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「発言の自由度」をモノサシに、しごとの仕分けをする6月



お金か、社会貢献か、美しさか、楽しさか、楽さか………人によって「はたらくこと」の中で重要とされるモノサシみたいなものは、まるで変わってくるし、そのモノサシの目盛りは単純ではなく、四方八方に伸びていたりもする。

さまざまな価値観がある中で、自分にとっての価値基準は何なのだろう? と、年に1度くらい仕事の手を止めて考えてみる。そこをあまりこだわらず、社会的に評価の高そうな方角だからとか、お金になるからと安心してずんずん進んでいると、社会の風向きが変わったときに、たちまち立場が危うくなってしまったりもするかもしれないし。


自分にとっては今、一番大切にしたいのは良い文章を書くこと、良い文章が書ける状態でいること。そのほかには健康であること、社会構造を知ること、お金をしっかり稼ぐこと、美しくあること……大切にしたい目盛りは沢山でてくる。そして良い文章の土台には、「発言の自由度を守ること」が避けられない前提条件として鎮座している。


そうした指針に基づいて、進みたい方角を決めて、インターネットに公開する。昨日もおよそ1年ぶりに、自分の仕事窓口のページを更新した。これはフリーランスになってから5年間、毎年ひとりで開く経営会議みたいなものだ。


年に一度、こうして自分という組織の帆を張る向きを、そのさきに見てみたい景色にあわせて変えられるのは、個人事業主のいちばん良いところかもしれない。個人という最小単位の組織で、言葉というミニマルな表現手法だからこそ、柔軟性くらいは大切にしておきたい。



できること

原稿執筆(PR記事を除く)
商品企画
ニューヨーク、アメリカ国内での取材


できないこと

PR記事の執筆
SNSなどのコンサルティング、運営代行
SNSでのPR投稿
台本ありきのメディア出演
広告への出演、拡散協力


……と書いていて、まぁこんな簡単に割り切れるものばかりでもないのだけれども、とどのつまりはスポンサードコンテンツへの出演などをうんと減らして、発言の自由度や純度を守りたい、みたいな話である。


私はほぼ広告業界みたいなところで育ってきたので、その世界のポジティブな価値や意義、ダイナミズムみたいなものは、その世界を愛する人並み程度には理解しているつもりだし、自らも育てられ、恩恵を受けてきた。時代をうんと前に推し進める装置として、広告の力はあまりにも有効で、良き思想、良き消費の伝播方法にもなる。

けれども、広告やスポンサードされた土俵の中に自らを立たせることは、もう苦しくなってきてしまった。


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「あなたの原稿は暗すぎるのでクライアントの承認が下りない可能性があります。もっと読了感を明るく、もっとポジティブにしてください」

企業の協賛があるメディアで執筆する場合、世の中の一部に不快に捉えられる可能性のある表現は、このように却下されることが多い。

不快だと訴えてくる読者が目の前にいるならまだしも、どうしてクライアントの承認に怯えて原稿の塩味を薄めなきゃいけないのと憂鬱になり、編集者や代理店の担当者と議論して、そこをなんとか!とじりじりと駆け引きをすることも多かった。でもそこはクライアントの土俵なのだから、郷に入れば郷に従え、というところもある。

闘うか、受け入れるか、自分の土俵をこしらえるかの三択だ。それならば私は自分の土俵で相撲を取ろうと、milieuを始めたのが3年半前のこと。当初は記事広告も出していたけれど、それも1年半前に辞めた。



そこからも「発言の自由度を守ること」の重要性は日増しに大きくなり、同時に思想を曲げてまでスポンサードされたメディアに出たり、ネガティブな表現NGの広告に起用されたり、といったことへの違和感もごまかしきれないほどに膨らんできてしまった。


商品の広告塔みたいな仕事は、なかなか華々しく映ることもある。すごいね、活躍だね、と日頃ソーシャルメディアに触れない人からも声をかけられる。経済循環を促進しているという意味では、間違いなく立派だ。

でもその裏では、もったいないほどのギャランティと引き換えに、数多の発言の制約を約束しなくちゃいけない。「スポンサー企業のネガティブな話が厳禁」とかはまぁ、そりゃそうだろうと思うのだけれども、競合他社にあたる企業のネガティブな話もポジティブな話も禁止されたりする。

広告契約と同時に、いち生活者としての発言の自由度は突然ギュウウっと狭くなる。それが仕事じゃないと言ってしまえばそれまでだけれど、自由な発言を売りにしてきた身としては、これほど不自由なことはない。

もし私がイラストレーターであったなら、主たる商売道具は「自由な発言」ではなくイラストレーションになるのだから、広告仕事に対してここまで慎重な姿勢ではなかったかもしれない。(もちろん、イラストレーターが自身の思想を語ることも大前提の上で)


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noteマガジンという個人優良企業


あれもやらない、これも守りたい……という制約の中で、我が小舟の進む先を決めていく。でもお金がなけりゃ船は途中で沈んでしまうので、沈まないように計画を立てる。隣を見れば、コロナショックで展覧会仕事のほとんどを失った夫が同乗していて、こりゃあ沈まないように頑張らなければと船の穴をせっせと塞ぐ。

「お金の話をすると作家性が落ちるよ」と釘を差されることもあるけれど、私はお金のない架空の世界での御伽噺を綴りたい訳じゃない。品性みたいなものは大切だけれども、それも自分の中で、美意識を保てていればそれでいいんじゃなかろうか。


発言の自由度を守りながら、文章で飯を食う術として、noteほど素晴らしい仕組みはない。私は月額500円の有料マガジン『視点』で毎月あれこれ好きなことを好きなように書いている。そうすると混じり気のない文章を、読みたいと思っている人だけに届けられるし、炎上もしない。課金の壁なく無防備に記事がバズっていた頃は悪夢ばかり見ていたのに、500円の防波堤を作ってからは、精神衛生はみるみるうちに向上した。

けれども、その空間はあまりにも居心地が良すぎて、不安にもなる。

ニューヨークで親しくしている人が、「最近は優秀なクリエイターがみんなGoogleに就職してしまい、あまりの待遇の良さに辞めなくなってしまうから、巷に野心的なフリーランスクリエイターが減っている」みたいなことをボヤいていた。

福利厚生と満足な給与、そして良い仕事があれば、人は満たされてしまう。

noteの月額マガジンはある種、福利厚生ばっちりの企業に自らのデスクを置いたような感覚だ。変動はするものの毎月発生する固定給、低い炎上リスク、「ちゃんとわかってくれる」読者、そして突然打ち切りを告げられる不安もない安心できる環境。

もちろん、内容がつまらなかったり、求められるものでなければ、わかりやすく読者の数は減ってしまうのだけれども、そこは納得できるから別にいい。クライアントと口論して600万円の案件が1つ飛ぶ、みたいな事態にはなりにくい。


ここは、実にあたたかい条件ばかりが揃っている。しかしそこで満足してしまって良いのだろうか? もっと社会に自分の言葉をぶつけるべきなんじゃないか? 


今アメリカを起点として世界各地で起こっているBLMとその背景について考察し、持論を述べた前回のnoteは、膨大な時間をリサーチに注いだ。少なくない人数がわざわざ200円を出して読んでくれたけれども、もし全文無料で公開すれば、その10倍、20倍は届けられたかもしれない。


文章を書く人間としての正解はどっちなのか? と問えば、後者のほうが理想的なんじゃないかと私は思う。ただ、炎上というか、バッシングに怯えてしまい、それは出来なかった。

乾燥しきった空気の中で、すぐに炎上の火は轟々と燃え盛ってしまう。毎日誰かが炎上している中で、自分の安全圏で文章を届ける書き手は現にどんどん増えている。マスメディアから卒業し、クローズドコミュニティに寄っていく。でもそうした流ればかり進んでいくと、情報にアクセスできる/できない格差が大きく広がってしまう。もっと良い形はないものか、と頭を悩ませつつ、ベターな方法として毎月noteを更新している。


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広告塔か、アフィリエイトか。


私はモノが好きである。筋の通ったモノを身近に置くことは、無駄な買い物の総量を減らすことだとも思っているし、消費と廃棄、循環への知識は人一倍高めていきたいと目下勉強中だ。

それゆえに、これは素晴らしいぞ、と思えるモノをよく紹介しているのだけれども、そうするとPR依頼が増えてくる。

けれども、どれだけ素敵な商品であろうが、環境負荷が低かろうが、常日頃愛用していようが、商品の広告やPR契約は一切受けないことにしている(2019年3月以降)。

そうしたマイルールのもとでPR投稿を断った商品でも、自分で買ってみて、それが良ければSNSでシェアするということはよくある。

その商品が楽天やAmazonで売っているのであればアフィリエイトリンクも添える。そうすると、リンクを経由した売上の数%が私の収入になる。noteほどではないけれども、私の収入を支えてくれる安心材料になっている。

もしかしたら、これに関しては「騙された!」というネガティブな感情を抱く人はいるかもしれない。

アフィリエイト、というワードに、なんとなくネガティブな印象を抱く人も少なくない。「楽に稼げますよ」という怪しげな情報商材が多いし(楽ではない)、使ってもいないであろう商品のアフィリエイト紹介ブログが検索上位に出てくるような煩わしさも、その胡散臭さを助長しているのだなぁと思う。


でも、アフィリエイトの仕組み自体が悪だとも思わない。

PR投稿と違って、クライアントチェックが存在しないので、悪い点も含めてしっかりレビューできる。使ってみて悪かったものは、もちろん紹介しなくていい。(PR投稿は、商品が届く前からポジティブなレビューを約束しなきゃいけないことがあまりにも多い。そうじゃない案件もあるけれど)


もちろん一時的に売上を伸ばしたければ良いことばかり書いて購入に誘導すればいいかもしれないけれど、それで購入した商品に欠点が多ければ、すぐに信頼されなくなってしまう。だから必ず欠点も書くし、使ってみて悪かったものは紹介しない。

これは、ほとんど良いことしか書けないPR投稿に比べて、とても誠実なのではと私は思っているのだけれども。


1.広告に起用されるイメージタレント
2.InstagramなどでPR投稿をするインフルエンサー
3.商品をレビューするアフィリエイトブロガー


この中で私がやりたくてやっているのは、3のみ。1と2は発言に制限がかかる可能性がありすぎるので、全部お断りしている。

これがどうやら多くの人の価値観とはずれていて、その判断に引かれることもあるのだけれども。発言の自由度を死守するぞ、が私のモノサシなので、こっちのほうがずっと相性が良い。

もっとも、アフィリエイトを家計を支える大黒柱にしてしまうと、もっと欲しい、もっと必要だと欲張ってしまって、結果、品性を失うことになっちゃうかもしれない。

けれど、愛用品の良さも悪さも説明しつつ、良い道具と出会う機会を提供しできるというのは、なかなか誇らしい営みだ。


購入とセットで語られるべき生産や廃棄、循環については、このnoteで書いているような科学者や専門家の知恵を借りていく場所を作ろうと少しずつ動いている。むずかしい領域なので、どどんと始めることは出来ないけれども、なにごともスモールスタート。小さく始めていきたい。


文章を書くことへの意識が、まるで変わった


コンサル仕事も、ほとんど辞めた。これはネガティブな感情というよりも、単純に、もっと執筆に専念したい、もっとミクロな世界に没頭したい……ということに尽きる。

以前は、社会や組織と繋がることは、自分の強みだとも思っていた。


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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。