見出し画像

秋の夕暮れ、桔梗の花


台風が湿気と暑さを連れ去り、でもまた汗ばんできたかと思ったら涼しくなり……という日々の繰り返し。そうしているうちに蝉たちの命も果てたらしく、あれだけ鬱陶しかった夏が終わることに少しだけ寂しさを感じてしまう。秋はいつも、寂しさを抱えながら始まる。


先日、秋のために……と頼んでいた絵が届いた。

桔梗。今は初夏から咲く品種が多いらしいけれど、万葉集の中では秋の花。

朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど
 夕影にこそ 咲きまさりけれ

(朝顔は、朝露を受けて咲くというけれども、夕方の薄暗さの中でこそ、その美しさが際立つものです)

詠み人知らず『万葉集』巻十2104

今私たちが朝顔として親しんでいるその花は、その当時はまだ渡来していないために、ここで詠まれている「朝顔」は秋の花である桔梗のことである、という説が濃厚なのだとか。だからこれは夏ではなく、秋の歌。そして作者は朝の清々しさではなく、夕刻の侘しさに美しさを見出す。あぁわかるな……だなんて、千何百年も昔の知らぬ人の心に共感してしまう。




この絵は京都に住む画家、森夕香さんに描いてもらった。彼女は岩絵の具で植物画を描くことをここ数年のライフワークにしているのだけれど、そのきっかけは、私たちの母校である京都市立芸術大学がこの秋京都市中心部に校舎を移転するため、その敷地内に自生していた草花が失われる前に描き留めておきたかった……ということらしい。植物たちの肖像画のように、もしくは遺影のように。


7月中旬。京都にある彼女のアトリエを、アメリカから来日していた画家のAesther Changと訪ねたその際に、壁にずらりと並んだ植物画の中から、涼し気なカラスノエンドウの作品を購入させてもらった。

そこから季節が移り、秋の草花を飾りたいな……とあらためて相談して、今回の桔梗を描いてもらった。自分に絵を贈るだなんてこれ以上ない贅沢だけれど、まもなく訪れる35歳の誕生日を理由にしつつ……いや、こうなると冬の絵も、春の絵も欲しくなってしまうのだけれど。

──


これまで絵を購入することは少なからずあったけれど、これを描いて欲しい、と依頼したのは今回が初めて。もしこれが現代アートの領域であれば、こうした作品を作って欲しい……と明確な依頼することは、私は少し憚ってしまう。アーティストによってはそうした依頼を嫌う人もいるし、実際、依頼者の希望とアーティストの目指す方向がぴたりと重ならなければ、散々な結果になってしまうことはよくあることだし(勿論、共に創ることに意義を見出すアーティストもいるのだけれど)。

ただ、彼女は大学では日本画を学んできた。過去の日本画家たちが屏風絵や襖絵の依頼を受けて描いてきたように、日本画を学んだ私の学友たちもそうした伝統的な、あるいは現代的な絵の依頼を引き受けている。そうした話を聞いたり、SNSで仕事ぶりを眺めているうちに、あぁ、絵を頼まれることは彼ら彼女らにとっては至極自然なことなのだよなとあらためて実感していた。


カラスノエンドウから桔梗に掛け替える、それだけでその場の空気が途端に変わる。

深い緑の額にしても良いな…と思案中

同時に、しばらく使っていなかった古墳時代の土師器はじきにパニカムを活けた。

土の表情と、稲穂のような花がまるで田園風景のミニチュアのようで、夜の虫の声によく似合う。


──


Aestherと日本を巡っていた時、度々季節の話になった。

「掛け軸は季節や行事ごとに絵を変えて……」という説明から始まり、季節に合わせた茶席での茶碗、季節を表現する着物、そして居酒屋の小鉢の中にもある季節……ほかにも暮らしのあらゆる場面で、幾度も季節にまつわる説明をしている自分に驚いた。あぁ、私たちの文化はこれ程までに、季節に依って立っていたのね、と。

Aestherと同じように、アジア系アメリカ人として米国で育った日本文学研究者のハルオ・シラネはこう論じている。

アメリカのような広大な国では、サボテンが林立するアリゾナの乾いた大地やツンドラや氷河が広がるアラスカなど、自然環境は地域によって大きく異なり、その気候や動植物はあまりにも多種多様です。ですから、誰もが共有できる文化的象徴として機能するような自然のイメージはほとんどないといってよいでしょう。

ハルオ・シラネ『四季の創造 日本文化と自然感の系譜』より

言われてみれば、そうである。いや、ニューヨークでも桜は咲くし、紅葉は鮮やかで、雪景色は街の汚れを覆い隠し美しく魅せてくれるのだけれど……それはあくまでも、東海岸の一都市での話だ。

その本にはこうしたことも書かれていた。

中国や朝鮮半島、ヨーロッパのような、豚、牛、羊などを食べる肉食の文化と異なり、日本は近代になるまで野菜と魚が主たる食料でした。縄文文化から弥生文化に移行する際、日本の農業では畜産が発達しませんでした。世界の古代文明でもこれは非常に珍しいことです。

鹿や猪などは食べてはいましたが、それらは狩猟で捕えたものであり、人間が育てたのではありません。飼育された豚、牛、羊が一年中、食べられるのとは違って、果物、野菜、魚は季節とのつながりがはっきりと見られます。

現在、日本の文化輸出の重要な一翼を担っている日本料理が、食材の新鮮さや季節と強く結びついているのはこうした理由からです。

ハルオ・シラネ『四季の創造 日本文化と自然感の系譜』より

お皿の中の季節。料亭はもちろん、だれかの家であれ、居酒屋であれ、果てはマクドナルドであれ……どこに行っても、季節と食は共にある。

中でもAestherと旅する中で出会った特筆すべき季節の一品は、彼女の絵が飾られている、尾道は向島にあるnagiという場所で振る舞われた和菓子。

「これ……苔ですか?」と私が尋ねると、作り手であるうたえさんは嬉しそうに「気づいてくれましたか」と答えてくれた。

Aestherが彼女に、菓子作りをする上でのスペシャリティは何かと問うと、彼女は「しいて言うのであれば、季節です」と。向島や、瀬戸内海で採れた旬の果実、そして窓の外に広がる景色が、彼女の創作意欲を大いに刺激している……そのことは、あの場所を訪れればあえて説明されずともよく理解できた。

7月のnagiにて。鮮やかな、夏の緑


ハルオ・シラネにとって、もしくはボストンで生まれ育ち、ニューヨークに暮らすAestherにとっては、これ程までに季節と呼応して成り立つ日本の文化……というのはさぞ珍しいものに映るのだろう。島国の内側で育った私たちだけでは、見過ごしてしまうこともあるのだけれど。

Aesther Chang、彼女の作品と共に



そういえば、秋の草花として桔梗を選んだのは、私がその花を好きだから、という以外にも理由があった。

ここから先は

534字 / 2画像

新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。