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「岩出山という奇跡」


宮城県大崎市岩出山。
面白い場所だと、今更ながら思う。

私はここで生まれ育った。18歳の時に進学のためこの土地を離れる時、二度と戻ることはないと決めていた。正確に言うと戻る必要がなかった。
なぜなら私は「次女」自由の身。昔ながらの家督制度が根強く残っていたので、当然「跡継ぎ」は姉だ。そんなお気楽な気持ちで、私はのびのび育っていった。
岩出山の中でも特に田舎で、集落の同年代は10人にも達しなかった。小学校の夏休みになると、近くの公民館に集まって毎朝ラジオ体操。たまに勉強会。学校のプールに行くのも同じ集落の友達と通った。海水浴も花火大会も地区運動会。いつもこの辺の友達と共に過ごすのが当たり前だった。
こんな生活は小学校の6年間続き、中学校進級とともに「都会」の学校、岩出山中学校に行くことになる。私にとって「町」は大都会だった。本屋、スーパー、駄菓子屋、雑貨屋、喫茶店、すし屋に蕎麦屋、ラーメン屋もあった。

岩出山のメインストリート


3つの小学校が統合し、1学年4クラスになった。私が通っていた西大崎小学校は1学年16人。クラス替えなどあるわけない。ずっと6年間16人と過ごした。それに比べたら中学校の人の多さよ。
そんな中学校で、初めて上下関係を学んだ。集落で一緒に遊んだ〇〇ちゃんは○○先輩に、○○君も○○先輩へ呼び名が変わった。
中学校高校の時は、部活に燃えていたので、自宅と学校の往復のみ。友達とプライベートで遊ぶことはほとんど無かった。岩出山の土地勘は全く無いまま18歳。「二度と戻らない」と決めて家を出てから長い年月が経ち、20年後家業を継いだ時(継ぐ話はまた別の機会に)驚愕の事実と向き合うことになる。

私は岩出山の事をほとんど知らない。

そんな中、岩出山で出会う生産者さんたちは、ほとんど「はじめまして」状態だった。話をすると中学校の先輩後輩ということを改めて知るのだが、私は誰も覚えていなかった。

それはさておき。

こうして知り合った岩出山の生産者さんたち。実はすごい人達が軒を連ねていた。
・よっちゃん農場
http://nanban.jp/
・佐藤農場
https://www.tohokukanko.jp/attractions/detail_1004562.html

・ふるさと地鶏の会
https://iiitamago.shopinfo.jp/

・青田ファーム
https://www.instagram.com/explore/tags/%E9%9D%92%E7%94%B0%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%A0/top/?hl=ja

・花山太右衛門商店
http://www.hanayama-manjyuu.jp/sakamanjuu/index.html

・さとうファーム
https://miyaginoarare.co.jp/blog/blog/%EF%BD%9E%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%88%EF%BD%9E/

・愉多工房
https://gourmet.aumo.jp/gourmets/387585

・あら伊達な道の駅
http://www.ala-date.com/

・小泉麹店
http://koizumikouziya.com/

・森泉
http://moritamishuzouten.com/

ネイティブなどぎつい方言で話す仲間が出来て、お互いの商品をリスペクトしていく中で、自然にコラボレーションしたいという意気込みが湧いていった。

心にスッと光が差し込んできた


 その土地で作られるものを食べる。それは当たり前のことだった。なぜなら環境に適応した体づくりや栄養摂取は、その土地で育ったものを食べることが一番理にかなっているからだ。南国には体を冷やす食べ物が育ち、寒い場所には体を温める作用のある食べ物が育つように、その土地にふさわしい食べ物が人の体を育てるのだ。
 岩出山には、優れた季節の野菜や山菜、発酵食品、保存食が沢山ある。その古くから伝わる食材と、ジャンボン・メゾンのシャルキュトリーを組み合わせ、どこにもないものを作りたいと思った。

メラメラと燃えてきた

 二度と戻らないと決めた私が、ここに帰ってきて良かったと思えるのは、こうした伝統を大切に育てていこう、紡いでいこうとする仲間ができたからである。この人たちと出会ってなかったら、私はとっくに挫折し、仕事を投げ出していたと思う。みんなが頑張っているから私も頑張ることができる。

 地元、愛。

これからも、コラボしていくよ。

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