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お金で新たな文化は買えない



引っ越し作業に忙しい。

2018年の夏から2年間、私たちはブルックリンの西側にあるウィリアムズバーグという町の高層住宅に住んでいたのだけれども、そこはべらぼうに家賃が高い。東京でいえば代官山の雰囲気と豊洲の立地をかけ合わせたような場所で、街には話題のショップが次々とオープンしているような、イーストリバー沿いのイケイケのエリアである。イケイケのエリアにあるイケイケの高層ビルで、あらマンハッタンの夜景がキレイ♡ と脳が正常な判断を出来ていない状態で契約した。その後、身分不相応なマンハッタンビューを眼前に、2年前の自分たちを阿呆だ間抜けだと叱咤し続ける2年間になったのは言うまでもない。

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ここで文章を読んでくださっている方であれば耳タコであろうけれども、この2年で私は全細胞を入れ替えたかのように考え方が変わり、商業色の強すぎる仕事をほとんど手放してしまった。「裕福さと豊かさは必ずしも比例しませんので……」「良い文章を書くことだけが目標です……」だなんて穏やかな微笑で語りながらも、2年前の浮かれマインドだった頃の自分が契約した家賃の引き落としにより、寝て起きるだけで大切なお金が滝のように流れ出てしまう。阿呆である。


追い打ちをかけるように、疫病による経済的打撃を直に受けた我が家の家計。私のようにネット世界で完結する仕事はまだしも、夫は空間作りを伴うアーティストなので、予定されていた仕事は軒並み無期限停止状態になった。3月に準備していたソーホーでの個展ですら未だに開催されていない。もう半年も待機している。こんなにも先が見えない半年間、メンタルを壊さずに生きている夫は立派だなぁと思う。立派なのだが、このままじゃあここにいられない。ニューヨークで頑張っていた同世代のクリエイターたちが、一人、また一人と母国へ帰っていく。我々はどうするのだ。


私は諸般の事情でようやっと念願のアメリカ・ライフを正式に幕開けさせたばかりなので、さすがにここで祖国へと引き返す訳にはいくまい。ということで、引っ越しだ、引っ越しだ! 生活コストを爆下げするのだ。


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2017年、私よりも一足先に渡米した夫が1年だけ住んでいたブルックリンのグリーンポイントというかわいい町にあるシェアハウスには、かわいい猫がいた。犬もいた。多種多様なヒトも沢山いた。役者見習いのアメリカ人の女の子、Webライターのドイツ人の男の子、彼らのパートナーや友人知人らがごった煮になりつつ賑やかに暮らしていた。

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が、コロコロを1スクロールしただけでご覧の通り。信じがたいことに、住人は誰も共用スペースの掃除をしない。たまに私が夫の生存確認をするために渡米すると、風呂、トイレ、キッチン、リビング、すべてが生命を脅かすレベルで汚染されていて、何かが育っている。かつて汚部屋に住みそれなりに抗体を持っていた我が身であってもそれは耐え難く、私は3ヶ月に一度訪れては徹底的に共用スペースの清掃をする掃除婦のようになっていた。




そんな生活に辟易し、2年前、逃げるように何不自由ない新築ピカピカの高層住宅に引っ越して来た訳だ。ここは、必要なものも、必要以上のものも、何もかも全て揃っていた。夜景が見える共用のプールやジャグジー、フィンランド式サウナ、最新のマシンが揃ったジム、ヨガ教室にお料理教室、キッズルームにランドリーサービス。

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キラキラのエントランスでは24時間ドアマンが「おかえり、レイ&マイ!」と迎えてくれて、セキュリティは万全。疫病が流行るずっと前から、全ての共用スペースはピカピカに磨かれていた。しかしもう、ここには住めない。高すぎる。




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via Wikipedia 


さて、物件探しだ! ということで、StreetEasy(スーモみたいなもの)を検索し睨みつづける日々が開始した。


今、ニューヨークでは一時的に大都会・マンハッタンの地価が大暴落しているのだけれども、これは疫病によって祖国や地方に移動した高所得ビジネスマンたちの抜けた穴が多すぎるためで、きっと1年もすればまた元に戻るだろう(たぶん)。

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なので、今住んでいるブルックリンの最西端であるウィリアムズバーグから、東へ、東へと物件探しのエリアを広げ検索していく。東に行けばいくほど地価は安くなるが、比例して治安も悪くなる傾向がある。


まず狙っていたのは、ウィリアムズバーグの東隣にある町、ブッシュウィック。そこは数年前までは観光客は立ち入り危険、とまで言われていた地域らしいのだが、地価が低い故にアンダーグラウンドなアートの街として盛り上がり、その結果素敵なカフェやギャラリーが立ち並び、今ではドカドカと若いプチ富裕層向けの住宅が建てられ始めている。

これぞ、典型的なジェントリフィケーションだ。


ジェントリフィケーションとは

都市において、比較的低所得者層の居住地域が再開発や文化的活動などによって活性化し、結果、地価が高騰すること。地域の経済活動の転換や停滞した地区の改善運動を契機として、それまで疲弊していた都心近接低開発・低所得地域(インナーシティ)に上流サラリーマンや若手芸術家など、都市の活性化を引き起こすキーパーソン(=ジェントリファイヤー)が移り住むことで、自然治癒的に地域環境が向上する。

典型的な事例として、ニューヨーク市が挙げられる。1950年代、工場や倉庫の廃屋が並び立つSoHo地区に安価な居住を求めて芸術家やミュージシャンが移り住み、カウンターカルチャーの中心地となった。それによって地域に文化的、社会的な高級化がもたらされ、求心性を獲得した地区には中産階級が流入する。さらに彼らを対象にした商業施設が増加し、結果、住区では低所得者層から中・高所得者層へと居住者の階層の入れ替えが起こった。

こうした地域の高級化は、持続的なインフラの整備や治安の向上などの恩恵をもたらすため、都市の不動産から投機的な利益を得ようとする人々や、都心部に中・高所得者住民を定住させ、雇用機会を確保しようとする行政側に歓迎される。また、57年に設立したイギリスの市民活動基金「シビック・トラスト」のように、特定の団体が主導して戦略的に芸術・文化を利用したジェントリフィケーションを行なう場合もある。

ジェントリフィケーションは肯定的に評価されることがある一方で、高級化に伴う地価の上昇が廉価な住宅の消滅や継続的な所有が困難となった不動産の管理放棄などを引き起こし、もとの住人が転出を余儀なくされるという問題も顕在化している。インナーシティにおける居住者層の入れ替えは、貧困問題の本質的な解決には至らない。低所得者層が玉突き式に居住地域を移動しているにすぎないからだ。

(artscapeより引用 執筆:江川拓未氏)


ということで、いくつか物件を見てはいたものの、もはやブッシュウィックも高すぎる。そこでさらに南へ下がり、フラットブッシュというエリアを重点的に探してみる。

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ちなみに以下、左がウィリアムズバーグの、右がフラットブッシュの人種構成比なのだけれども、同じブルックリンでもこれほどまでに異なり、街の雰囲気もガラリと変わる。

• White 66.5%  /  19.9%
• Hispanic 26.3%  / 19.5%
• Asian 2.9% / 9.2%
• Black 2.8% / 48.6%
• Other 2.4% / 2.8%


フラットブッシュでの家探しはあまりにフランクだった。


ドアを開けば香水とベーコンの香りが立ち込めてきて、前の住人が当たり前のようにまだそこに暮らしている。上半身裸の、胸毛をわさわさ生やした男性が悠然とコーヒーを飲んでいるのだ。お邪魔しました……と退散しそうになるも、先方は「家のことなら、なんでも聞いて!」だなんて余裕の表情で、家の魅力を語ってくれる。爆音を出しても怒られないぜ、だなんて。

両隣との仕切りがないバルコニーでは、ミュージシャンやアーティストらしき住人たちがコーヒーを飲みつつチルアウトしている。(あまり積極的に使ったことのない言葉だけれども、チルアウトという他に表現しにくいほどチルアウトしているので致し方ない)その輪の中に混ざることができたら、どれほど魅惑的なことだろう。

ここには、プールやサウナやジャグジーみたいな派手なものはもちろんないのだけれども、明らかにカルチャーがある。それも作られた完成品ではなく、これから作っていこうというアップカミングな空気であり、それは何でもあったはずの高層マンションに、明らかに欠けていたものだ。お金を出しても、文化は、文化を育む空気は買えやしないのだ。


私は有象無象の中から文化と呼ばれるものが浮かび上がり、それがあたらしい歴史になりゆく瞬間になによりも興奮してしまう。逆に言えば、既にブランドや組織として価値が固定されてしまったものからは出来るだけ距離を置くようにしている。というのも、完成した環境に身を置いてしまうと、私はたちまち危機感を失い、怠惰な傍観者に戻ってしまうからだ。

ここに住みたい。ここに住んで、この街の成長を体験したいし、なんならそれを作っていきたい。


……と、瞳孔が開くほどに胸を打たれてしまった。が、帰宅後に少し冷静になって、候補エリアと犯罪マップとを照らし合わせてみる。パパパッ、と表示される赤い丸。これは全て銃撃事件だ。今住んでいる場所では滅多にない。

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spotcrime.com より



フラットブッシュは、べつに治安が最悪なエリア……という訳ではないのだけれども、疫病流行後のニューヨーク市全体で銃撃事件が増えているのに伴ってそれなりに治安が悪化している。深夜になると、花火か銃声かわからない発砲音が響くのだが、その中には確かに銃声が含まれているのだ。

今週は20日から21日にかけて1晩で、10件の発砲事件があり、3人が死亡し、11人が負傷。また先週末は、32件の発砲事件により、43人が死傷した。市の犯罪データベースによると、今年の発砲事件数は昨年に比べ80%増加している。(以下ニュースより引用)


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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。