彼は瞬く間にヒーローとして世論から称えられます。
 一時帰国したビリーは凱旋ツアーへ駆り出され、訪れたアメリカン・フットボールのハーフタイム・イベントで出会ったチアリーダーの美女に一目惚れをします。
 たった数時間の逢瀬ですが、別れ際に二人はキスをし、ビリーは「戦場に戻りたくない」と、つい本音を漏らしてしまいます。しかし、彼女は「駄目よ、あなたは英雄だもの」と言ってビリーの苦悩を取り下げてしまうのです。
 美女と別れた後、ビリーは小隊に戻ります。仲間たちと合流すると、それぞれの隊員が「I love you」と言い彼を迎え入れたところで映画は幕を閉じます。

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 他にもジョン・ウー監督による「男たちの挽歌」や、マスクリティで塗り固められた恋愛映画「恋する惑星」からアルゼンチンを舞台に迷えるゲイカップルを描いた「ブエノスアイレス」に至るまでのウォン・カーウァイ監督の一連のフィルモグラフィなど、実に様々な作品からホモソーシャルな欲望や性愛への志向が読み解くことができるのです。

 また、アメリカ文学の研究者である後藤和彦や竹内理矢は、アーネスト・ヘミングウェイの「武器よさらば」やウィリアム・フォークナーの「アブサロム、アブサロム!」からも、ホモソーシャリティとヘテロセクシャリティの葛藤が解読可能だと指摘しています。
 
 興味深いのは、ヘミングウェイを例外にして、これまで名前をあげてきた監督や作家たちが、敗戦国や被支配国と呼ばれる国や地域の出身だという点です。
 第二次世界大戦敗戦後、常に戦勝国アメリカからの圧力に直面せざるを得なかった日本はもとより、アン・リーやジョン・ウー、ウォン・カーウァイらが生まれ育った台湾や香港は、共産党に敗れたのち国民党が樹立した歴史や、イギリスと中国本土の間で非常に苦しい板挟み状態を経験した過去をもつ国です。
 また、ウィリアム・フォークナーが生れ育ったミシシッピ州も、1861年に合衆国から脱退すると、同年アメリカ連合国を形成して南北戦争を戦ったのち、敗戦国としてアメリカ合衆国の歴史に刻まれることになります。
 
 もしかしたら男性性の不可能性やホモソーシャルな欲望は、敗戦や被支配といった歴史と無縁ではいられないのかもしれません。そして屈辱的な敗北の記憶は、後世の代まで引き継がれ、その国の社会や文化に深刻な影響を与えるのではないでしょうか。だとすると、戦後の日本映画が図らずもホモソーシャルな欲望を描き続けてきたことにも十分首肯できます。
 そして敗戦から、時間的にも精神的にもかなり遠く離れてしまった現在の日本において、「ヘルドッグス」はわずかに残った敗北の歴史の残り香を私たちに思い出させてくれる稀有な映画なのかもしれません。
 

 この映画では、警官がやくざに潜入捜査をするという設定を出発点に、「表の顔」と「裏の顔」、「本当の自分」と「偽りの自分」、「冷静な自分」と「サイコパスの自分」など、人格の外的側面にまつわる真実と虚偽と秘密をめぐって、複雑な位相幾何学を描きながらドラマは盛り上がります。そのドラマの盛り上がりに乗じる形で、登場人物たちが秘めているホモソーシャルな欲望も浮き彫りになっていきます。
 たしかにホモソーシャルな欲望を踏襲している点では伝統的な日本映画の系譜を引き継いでいるのですが、これまでの作品と比べて圧倒的にユニークな点は、ホモソーシャルな欲望を意図して描いている点です。この映画では「男たちの暴力を介したラブストーリー」と、原田監督自身がインタビューでも明言している通り、意図してホモエロティックな描写が散りばめられています。
 では、その意図とはいったい何なのでしょうか?

 そもそも男同士の絆は、東鞘会のようなやくざの世界から少年ジャンプの世界にいたるまで、日本社会においては、あるときは道徳として、またあるときは美徳としてその価値が盲目的に信じられている節があります。
 であるなら、いささか深読みしすぎの感もありますが、この映画は男たちの秘めたホモソーシャルな欲望を暴くことで、日本社会が隠蔽する秘密を暴きたい、そんな意思を持った映画なのではないでしょうか。つまり日本社会に蔓延る男同士の絆という名の道徳と美徳に隠れた「甘え」を暴くために、原田監督はあえてホモソーシャルな欲望を描いたのではないでしょうか。
 その証左に、監督の想いを仮託された主人公の兼高は「男同士の絆」のためではなく「自らの美意識」のために中世を生き、「マッドドッグに始まり、ヘルドッグで終わる」ことを試みたとも考えられます。
 
 「甘え」が現実社会においてどのような弊害や障害を引き起こすのか、この映画では具体的には述べられておりません。ですが近年の欧州では男性学の研究も盛んにおこなわれており、絆の雁字搦めによって生じる男性同士のもたれ合いを批判した書籍や論文等も多く発表されています。その意味でいえば、本作は圧倒的な男尊女卑が平然とまかり通る日本社会において、アンチテーゼを提出するジェンダー映画として解釈することもできるのではないでしょうか。


■参照したかった文献(実家にあるので参照できませんでした)
・『男たちの絆、アジア映画 -- ホモソーシャルな欲望』(平凡社 2004年)斉藤綾子、四方田犬彦共著
・『「七人の侍」と現代―黒澤明再考』(岩波新書 2010年)四方田犬彦著
・『大島渚と日本』(筑摩書房 2010年)四方田犬彦著
・『敗北と文学 アメリカ南部と近代日本』(松柏社2005年)後藤和彦著
・『男らしさの終焉』(フィルムアート社2019年)グレイソン・ペリー著
・『モテたい理由』(講談社2007年)赤坂真理著

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