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あるものでなんとかする。「バナキュラー」的もの作り


令和元年の春。私は、ダブリン南西部にある家庭的なゲストハウスの二階で、青いリバティプリントのシーツを鷲掴みにしながら、苦しみ、悶え、唸っていた。齢30にして人生はじめての語学留学に挑戦するのだと晴れやかな気持ちではるばる欧州、アイルランドまでやってきたというのに、ひどく腹を壊し、ついでに熱まで出して、可愛らしい小さな寝室とトイレを往復するばかりの日々──…。

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「水が合わへんのちゃう?」

大阪の母親に電話をしたら、そんなことを言われた。水が合わない。確かに舌の上に転がしたときから「すごく違う感じ」がしたけれども、やっぱり水がすこぶる合わない。だってここダブリンは硬水で、私の故郷は軟水だ。

悶絶している私を心配したホストマザーのマリエが親切なことに、薬と水を持ってきてくれたのだが、申し訳ないことに、その水こそが最大の天敵なのだ。「マリエ、ありがとう、でもそれ、その水が、アジ、東アジア人である私のストマックには、トゥーストロングなの………」だなんて朦朧としつつ伝える私を見て、青い瞳をぱちくりとさせて驚くマリエ。東アジア人のゲストは過去にも少ないらしく、あぁ私は、この国では希少なほうの生き物なのだと痛感したのだった。


昭和の終わりに日本で生まれ、お世辞にも頑丈とは呼べない身体を持ちながらも、平成の終わりにはるばる11,096 kmも離れた異国へと大移動して生活を始めてしまった私は、こうした事態にあまりにも多く直面する。

2018年からニューヨークで暮らし始めたが、こちらでホームパーティーに参加するとなれば、そこはわたしの天敵ばかりだ。とろけるブッラータチーズも、各々が持ち寄った赤ワインも、ブルックリンで醸造された味わい深いビールも、「すごく違う感じ」がして、やっぱりその後にはやられてしまう。

べつに今の時代、Wi-Fiが入り、衛生的な都市であればどこでも生きていけるだろうと高を括って移住したので、これは大きな誤算だった。無論、仕事面だけに関して言えば、Wi-Fiさえ入ればどこでも出来る。テキストコンテンツで稼ぎ、アプリで円をドルに換金し、電子マネーで暮らしていく。なんて便利なソフトウェア時代なのだろう!

けれども私のハードウェア側は長距離移動に耐えられず「ここは違う!」「これは知らない!」と一生懸命抗っているのだから、定期的に油をさしながら、騙し騙しやっている。油というか、正露丸なのだけれど。


……と、冒頭から腹を壊す話ばかりでまっことに申し訳ない。今回のnoteは、Panasonic主催の『自然のやさしさを知るAWARD』から依頼を受けて、そのAWARDを盛り上げるべく文章を書かせていただくことになったのだ。そこでもちろん、概要文を繰り返し読んでみたのだけれど……


“「自然のやさしさを探るAWARD」は、自然の美しさや心地よさを身の回りに取り入れる、あるいは自然の力を人の世界に取り込んだデザインを募集するアワードです。”

…取り入れる。もしくは、取り込む。

うーーーーーーーむ。

なんだかそうした言葉は、自分のうちと外を明確に分けているようで、正直あまりしっくりこない。いや、もちろん意味はわかるのだけれども。頑固な頭を持っているので、自然とはほんとうに、「自分を含まない外にあるもの」なのだろうかと悩んでしまうのだ。

たとえばわたしが作ったものは「人工物」と呼ばれるかもしれないけれど、わたし自身は母親の腹から生まれた「天然」の存在で、さらには自分が思っている以上に、ご先祖様の食べてきたものに色濃く影響を受けている。

ニューヨークでは、アジア人の多くはアジア人が営むスーパーに足繁く通う。私も最寄りの日本食スーパー「ミツワ」まで毎週バスに乗って行くのだけれど、そこには日本人もしくは韓国人、台湾人、中国人といった姿ばかりが目立つ。まぁざっくりだいたいご近所さんだ。

慣れ親しんだ故郷(もしくはその付近)の味だから恋しくなる……ということは大いにあるだろうけれど、私のように、そうじゃなきゃ胃腸を悪くするという人も少なからずいるだろう。

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移動範囲の狭くなったコロナ禍ともなれば、生鮮食品の入手は死活問題になった。徒歩圏内のスーパーでは味噌や鮮魚が手に入らないからと、在米日本人が加入するFacebookグループは爆発的に会員数を伸ばして、みんなでオンラインで手に入れられる味噌や魚の情報を共有した。

すると台湾人の友人が「台湾人同士のグループも過去最高に盛り上がっているよ」と言っていたので覗いてみれば、だいたい同じような会話が繰り広げられていたので笑ってしまった。みんな普段は、アメリカ社会に溶け込んで互いのことなど知らぬ存ぜぬで暮らしているというのに!


もちろん、胃腸が受け入れない問題に関しては、立場が逆転することだってある。

和食が好きだというアメリカ人の友人を招いて、手料理をふるったのだけれども、唐揚げと卵焼きとナムル(は韓国料理ですね)はSo Yummy!!!!とたいらげてくれた。けれども問題は、味噌汁にぷかぷか浮かぶワカメ。「ごめんね、これは前にも試したんだけど、ちょっと苦手で……」と箸を止めたのだ。「あぁごめん、そうだよね…!」と自分の配慮不足を反省した。

島国在住の日本人が海藻をちゃんと消化吸収できるのは、海藻を消化できる菌を歴史的に腸に住まわせてきたから、というのは有名な話だ。つまり、どれだけ遠くに引っ越したとて、小さな小さな「日本」みたいなものは、おなかの中に保っているのだ。それを「自然」と呼ばずに、なんと呼べばよいのだろう?

自然は「取り入れるか否か」を頭で取捨選択するよりもずっと前から、自分の中にちゃんとあるらしい。

それは当たり前のことなんだけど、故郷で暮らしていた頃はあまりにも当たり前すぎて、さっぱり気づかなかった。けれども、遠い国で自分の身に、もしくは故郷の異なる他人に降りかかるバグのような出来事を通して、この身体はちゃんと自然の、気候風土の子どもなのだということにようやく気付かされたのだ。

それに気がつくと今度は、「気候風土の影響力をふんだんに受けたもの」は自分の親戚であるようにも思えてくる。そうしたものを表すバナキュラー(Vernacular)という言葉を知ったとき、自分の身体が包まれるような心地よい衝撃を受けてしまった。

バナキュラーというのは、「土着の」だとか、「自然発生的な」という意味で、「バナキュラー建築」だなんて熟語として使われることが多い。バナキュラー建築というのは、言葉通りその土地の気候風土によって生まれた建築物のことで、「建築家なしの建築」だなんていうふうにも呼ばれている。

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たとえば熱帯アフリカにあるバオバブの樹は、直径が9メートルを越えるものも多い。しかも材質が柔らかいので、生きている樹をそのままくり抜いて中に住居を作ることも珍しくなかったのだとか。そこまで自然に入り込むものはバナキュラー建築の中でも稀なようだけれども、気候風土に寄り添いながら、そこにある素材で、うまくやっているクリエイション……というのは、なんだかとても、本質的だ。バナキュラー建築だけではなく、「バナキュラーなもの作り」という領域が、時代のメインストリームとなれば、どれほど多様性で豊かな文化の時代が到来するだろうか! と妄想してしまうのである。

いまはどこの大都市に行っても、判で押したように同じ電化製品や同じ規格の洋服ばかりが並ぶ。製品クオリティは安定していて、東京でもニューヨークでもまったく同じ型のものを手に入れられる。

けれども、バナキュラーなもの作りは、それとはまったく逆を行く。

その場にある素材や気候風土にあわせて作る。作るというか、作らされる……といったほうが近いかもしれない。だって主語を人間にするのか、自然にするのか曖昧なところなのだから。(そうした観点でいえば、主語のぼんやりとした日本語は便利だなぁ、だなんて思ってしまう)

そうした「バナキュラーなもの作り」は、私が定義するまでもなく、もう既に世界中に溢れているのだけれど、当たり前すぎて気が付きにくい。もとの場所から移動させなければ、土も、木も、水も、風も、そうそう珍しいものなんてないからだ。けれどもそうした「当たり前」を移動させたことによるバグを、先日もひとつ体験した。

我が家のキッチンの引き戸の奥に、「いつかちゃんとした漆で金継ぎをしよう」という割れ、欠けのある器が長らくガチャガチャと収められていたのだが、その「いつか」をステイホームの間に自宅でやってしまえないかと「uryujyuの金継ぎキット」なるものを購入し、アメリカまで送ってもらった。

ただ、金継ぎを完成させるまでの工程は1週間ほどかかるので、家でやるにしてもなかなか時間がかかってしまう。原稿の締切にヒーヒー言っている私を見た夫が「じゃあ俺がやりたい」と勝手に始めてくれたので、まずは欠けた器からお任せして、私はヒーヒー言いつつ横目でチラチラと眺めていた。

そして数日後。夫が暖房器具と加湿器を馬鹿みたいにフル回転させているもんだから、部屋が暑くて仕方ない。「ここはサウナか?電気代がもったいないよ」と窘めたら、どうも漆を乾かす工程は「高温多湿」じゃないといけないらしい。乾かすってのに、高温多湿が必要だなんて!

これは、なんともったいない話なんだろう。 日本の夏であれば暖房も加湿器も不要であるのに、ここは北米の冬であるから、電気代が馬鹿みたいにかかってしまう。金継ぎを北米でやるのはあまりにも不自然、反バナキュラーじゃないかと笑ってしまった。せめて電気代を節約するかと、小さな加湿器を買って段ボールの中に高温多湿な環境をこしらえ、ご丁寧に器を並べた。いまから卵でも孵化させるの? というような奇妙な装置が完成した。あぁ不自然!と笑ってしまう。

どうやら漆のほうも、遠い北米まで連れてこられた私の胃腸とおなじく「ここは違う!」「これは知らない!」と叫んでいたようなのだ。不自然な環境に連れてきてしまってまことに申し訳ないねと、胃腸と漆に申し上げたい。

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2020年。人の移動がぴたりと止まり、同時に多くの物流も止まってしまった。ファッションデザイナーをしている友人は、2月頃から中国の工場と連携できなくなったと嘆いていたし、致し方なく工場を日本国内に戻したという声も多い(そして国内の低賃金化が強いられるという苦しい現実もある)。

国境が閉ざされてしまったこの1年、「理想じゃないが、なんとかする」をやってきた作り手たちは多いだろう。そこには多くの苦労や、痛みや、失敗があったかもしれない。

けれども、「あるもので出来るじゃないか!」と気づいた人も多いかもしれないし、むしろ見過ごしていた地域の魅力にあらためて目を向けた人もいるのではないだろうか。

日本が開国してから166年も経った今、政治的意思に反して世界中が鎖国状態に陥ってしまった……という、とてもおかしな時代の中にいる。そんな時代の内側で、世界中の作り手たちが「今いる場所に縛られている」という状況に直面しているのであれば、それはなかなか、とんでもないことである。

そうしたアンコントローラブルな状況をうまくやり繰りすることが出来たならば、この憂鬱で腐りそうな疫病の日々も、長い長い目でみれば、「少しはマシ」な側面が歴史に記録されるのかもしれない。短期間での大量生産・大量消費がもう限界だと叫ばれている中で、人々が生産背景についての考えを変えるきっかけとしては十分だ。

そして同時に、SDGsという言葉を見ない日はない2020年。あちらこちらで環境保護にまつわる話が展開されているけれども、都会に住む人にとっては、少し縁遠い、壮大なものに思えてしまうかもしれない。でもその答えはもう既に、自分の中にあるのかもしれないのだ。


自然と一緒にうまくやる。それはなんだか「あるもんでご飯を作る」くらいの、地味で、飾らない、日常的な、けれども持続可能なもの作りの在り方なんだろうと思う。あるものでなんとかしよう。そうして作られたものは、異なる気候風土で暮らす人々から見れば、宝物と呼ばれるかもしれないのだし。




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「自然のやさしさを探るAWARD」へのご応募は12月23日まで。ここからは、運営事務局の方からいただいたお知らせを掲載させていただきいます。

「自然のやさしさを探るAWARD」は、パナソニックが主催する、自然の美しさや心地よさを身のまわりに取り入れる、あるいは自然の力を人の世界に取り込んだデザインを募集するアワードです。

近年、自然をヒントにしたデザインによって、人にも地球にもやさしいプロダクトやソリューションが誕生してきています。未来が予測困難な今の時代だからこそ、あらためて自然と向き合い、そのデザインから学び、「自然から感じる心地よさとは何か」をテーマに、人にも地球にもやさしいデザインを考える機会を設けたいと考え、本AWARDの開催に至りました。

プロダクトはもちろん、既存の作品、プロジェクト、卒業制作、アイデアプロットなど幅広い形式での参加が可能です。たくさんのご応募をお待ちしております!

締切
2020年12月23日(水)12:00まで
賞金総額
50万円
審査員
臼井重雄(パナソニック株式会社 デザイン本部 本部長)
筧 康明(東京大学大学院 情報学環 准教授)
田中美咲(morning after cutting my hair, Inc 代表取締役)
主催
Panasonic
ロフトワーク

詳細:https://awrd.com/award/sozo-yasashii
特設サイト:https://awrd.com/sozo-yasashii/



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1988年大阪・千里生まれ。京都市立芸術大学卒業。ニューヨーク、ニュージャージを拠点に執筆活動中。大学時代にアートマガジンSHAKE ART!を創刊。会社員を経て、2015年に独立。milieuを自主運営しつつ、note定期購読マガジン『視点』にてエッセイを更新中。