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たなびくうすい雲

 時の流れを、空にうすく流れていく白雲のように思った。取り立てて飾るものも、彩る色彩もない。ただ、ひろやかに高い空に、ほのかに羽ばたくように、うすい絹の流れが、やさしい時のうつろいを、白い光に、たなびかせる。

 時というのは、皆一つの方向へ向かっているように、思われている。時間は正確に計測され、とても細かな単位で、その流れが把握されている。人は、その正確に流れる時間を、有効に過ごさないと、損している、と思うことが多い。時間をはかる細かさが、精度をあげるほど、時間を有効に過ごす感覚も、より細かく感じられ、時間の流れに追いつけないと思う機会が増える。

 時間は、生産性の尺度として、考えられている。同じ時間のなかで、より多くの価値を生産できるほど、その人はより評価される。一つの時間があるから、様々な生産性の価値を比較することができ、それは単純に、時給のよさで、人をランク付けする発想につながる。

 「時は金なり」という言葉は、時を無駄に過ごすと、お金も損する、という意味。すると、「時」が細かくなるほど、その「時」が計測する「無駄な時間」も細かくはかることができる。時計がない時代に、日のめぐりでなんとなく時間を理解していた頃には、3時間を暇して、ああ無駄だったと思う感覚を、現代の人は3分で味わう。

 すると、3分刻みで損得感情をいだく現代人は、3分刻みで自分の生産性を意識している。その意識を満たすことができないと、「自分には生産性がない」と思ってしまう。

 現代の時間は、そのように、人の優劣をふるいにかけるように機能している。人の評価は、精度よい時間によって厳密におこなわれ、常に自分を評価する「人に厳しい時」をものにできる人が成功し、「時」に負ける人は、不安を感じてしまう。

 その緊張と不安は、皆が「同じ時」にしたがっている、という前提に立っている。世界のすべてが、一つの時間計測に集約されることで、現代の経済は機能している。「一つの時」は、現代世界のシステムの根本にあたる。

 しかし、それは人にむごいと思う。物理的な時間をみても、アインシュタインの理論は、時間の流れが、その動きと場所によって、皆流れる速さが違うと言っている。同一の時間の計測は、ある程度のまとまりを統計するときに、計算上発生するもので、自然には本来、「同一の」時間というものはない。

 時間は、一人一人違ってよく、むしろ違う方が、自然にかなっている。時間は本来、世界中の人がかたずを飲んで見つめる一つの時計ではなく、空の流れにたなびく雲のように、方向も強さも、色彩もかたちも、皆自由にひろがり、流れていくもの。雲の美しさを評価することはできるが、それは千差万別、厳密な基準などない。「時は金」と思うと、一つしかない時が、お金によって皆を評価する、ということになるが、むしろ「時は私」と思いたい。「私」には自分に固有の「時」があり、その固有の「時」は、他の人の「時」と、同じではない。集団のなかで「時」をそろえて計算するのは、便宜上のものであり、自分の「時」を定義するのは自分のみ。雲のうすく柔らかい羽のように、自分の時間を、かるく羽ばたかせていけば、それでいいのではないか。

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