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社外パートナー「ブルーファーム」との出会い


「ジャンボン・メゾンを象徴するブランド」

全国津々浦々、47都道府県に美味しいハムを作る企業が、各3企業あったとする。単純計算で141企業。その141企業の中にジャンボン・メゾンは入っているのだろうか?「宮城県で美味しいハムを作っている企業はどこですか?」の質問に、どれくらいの県民が「ジャンボン・メゾン」と答えるだろうか。
ジャンボン・メゾンは他のハム屋と何がどう違うのか?と問われたら「全アイテムに、和の天然出汁が入っている」と私は答える。note 4月「日本のシャルキュトリー」でその逸話を綴っている。ジャンボン・メゾンのハムを象徴するような、わかりやすい「説明」を商品でしたかった。そうして後にできたブランドが素材、熟成、数量、出荷に至るまで、全ての工程を自分のわがままで作ったブランド、それが「和ハム®」である。


雲のようなイラストはWAHAM?


「それは『わがまま』から生れた」

わがままは、到底一般流通の枠にははまらない。今まではお客様の「今すぐ欲しい」に答える作品を作らなければならなかった。在庫がないとか、完全品切れとか、待たせるということはクレームの対象であり、あってはならないことだった。その苦しみをダイレクトに受けていたのが、先代である父と母だった。その頃の様子を、母は今でも「寝ないで作った」と言い、在庫がなくなることに「トラウマ」を感じてなかなかそこから抜け出せないでいる。今でも、だ。
「体を壊して、心を病んでまで作る必要は無い。夜は寝ていいんだ」と私が言うと母はこう切り返す。
「売らないと食っていけない。売らないと借金が返せない。お客さんからクレームが来る」
 その頃の父と母の頑張りが、今のジャンボン・メゾンの礎を築いたことには間違いないのだが、時代は着実に変わっていっていることをなかなか自分事として受け入れられないようだった。何か指摘すると「お前は甘い」と言われる有様だった。

ブランドロゴは2018年の日本のグラフィックデザイン年鑑(JAGDA)に掲載された


「アイデアを『カタチ』にしてくれる人たち」

私の意見、理想を仮説として立て、ロジカルに分析して、仕組化する。そして一定の結果を出せば、母も父も納得してくれるだろう。そこで初めて、夜ぐっすりと安心して寝られる日が来るだろう。さて、そのためには何をすべきか。社内で一緒に考えてくれる人はその時いなかった。なぜならその時の会社の状況は、毎年同じルーティンで事が進み、まるでエスカレーターに乗せられ、強制的に目的地に行かされるだけの「こなす」会社になっていたからだ。要は必死にこなすことが会社の存続を保つ。それしか成す術はなかったのだ。
その頃、出会ったのがブルーファームの早坂正年君。岩出山に婿として移住し、デザイン会社を設立するという存在が目の前に現れた。彼の立っている姿を見た時に「これは大変なことになる」という直感のような電撃が走ったのを私は一生忘れないだろう。
その後、ジャンボン・メゾンの社外パートナーとして歩み続ける存在になることを、私は何となく予感していた。なぜなら彼が創り出す世界観と自分が描いていた理想が合致したからだ。そこから私たちはスピードをどんどん上げて理想を現実へと加速していく。ジャンボン・メゾンのパッケージデザイン、ブランディングを担ってくれた。そして何より、正年君は私にとって優秀なカウンセラーのような存在だった。経営者同士、けして外には言えない悩みを話すことが出来た。私が考えていることや、アイデアは、ブルーファームによって確実に「カタチ」になっていく。デザイナーの高橋雄一郎君にも絶大な信頼と、突拍子もないアイデアの掛け合いを期待することが出来た。彼もまた想像以上の力を見せてくれた。

当初の和ハム®のコンセプトデザイン(懐かしい・・・)
単独開催の商談会「30 VISION」では多くの応援があって今に至っている


「わがままが受け入れられた瞬間」

こうした背景から「和ハム®」いうブランドは確立し、仕組み、作り方、売り方、すべてにおいて「わがまま」な商品としてデビューを果たした。それはジャンボン・メゾン30周年を5年後に控えた年のこと。和ハムは仙台の老舗百貨店で鮮烈なデビューを果たし、限定200個の予約は瞬く間に埋まった。

販売された和ハム®ギフトはその静寂な佇まいも魅力


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